日曜日の朝、京急線、逗子・葉山駅からバスに乗って美術館へ行った。
香月泰男がシベリア抑留をテーマに描いた画家、ということは知っていた。作品を見るのは初めて。どうしても見たいと思っていた。見にきてよかった。
出征する前には明るい作品もある。復員後は次第に重い色調が増える。抑留体験を中心に据えた「シベリア・シリーズ」は重い。
絵画だけでなく、展示のところどころに掲げられた香月の言葉も重い。
記憶につながる制作だから
夢の中の色と同じで、あまり多くの色を使えば
ウソになる。
私の思いをジカに人々に訴えたい。
言葉の通り、「シベリア・シリーズ」はモノトーンの連作。太陽さえ黒い。痩せ細った人は黒々とした身体に瞳だけ白く開いている。
香月は、しかし、連作を制作するきっかけとなった体験は黒ではなく、赤だった。捕虜となり移送される途中、肌を剥がされた赤い屍体に衝撃を受けたという。それは現地民に私刑された日本兵の屍体だった。
この体験は「1945」という作品になった。傷だらけの白い屍体が横たわっている。
戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければなかった者により大きいものがある。
この言葉を読んだとき、同じようにシベリアに抑留された石原吉郎の「<人間>はつねに加害者のなかから生まれる」という言葉を思い出した。
人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。
(「ペシミストの勇気について」『石原吉郎詩文集』)
香月も、おそらくは、自分が加害者の側にいたことを思い知ったのだろう。彼の作品には自分が「捕囚者」という被害者の側にいるだけではなく、同時に「侵略者」という加害者の側にいることを悟った「危機」と「孤独」が感じられる。
忘れてしまいたいような過酷な記憶を自覚的に思い出し、創作物に表現することはとても辛くて難しい作業に違いない。同時に、それをやり遂げなければ、深く傷ついた自分の心は明るさを取り戻すことはできない。表現者はそのように考えるから、過酷な記憶を直視し、あえて自分の外へと押し出す(ausdruck)のだろう。
2点、非常に印象に残った作品がある。「奉天」と「点呼」。前者は捕虜として連行される抑留の始まり。後者は復員船に乗り込む抑留の終わり。
「奉天」では、多くの人が塊になって黒く塗りつぶされている。一人一人の姿は見えない。個性も人格も消されている。「点呼」では、まだ塊になっている集団もあるが、一人の人間として描かれている者もいる。これから個性と人格を取り戻そうとしているかのように。
「シベリア・シリーズ」は捕囚から解放までの連作ではあるが、描かれた順序は抑留の時系列とは違う。トラウマ的な記憶は、そのように断片的なものが徐々に呼び起こされ、自分の中で整理がつく輪郭を持つようになるのだろう。中井久夫の言葉を思い出した。
外傷的事態は、しばしば「語りえないものをあえて語る」ために、ストーリーは、一般に、現像中の写真のように、もやもやとしたものが少しずつ形をとってくることが多い。(「トラウマとその治療経験——外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷(sign, memory, trauma)』)
本はめったに買わないけれど、図書館で借りることができない展覧会の図録はよく買う。今回も、これから「シベリア・シリーズ」を見返すことがあるだろうと思い、購入した。
常設展で松本竣介『立てる像』に再会した。焦土に一人で立つ「孤独」を表現している。でもこの作品には「危機」ではなく、力強い「希望」が感じられる。それゆえ香月の作品に描かれた「孤独」には、いっそう深い悲しみが込められている。
帰宅して、図録を眺めながら、そんな風に感じた。
「シベリア・シリーズ」は絶望画集と呼びたい。調子がいいときよりも、気分が落ち込んでいるときに眺めると気分が落ち着きそう。
さくいん:石原吉郎、孤独、中井久夫、松本竣介、悲しみ(悲嘆)