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 永井 ゑい子(松本 ゑい子)  慶応2年3月18日(1866.5.2)〜昭和3年(1928)4月23日     
 明治初期のメソジスト系讃美歌作者であり、明治〜大正期の評論家、詩人である。

<生い立ち> 
 旧姓は松本、家永。名をえい子、英子とも書く。筆名「永井ゑい子」となっている。
 上総国望陀郡茅野村(千葉県木更津市茅野)に生まれた。父は漢学者の松本貞樹である。

 幼児期から書道、和歌を学んだ。父松本貞樹の友人津田仙の関係から三田の救世女学校(青山女学院の前身)で英語などを学んだ。明治16年(1883)生徒兼教師となった。初期のフェリス和英女学校で植村正久の妻となった季野が午前中は生徒、午後から教師を勤めたのと類似している。

 津田仙は、下総国佐倉城下に生まれた農学者で、日本で最初の農学校、学農社農学校を開設して新農法の普及や人材育成に尽力した。明治5年に5人の少女のひとりとして娘をアメリカに留学させた、津田塾創立者の津田梅子の父である。

 仙は、明治8年(1875)に妻とともに宣教師ソウパー,J.から受洗した。現在の青山学院の源流になった学校、あるいは普連土女学校、訓盲院の創立に協力するほか、禁酒禁煙運動の推進、足尾鉱毒事件の解決にも尽力した。
 
 当時の宣教師の設立した女学校いわゆるミッション・スクールは外国の教師による生きた英語に優れていたが和漢学を教授可能な教師が少なかった。ゑい子のレベルでは物足りない教育内容であったかもしれない。

 明治6年にアメリカから来日したメソジスト派宣教師のデイヴィスン,J.C.(Davison,John Carrol)の助手として『附譜 基督教聖歌集』(明治17年、1884)の編集にあたった。基督教聖歌集は、メソジスト教会系の最初の楽譜付きの本格的歌集(歌数247)である。

 同書に多くの讃美歌の翻訳と創作が収められている。和歌の手法の影響が強く出ていることが特徴といえるだろう。ゑい子の女性らしい感性と和漢、英語に堪能な語学力、そして天与の才能と努力が発揮された。

 「あまつましみず」の歌詞はゑい子の代表作である。
 日本基督教団讃美歌委員会(編)の『讃美歌』(1954年初版)217番に収められている。Eiko Nagai 1884とある。

<結婚> 
 明治23年(1890)東京女子高等師範学校を卒業した。同5年ころ外務省翻訳官家永豊吉と結婚し、同28年(1895)に長男を出産したが、このころ離婚して松本姓に戻した。

 明治31年(1891)華族女学校東京女子高等師範学校などの教師、同34年(1901)に毎日新聞社の記者となった。足尾銅山鉱毒事件のルポルタージュを連載した。記事は反響を呼び、被害者支援の推進力となった。

 明治35年(1902)に新聞社を辞して渡米した。”Tama Ide”(井手玉子)の名で日本についての講演、詩文などを公にした。

 明治39年(1906)保険代理店経営永井元と結婚した。
 同年4月18日サンフランシスコ大地震が発生し、市街はほぼ全滅状態で、死者1000人という大惨事が起こった。ゑい子は救済活動にあたった。

 同年7月、カルフォニア大学夏期講習会に参加した。そのままバークレイにとどまって勉強を続け、45年(1912)パシフィック大学を卒業した。

 大正3年(1914)第一次世界大戦が始まると平和を願う詩を書いた。
 『義人全集』4巻(大正15年)にゑい子の「鉱毒地の惨状」が納められた。

 サンフランシスコにおいて63歳で死去した。
 一周忌に遺稿集『永井えい子詩文』(永井元編)が出版された。

<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『讃美歌』 『日本人と讃美歌』

はじまり、はじまり。 http://quwa.hp.infoseek.co.jp/page01.htm
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