『ルソーにおける国際関係論の視点』。これが私の修士論文のタイトル。そこには彼の戦争観と国際関係観が含まれていた。本書はまさに私が研究していた分野の最新の知見。
本書はバラバラの断章となっていた戦争論を、論理が一貫するように並べてそろえた新しい校訂版を掲載している。この校訂作業が詳しく書かれている。本書の前半にあたるこの部分はあまりに細かい作業なので、ルソーの専門家でないとわからないだろう。
後半は、新しい校訂版を踏まえて、ルソーの戦争観と平和観をまとめた論文集。こちらも、ルソーのテキストを詳しく読み込んだ論文でかなり専門的。
ルソーは18世紀のヨーロッパの国際社会を詳しく正確に理解していて、それに基づいて、ヨーロッパでの国家連合を構想した。これが論文の要旨。
私のアプローチは違っていた。ルソーの平和観は戦争を起こさない国家間の法制度や戦争を防止する国家連合でもなく、「平和を創る人間」を育てるという人間観に基づいている。
この考え方は『エミール』では家庭教育を通じて、また『社会契約論』では国家制度を通じて書かれている。ルソー思想の根幹は制度論ではなくその人間論にある。これが私の論文の要旨。これは、学部時代に書いた論文と内容と同じ。修士論文は、学部時代の論文を越えることはできなかった。
学部時代には翻訳で読んだ全集をフランス語の原典で読み直す。これが修士課程での私の目標だった。ところが、フランス語力がなかなか向上せず、原書を読み込むという作業は進まなかった。
加えて「平和を創る人間」をルソーの著作、とりわけ、その人間観や教育思想が込められている『エミール』に読み込むというアプローチは"Reading Roussau in the Nuclear Age" (Grace Roosevelt)で詳述されていた。この本を読んだときは、もう修士論文に書くことがなくなったと思い、ほとんど絶望した。
そうして修士論文はまったく中途半端な出来で終わり、進学も留学も、私はあきらめた。能力、努力、財力という研究者になるための資質が私には欠けていた。
新しい校訂版に基づいた論文でもまだ制度論や国際法に対する考えなどが中心にあり、「平和を創る市民」という観点は深まってはいない。まだ深掘りする余地はあると思う。
たとえば、一般意思の問題。多くの研究者は『社会契約論』で展開された国家が創られたあと、市民は「一般意思という国家制度」に自分の「特殊意志を譲渡する」と考える。
私の見方はこうした通説とは違う。市民は制度に意思を譲渡するのではなく、自己だけに向けられた特殊意思をまず国家規模に広げ、そのあと一般化する。言葉を換えれば、人間はまず市民に育てられる。そのあとで、排他的になりがちな「祖国愛」を一般化して、つまり、国境を乗り越えて愛情を世界に向けられる世界市民になる。この点だけでも、まだ研究する価値はあるだろう。
とはいえ、私はもう学術論文を書く力はない。その意志もない。本書を読んでも難しいと思うだけで、知的興奮は正直なところ得られなかった。私は私の心の平和を取り戻すことで精一杯だから。
さくいん:ジャン=ジャック・ルソー