天皇を追いながら歴史をよんでいきます
50代:桓武(かんむ)天皇 在位781-806
781 病気にかかった父[光仁天皇]から43歳で譲位。桓武平氏の祖。
784 【長岡京】遷都
仏教と政治を切り離すように、奈良から京都(長岡京に10年、その後、平安京)に都を移し、中国の唐に倣(なら)った碁盤の目のような計画的都市として建設した。※京都御所は火事による焼失で当時より2km東に移動しているが、この遷都から明治時代まで歴代の天皇の皇居はずっと京都に置かれることになった。
【律令制(りつりょうせい)】
784 [藤原不比等]の孫[藤原種継(たねつぐ)]が桓武天皇から信頼され[大伴家持(おおとものやかもち)]を出し抜いて正三位に昇進。長岡京の造営の責任者に。[大伴家持(おおとものやかもち)]は遷都に反対していたり、桓武天皇と考えが食い違うろころがあった。
【大伴家持(おおとものやかもち)】
738年20歳から律令体制のもと政治にたずさわり桓武天皇を威圧した。784年46歳で蝦夷討伐の責任者に任命された。蝦夷に赴任し、体調不良で戻った時には長岡京に遷都されていた。[大伴家持]は遷都に反対していたので「鬼の居ぬ間に洗濯とはこういうことか」と言ったとか。その年に67歳で死去。生前は暗殺事件にかかわり左遷されたり流罪になったりする傍ら、和歌に長け、万葉集の編纂にも携わった。百人一首では「中納言家持」として♪かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける~)
784 [桓武天皇]は、唐が戦いにより領土を広げていくのを真似て、当時の外国ととらえられていた蝦夷(えぞ・東北地方)を朝廷の支配下にしようと[大伴家持(おおとものやかもち)]を蝦夷討伐の責任者にするが、蝦夷軍の総大将[アテルイ](右図)に翻弄(ほんろう)され、うまくいかない。784[大伴家持]は 780年から30年も戦うことになる。
そんな中[坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)]・・・「怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児(ちご)もすぐ懐に入るような人物」が、792年に3度目蝦夷征討に抜擢される。[坂上田村麻呂]はそのカリスマ性で、東北(蝦夷)の人に農業技術などを伝えて仲良くなり、蝦夷軍の総大将[アテルイ]も降伏させてしまう。[アテルイ]と500人は京都に護送され処刑された。[坂上田村麻呂]は「アテルイは偉大な人物だ」と処刑をしないよう頼み込むが、かなわなかった。しばらく蝦夷の脅威はなくなったが、東北遠征は百姓の暮らしを苦しめていると知り東北を統治するまでにはならなかった。
785 [藤原種継]48歳、長岡京の夜の見回りの時に矢に刺されて暗殺される。犯人は[大伴家持]ら、ということで数人が処刑された([大伴家持]は死後だったが流罪に)。ここで[桓武天皇]の後継者であった弟の[早良親王(さわらしんのう)]にも共犯説があがり、絶食で無罪を主張したが、疑いが晴れぬまま餓死してしまう。その後災害が重なり、餓死した[早良親王]の祟りと恐れた桓武天皇は再び遷都を決意する。
788 [最澄(さいちょう)]が比叡山(滋賀県)に天台宗総本山「延暦寺(えんりゃくじ)」を開いた。
794 【平安京】遷都
796 [坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)]が[桓武天皇]に征夷大将軍に任命される。
797 「勘解由使(かげゆし)」という地方行政を監視する役職を設置。
802 [最澄]が[桓武天皇]から唐への短期留学生に選ばれ804年7月~805年5月、唐で天台宗の修業をする。
806 闘病の末、在位中に69歳で崩御。死の直前にも[早良親王]の祟りを恐れていたとされる。
51代:平城(へいぜい)天皇 在位806-809
806 32歳で即位。桓武天皇の息子。
もともと病弱ではあったが、桓武天皇の政策により苦しくなっていた財政を再建させようと、リーダーシップを発揮して尽力した。しかし后の母[藤原薬子]を好きになってしまい、その関係を利用した兄[藤原仲成(なかなり)]が宮中で横暴にふるまう。身から出たさびというように、政治と関係ないきっかけで、政治的にも反感をかう。
809 病気のため3年で弟に譲位した。[平城天皇]も病の原因は、無実を訴えながら餓死した[早良親王]の祟りかと恐れていた。
52代:嵯峨(さが)天皇 在位809-823
809[嵯峨天皇]即位
譲位したものの病気から回復した[平城天皇]は、[藤原薬子]とその兄にそそのかれ、上皇として政治に復帰。
810【薬子(くすこ)の変】
