明治〜大正期の作詞家。
和歌山新宮藩家老・由比家の長女に生まれた。
新宮の第一尋常小学校(いまの丹鶴小)から大阪のウィルミナ女学校(現在の大阪女学院短期大学)へ進んだ。
さらに東京音楽学校(いまの東京芸大)専修部に学んだ。同級生に安藤幸、2級後輩に滝廉太郎がいた。音楽学校卒業後、音楽教師として府立第一高等女学校(現在の都立白鴎高等学校)付属幼稚園につとめた。
明治32年(1899)、22歳で東基吉と結婚した。
夫・基吉から”子どもにわかるやさしい歌、そして子どもが喜んで歌う歌”を作るように強く薦められた。夫・基吉は33年、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)助教授兼附属幼稚園批評係になった。
日本の幼児教育のメッカともいうべきこの附属幼稚園のリーダーとなった基吉は、これまでの欧米直輸入的な保育手法を、(豊かな語学力を生かして数多くの洋書から吸収した自らの新知識にも基づいて)自由主義的、児童中心的な方向に変えていった(ただし、こうした幼児教育の方向が花開くのは大正中期で、およそ 8年間に及ぶ基吉の努力は先駆的なものにとどまった)。
妻・くめに口語体童謡の創作を薦めたのもそうした教育の推進の立場からであった。わが国黎明期の幼児教育において、児童の主体的興味を尊重する保育を実践し、またわが国最初の体系的保育論の書『幼稚園教育法』を著した人としてすぐれた教育を行っていた。
くめは、明治 33年、わが国で初めて口語体によって童謡を作詞した。すなわち、東京音楽学校2級後輩の作曲家・滝廉太郎に相談し、滝廉太郎と組んで「鳩ぽっぽ」、「お正月」、「水あそび」、「雪やこんこん」などを作った。明治
34年、それらを収めた 『幼稚園唱歌』 が出版された。
基吉は明治 41年から宮崎、栃木、三重の各師範学校長を歴任、最後に大正 6
〜 14年、大阪の池田師範学校長を勤めた(以後、池田に住居を定めた)が、そのころには幼児教育からすっかり離れてしまっていた。
昭和32年(1957)歌集『惜春』を出版。
昭和 33年、NHKテレビの「私の秘密」に出演、その業績が全国に広く知られるようになった。その結果、(昭
34)東京芸大 80周年記念式で音楽教育功労者表彰を受け、(昭 37)新宮市名誉市民となり、池田市文化功労賞も受賞した。
<やりかけ>明治・大正期の作詞家。東京音楽学校専修部卒業後、音楽教師として府立第一高等女学校付属幼稚園につとめる。大阪の池田師範学校校長東基吉と結婚。のち東京音楽学校後輩作曲家滝廉太郎と協力して、従来の文語体唱歌に代わる口語体の唱歌研究に情熱を注いだ。明治34年作品集『幼稚園唱歌』を出版。このころから口語唱歌作詞家として評価される。
88歳で死没。 |