前田 若尾    明治21年(1888)10月21日〜昭和22年(1947)10月6日
 大正〜昭和期の教育者。
 
 高知県土佐郡潮江村新町(高知市)に、前田金太郎の4男2女の長女として生まれた。

 当時なお健在であった祖父鉄太郎は、元高知藩士で義侠心に富み、常に漢籍をたしなみ、趣味多く、その峻厳格勤の気風は、幼い若尾の人格形成に大きな影響を与えた。若尾の人生過程に見られる気風のよさと決断力の速さなどは祖父の影響が人格化していることが確かに頷ける。

 地元の小学校を卒業後、大阪に出て働きながら独学を積み、大正3年(1914)25歳のとき、上京して東京女子専門学校の前身である東京裁縫女学校師範部に入学した。この学校は、千葉県出身の渡辺辰五郎によって明治14年(1881)に設立された「和洋裁縫伝習所」であるため、「渡辺」をつけて慣れ親しまれた。

 大正6年(1917)渡辺裁縫女学校師範科を卒業とともに中等学校裁縫教員の免許を取得した。そのとき若尾は28歳であった。
 最初の任地は北海道、次いで群馬県保美濃山補習学校に勤務した。ここは山間の僻地で、当時は村の風紀も悪かったが、ここでの若尾の献身的な努力により生徒や村民の信頼と尊敬をかち得たことが、その後の若尾の仕事に強い自信を与えることになった。

 大正7年(1918)上京して東京本郷にあった私立の錦秋女学校で裁縫、家事、体操の教師をつとめた。のち、キリスト教の洗礼を受け、「宗教色の強いところを希望」して翌年4月からは青山女学院で裁縫科と聖書の講義をすることになった。

 若尾が就任した当時の青山女学院は明治37年(1904)以来、関東圏のミッション・スクールでは唯一の女子専門学校の認可を得ていた英文専門科の廃止を決定していた時期であった。当時は、塚本ハマが大正3年4月から大正12年まで青山女学院高等女学部教頭を務めていた時期でもある。

 青山女学院の英文専門科廃止は、エジンバラで開催された万国基督教宣教師大会において大正5年(1916)を期して、連合基督教主義女子高等教育機関(女子大学)を設ける決議がなされたことを受けての決定事項である。

 その結果、大正7年4月専門学校令による私立東京女子大学設立が実現し、青山女学院の英文専門科は大正9年3月をもって廃止されたのであった。残念ながら若尾の青山女学院における教育活動に関する記事は『青山女学院史』で見ることができない。

 ともあれ、青山女学院に勤務しながら、逆境にある人々のために私塾の設置を思い立ち、三等郵便局設立に奔走したり、菓子店を営んだりした。しかし兼務の限界を知り、専心働く女性のなかに身を投ずるべきと、青山女学院を辞職した。

 保土ヶ谷にあった日本絹撚会社に転職して女工監督の仕事についた。無理解と嫉視の毎日であったが、ここでの四面楚歌に耐えての愛と奉仕の努力は、たちまち労働成績の好転と工員の質的向上を見るにいたった。そして生涯のよき協力者飯島たか(のち、養女となった前田澄子)との交流が生まれた。

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災は、一瞬にして日本絹撚会社の工場をも破壊した。そのとき、梁の下敷きとなったが九死に一生を得た前田若尾は、残る半生を女子教育にささげようと誓った。工場は再起不能なまま閉鎖された。

 関東大震災から1月後の10月3日、若尾は、単身焼け残った平塚村戸越(現在の品川区戸越)の自宅に戻った。全身全霊をささげ、社会のために尽くすべきだと考えた若尾は、自宅の土地730平方メートルに建つ2階家を、震災で希望を失った娘たちに開放して裁縫塾とした。やがて多くの人々の支援によって校舎を建築することができた。

 大正13年(1924)5月3日、平塚裁縫女学校設立の認可がおりた。
 最初の仕事は生徒募集のポスター作成であった。文案を考え、お手本を作り、全員がまねて2,000枚を作成し、糊を煮て、画鋲を用意して、個人宅には手ぬぐいをお礼に、浴場には掲示料50銭を支払ってポスターを掲示した。

