與那覇潤について、斎藤環との対談本『心の病気になってはいけないの?』で興味を持ち、ちょうど再開した図書館で著書を借りてきた。
本書は平成の歴史を主に知識人と呼ばれる人たちの動向から批判的に検証しつつ、自らの双極性障害の発症を語る、不思議な構成になっている。
著者は平成期を反知性主義の時代と見ており、令和の時代に知性の復権を期待している。
ここでいう「知性」を『心を病んだら』の感想では私は「リベラルアーツ」と言い換えた。さらにここでは、「教養」と言い換えることもできるだろう。人々を押し流す時代の流れに安易に流されない、主体的な知のあり方。
「教養」と書いたところで、著者が考える「知性」に、戦後知識人のあり方や「教養」の変遷を研究してきた竹内洋の考える「じゃまをする教養」に近いものを感じた。
「じゃまをする」とは文字通り、時代の流れに黙って流されていかない知力を指している。竹内は「対面的人格関係」とも呼んでいる。
二人に共通するのは「対話」の重視。
しかしいま、私は悲観していません。なぜなら、病気になって強制的に大学の外へと追いやられても、いくらでも知性にもとづいて、対話ができる人びとがいることを知っているから。
(第6章 病気からみつけた生きかた)
與那覇は『心を病んではいけないの?』でも、斎藤環とともに「対話」の重要性を指摘していた。
対話、すなわち連帯と孤独について、孤独な知的営為があって初めて連帯が成り立つと私は考えている。
連帯のなかに孤独があり、孤独の末に連帯がある。教養とは、前者に耐え、後者を模索していくことではないだろうか。それは一直線の道のりではない。孤独と連帯、どちらが先にくるかは、人それぞれではあるとしても、それらの往復こそ「教養」ではないか。
もう一点、與那覇と私との見解の違いを示しておく。
與那覇は『知性はしなない』を次のように締めくくっている。
知性ある人は、その発動において、くさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは、新しい世界である。
万国の知性ある人びとの団結を!
同じように『共産党宣言』の末尾をもじって私は次のように書いた。
万国の素人よ、孤りでやれ!
オレも独りで書く!
(丸山眞男と小林秀雄――「思い出」と「伝統」についての覚書)
「素人」と書いたところは、今なら「モグリ」と書きたい。
ここでも「団結」という言葉を使って「対話」や「連帯」を重視する與那覇と「孤独」に積極的な価値をみる私の見解の違いは際立っている。
この違いはどこから来るのか。
それは、追い出されたとはいえ、與那覇は大学という知的世界にいたところにある。
もし與那覇が大学人でなかったら『知性は死なない』は上梓されなかっただろうし、斎藤環との対談も実現しなかっただろう。
こう書いていくとあまりに僻みっぽくなって気が滅入るけれども、思い切って書いておく。結局のところ、與那覇はプロフェッショナルの世界にいる。彼のいう「団結」はだから知のプロフェッショナルたちの「団結」であり、素人やモグリの「連帯」ではない。
素人にできる「団結」はせいぜいSNSに「いいね!」をつけるくらい。長い時間の対談や往復書簡をする機会は、少なくとも私にはない。
僻みややっかみに読めるかもしれないけれど、與那覇と私とでは住んでいる世界が違うのだから、知的営為のあり方が違うのも当然。
私は今後も一人で読み、一人で書く。客観的にはまったくの素人だけれど、心意気だけはモグリでいたい。
孤立は好まないけど、私は孤独を求める。団結するつもりはないけど、連帯する心構えはできているつもり。
蛇足を承知で追記。一風変わった経歴と舌鋒鋭い論法。いわゆるトガったキャラとしてを與那覇を表舞台に出したいマスコミ人もいるに違いない。
安易にメディアに釣られないでいてほしい。