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 神谷 美恵子   大正3年(1914)1月3日〜昭和54年(1979)10月22日
 昭和期の精神科医。
 
<生い立ち>
 前田多門と房子の長女として、岡山市に生まれる。
 父・前田多門は、教育者。日本文化会館館長としてニューヨーク赴任中、太平洋戦争開戦により抑留された。交換船で帰国後、新潟県知事。終戦直後東久邇宮内閣文部大臣をつとめた。聖公会系の立教中学卒業前に総長タッカーから受洗したが戦後は、聖公会からキリスト友会に転会。国会において絶対神と日本の<カミ>との相違を明快に説明。仏文学者前田陽一は、長男。

 美恵子は、ジュネーブのジャンジャック・ルソー教育研究所付属小学校、国際学校、自由学園(創立者:羽仁もと子)、成城高等女学校で学んだ。昭和10年(1935)津田英学塾を卒業した。

<医師への召命感>
 学生時代に母方の叔父である無教会の独立伝道者金沢常雄の多磨全生園聖書研究会にオルガン奉仕者として出席したときにハンセン病患者の看護婦か医者として働きたいとの召命感を抱いた。

 志を抱いてコロンビア大学医学進学課程に進み、昭和19年に東京女子医学専門学校を卒業した。

 インターン時代に1カ年長島愛生園で実習を行い、ついで東京帝国大学医学部精神か医局において内村祐之教授のともで研究を続けた。内村鑑三の長男である。戦後、父・多門と安倍能成の両文部大臣のもとで大臣官房総務嘱託として占領軍教育情報部との交渉を担当した。

 昭和27年(1952)、大阪大学医学部神経科に勤務し「らい患者の精神医学」により医学博士の学位を受領した。昭和33年から47年まで長島愛生園精神科医師を兼務しながら昭和35年(1960)から神戸女学院大学教授、同38年から47年まで母校の津田塾大学教授をつとめた。

 両親はキリスト友会会員であったが、美恵子は無教会的信仰を当初もっていたようである。しかし、アメリカ留学中にキリスト友会に出席して、議論の多い多弁な宗教よりも沈黙の宗教であるクエーカーに心のよりどころを求めた。

 ハンセン病者への奉仕は自分の罪に対するひとつのあがないの歩みである、と美恵子は考えていた。

 美恵子は、「生きがい論」の提唱者である。ジルボーグの『医学的心理学史』、フーコーの『臨床医学の誕生』などの翻訳書で思想界にも大きな影響を与えた。主書として『生きがいについて』『こころの旅』がある。没後に『神谷美恵子著作集』10巻、別巻1、補巻2が刊行された。夫は細胞生理学者・神谷宣郎
 <やりかけ>
キリスト友会  フレンズ派、またはクエーカー(Quakers)とも呼ばれる。17世紀にイギリスに起こったキリスト教の覚醒運動で、当時形式化していた礼拝、説教、礼典、制度、神学に霊的生命を見いだせない人々の、霊的真理探究の運動として起こった。創設者のフォックス。日本に明治18年(1885)に宣教され、津田仙(津田梅子の父)やホイットニー,W.N.らの支援を受けて普連土女学校(普連土学園)を東京芝に設立した。
金沢常雄
1892.3.17
-
1958.3.4
 日本組合甘楽教会会員の母親の影響で子ども時代から日曜学校に出席し、中学校時代に同教会で受洗。第一高等学校に入学後、姉の夫前田多門の紹介で内村鑑三の聖書研究会に出席し、柏会に入会。留岡幸助の経営する北海道の家庭学校で働いている過程で回心。札幌独立基督教会その他を経て、昭和2年東京に戻り、伝道紙『信望愛』を刊行。そのあたりから独立伝道を開始。
出 典 『キリスト教歴史』  『女性人名』  
自由学園 http://www.jiyu.ac.jp/
神谷美恵子・年譜 http://www.pcs.ne.jp/~yu/ticket/kamiya/kamiya_c.htm
コニノーニア http://www8.ocn.ne.jp/~kunio/index.html
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