 開校の当日は小雨がそぼ降る日であった。
 あれほど苦労したのに応募してきた生徒は6名であった。しかし学年終わりには先生7名、生徒40名となった。

 大正15年(1926)3月26日、第一回卒業式が挙行された。
 校舎が狭かったために小山教会付属幼稚園を借り受けて、選科14名、夜間部11名に対して卒業証書を授与、卒業生一同からは卒業記念としてシンガーミシン1台が寄付された。

 前田若尾は、ますます狭隘となった校舎と、時代の要請も加わり、高等女学校設立を志すこととなった。
 大正15年(1926)4月19日、現在の洗足学園第一高等学校のある碑衾町碑文谷に新校舎土地6,600平方メートルの土地に定礎式を挙行する運びとなった。

 その当日は、風の強い日だった。
 いよいよ鍬入れの瞬間、一陣の旋風が地上に広げられた校舎設計図を中空高く舞い上がらせ、空遠くその影する見えない状態に化した。

 一同が呆然とするなか、下元連建築技師は「図面が空高く舞って行ったことこそ、学校の将来が高く遠く発展する掲示である」と祝辞を述べ、一堂感激の拍手のうちにめでたく定礎式を終えた。

 5月1日、洗足高等女学校設立認可の報を得た。
 校名「洗足」の由来は、若尾のキリスト者としての敬虔な祈りと信仰生活から生まれたものだった。イエス・キリストが人間の贖罪として十字架に架かる前に12人の弟子たちの足を洗ったことによる。

 「自分の行っていることは今はわからないであろうが、後でわかるようになる。あなた方もわたしがしたように互いに足を洗い合いなさい」と神の子イエス・キリストが死に至る直前まで弟子を愛されたことを若尾は学校教育の中心に据えたのであった。

 洗足学園が聖書から校名を採用し、その精神を学園の発展とともに広めようとしたキリスト教徒としての若尾の神の前での謙虚な奉仕の人であったことが証しされている。やがて、現在の目黒区洗足となったのは、学園の発展に伴って地名が変わったのである。

 昭和7年(1932)洗足教会に転入会し、委員(教会の役員、教会によっては「長老」とも言う)として9年(1934)まで名を連ねている。

 ちなみに、この教会は植村正久牧師が富士見町教会の家庭集会として、大正12年(1923)出発したことを緒としている教会である。伝道を開始したころは富士見町教会から河井道大江スミ羽仁もと子らが講話に訪れ、20〜30名の出席者があった。当初は平塚方面集会と呼んでいたが、やがて昭和昭和2年(1927)日本基督教団富士見教会・洗足伝道所となって、今日に至っている。

 『洗足教会五十年史』に黒柳徹子が「洗足教会の思い出」として特別寄稿している。黒柳徹子はこの教会に昭和8年か9年ころ、両親に伴われて出席し、20年ほど過ごしている。NHKの人気ラジオ子ども番組「ヤン坊・ニン坊・トン坊」あたりから足が遠のいた様子であるが、一時は教会礼拝、祈祷会、他の集会と週に3回は通っていたと、本人は邂逅している。

 昭和20年(1945)洗足高等女学校は戦災で全焼した。
 翌年川崎市溝ノ口で再建し、今日では幼稚園から大学院にいたる総合教育機関学校法人洗足学園と発展し、富山県魚津市にも短期大学を開設するほどの隆盛振りである。

 若尾は全国高等女学校長協会理事をはじめ多くの役職についた。著書は『教育と実際』『地軸の探求』など。
 60歳で死去した。
出典 『洗足学園60年の歩み』 『洗足教会五十年史』 『女性人名』
洗足学園 http://www.senzoku.jp/
時代を駆ける女たち http://www.sole-kochi.or.jp/jyoho/play/place1/bae00s3.htm
東京家政大学 http://www.tokyo-kasei.ac.jp/
青山学院 http://www.aoyamagakuin.jp/index.html
洗足教会 http://www.senzoku.org/

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