スリリングな知的興奮を覚える読書体験だった。イタリア文学の素養はないけれども、『神曲』とその解説本は何冊か読んでいたので、内容はある程度理解できたと思う。専門書としては読みやすい文章にも助けられた。
『神曲』は通読した。読了してはみたものの、内容をきちんと理解できたとは言い難い。それでも、作者の比類のない想像力と壮大な世界観に圧倒される文学の醍醐味は十分に堪能できたと思う。
本書は「世界文学の最高峰」の一つ、という『神曲』を偶像化している要素を次々と解体していく。その論述はまさに快刀乱麻。
「イタリアの国民文学」という教科書的理解の解体。
作者ダンテ=登場人物ダンテという陳腐な関係の解体。
現実の恋愛対象としてのベアトリーチェの解体。
アリギエリ家の所属する階級は貴族ではなく、家業は庶民に近い小金融業者だった。両親を早くに亡くしたダンテの結婚は少年期に行われた可能性が高く、同じく伝統的なダンテ観ではダンテの創作の動力とされた永遠の恋人ベアトリーチェについても、仮に彼女が実在の人物であったとしても、作品中の登場人物ベアトリーチェと実在したベアトリーチェとの関係は希薄であり、作品中に描かれたダンテとの関係は実人生を反映した者ではなく、創作であった。
(終章 結論)
ベアトリーチェは至高の美の象徴。偶像。母であり、恋人であり、導き手である憧れでもある存在。むしろ、実在しない存在だからこそ偶像たりえる。星野鉄郎にとってのメーテル。どうも私はその想像から離れられない。ウェルギリウスとダンテの関係が星一徹・飛雄馬の父子のように見えるという想像も。
ベアトリーチェは偶像だからこそ、あくまで導き手であり、最後に邂逅する最高存在そのものではない。神との邂逅の前に偶像は立ち去る。その理由は「偶像は破壊されたから」と言ってもいいかもしれない。偶像破壊のあとに見神体験が来る。
本書は優れた文学研究であると同時に、ある意味ではそれ以上に政治思想史の研究としての価値がある。イタリアの国民文化の「古層」が見えてくる。都市、個人、商業、そして教会。
著者は『神曲』が実体験ではなくフィクション、すなわち創作であることを繰り返し強調する。フィクションであるがゆえに現実より印象深く残る登場人物。それに先んじる、個性豊かな登場人物(キャラクター)を配置した壮大な創造世界を作り上げることができた。
個人の誕生について。個人という概念が、創作である『神曲』によって生み出されたという解釈は興味深い。
ある理念は、その十全な表現を与えられて人々の間に広まると、社会が変化を受ける前に、すでに理念としての影響力を持って存在し始める。そのような意味で、個人という概念は『神曲』によってその表現を与えられ、社会に出現したのである。
(終章 結論)
政治思想史の研究としても価値が高いと思うのは、こういう指摘をしているから。
世界平和について。世界平和は目的ではなく前提であるという見方は興味深い。諸個人が自由意志に基づいて生きるために平和が必要という考え方。
人々が自由に生きることができて初めて平和と呼ぶことができる。この、言わば目的論的平和観とも呼べる考え方は、現代社会にあふれている単に武力抗争や経済格差がないことを平和とみなす考え方より一歩深く踏み込んだ、人間論的平和観と呼ぶこともできるだろう。
政治的亡命という失意のなかで、これだけの大作を書き上げた勇気と技量と信念に驚きと尊敬の念を覚えずにはいられない。
文学が世界を作る。文学には世界を変える力がある。著者は『神曲』を通じてそう宣言している。これは「文学は実学である」という荒川洋治の言葉の裏付けにもなっている。
著者の緻密な解体作業によって『神曲』は偶像から解放され、一編の叙事詩に戻った。
詩人と作品とは別物。同時に、作品は詩人の人格を反映してもいる。その人格を読み取るためには、深く作品を読み込まなければならない。そういう考えを『大手拓次詩集』に添えられた原子朗の解説で学んだ。
詩人にとっては、しかし、作品こそがすべてで、詩人その人が教養派であろうと、なかろうと、また生ま身の閲歴が悲劇的であろうと、あるいは輝かしかろうと、そうした生ま身のほうから詩は理解されるべきでないことは、いうまでもない。まして、詩が読まれるのに、誤解や伝説的偏見が先入主の役わりをするのであれば、詩はなかば死んだものになる。逆に詩は深く味わわれてゆくにつれて、ことばから、ことばの間から生じる謎が、私たちに語りかけてくる。その痕跡が、しだいに集積され、厚みをおびてきて、詩人の真実をいやおうなしに読者に浮びあがらせてくる。それがまた痕跡に曲折と深みを与えずにはいない。私たちは作者である詩人像をまったく無化してしまうことはできないのである。
著者も、作者ダンテ=登場人物ダンテという表層的な解釈を批判しつつも、ダンテ個人の人格が『神曲』という作品に反映されていることは否定しない。
『神曲』からダンテその人を読み取るためには、もう一度熟読する必要がありそう。
新年、最初に読んだ本が素晴らしい内容だったことは幸先がいい。
今年の読書に期待が持てる。
さくいん:ダンテ、『銀河鉄道999』、偶像、荒川洋治、原子朗