[平城天皇]は平安京を廃止して平城京に遷都しようとして[坂上田村麻呂]に遮られ断念。[藤原薬子]は自害、横暴だった兄[藤原仲成(なかなり)]は射殺された。
天皇継承者だった[高岳親王]は地位を追われ、僧侶となって空海の弟子になった。60歳になって仏教の師を探しに中国(唐)へ。そのころの唐では仏教より道教を重んじており、仏教の師が見つからないと今度は天竺(てんじく・インド)へ。しかし船の行方はわからなくなり、マレーシアに流れ着いて16年そこですごし亡くなった説あり。なかなかの行動力。
811[坂上田村麻呂]死去。53歳。
814[嵯峨天皇]は子だくさんで50人も子がいたので、後継者にならない地位の皇族を天皇家からはずす「臣籍降下(しんせきこうか)」が行われ、32人が「嵯峨源氏」の姓をもらい降下。降下と言っても、由緒ある姓が与えられることで出世する道も開けているが、地方の武士や豪族になりさがる者も多い。まとめて源氏の姓を与えることで、藤原氏などほかの姓に負けずに存続することを願った。
816[空海(弘法大師)]が高野山(和歌山県)に真言宗総本山「金剛峯寺」を開いた。
53代:淳和(じゅんな)天皇 823-833
823 37歳で即位。[嵯峨上皇]は院政。
824 [平城天皇]崩御。薬子の変のあと出家して孤独な最期だった。
825 桓武天皇の子[葛原親王]が「臣籍降下」を早めに希望。早く臣籍降下し姓をもらった方が出世しやすいという理由で[嵯峨上皇]が認める。[嵯峨上皇]の子孫には「源氏」を与えていたので、それ以外(兄弟の子孫)には桓武天皇が開いた平安京にちなんで「平」の姓を与え「桓武平氏」と呼ばれる。その後も何度も臣籍降下は行われるが、源氏の方が若干格上感があるので、平安中期以降は源氏を希望する者が増え、新しい平氏は出なくなった(諸説あり)。
833
54代:仁明(にんみょう)天皇 833-850
55代:文徳(ぶんとく)天皇 850-858
56代:清和(せいわ)天皇 858-876
858 文徳天皇の子。9歳で即位。
866 平安京の応天門が火事になり、天皇の身に危険が及ぶ可能性があったということで、実権をにぎっていた[藤原良房]は、邪魔な敵勢力を追い詰めるきっかけにした。このあと[藤原良房]が摂政になる。
876 陽成天皇に譲位。
57代:陽成(ようぜい)天皇 876-884
876 9歳で即位。
58代:光孝(こうこう)天皇 884-887
59代:宇多(うだ)天皇 887-897
889 [高望王(たかもちおう)]は臣籍降下で[平高望(たいらのたかもち)]となり、関東で開墾をすすめ武士団を形成、勢力を拡大した。
894[菅原道真]が唐の混乱や日本文化はもう十分発達したこと、日本が下に見られていて不満だったので遣唐使を廃止するよう提言する。
907年に唐が滅びる。
902「荘園(権力者の私有地)整理令
938「臣籍降下」が行われた。皇族ではなくなるかわりに由緒ある姓を与えられ、出世の道が用意されたが、落ちぶれて地方の武士や豪族になるものも多かった。[清和天皇]の子[源経基(つねもと)]が「清和源氏」の姓をもらい武蔵(むさし東京)の武士となり、その子孫が源頼朝。
【承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)】このころの地方武士が強いことがわかる2つの乱
939-940「平将門(たいらのまさかど)の乱」
平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと) VS 平将門(たいらのきよもり) In関東
[平将門]は桓武天皇の子孫であり、下総(しもうさ千葉)を拠点に一族らと戦い勢力を関東一帯に広げたが滅びた。
939「藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱」
源経基(みなもとのつねもと)・小野好古(おののよしふる) VS 藤原純友 In瀬戸地方
[藤原純友]は伊予(いよ愛媛)で海賊討伐などしていたが、朝廷と対立して海賊のリーダーとなり大宰府を占領するまでにあったが滅びた。
[源経基]は清和源氏の祖である。
64代:円融(えんゆう)天皇 在位969-984
年 媓子が没したため、空いた中宮位を遵子ともう一人の女御詮子が争った結果、969年 11歳で即位。12歳年上の藤原媓子(ふじわらてるこ・藤原兼家の長女)が皇后。円融天皇は中継ぎの天皇と思われていたので、兼家が長女を差し出したことに円融天皇は喜び、夫婦仲も良かった。しかし媓子は33歳で崩御。空いた中宮の座を、藤原頼忠と藤原の兼家の娘で争う。979年 遵子(のぶこ・じゅんこ)が第一皇子の懐仁親王を産んだ詮子ではなく関白頼忠の娘遵子が中宮となった。長女[藤原あきこ]を后にさせる。のちの一条天皇を産むも、関白藤原頼忠の娘の遵子に后の座を奪われたことで、父兼家と共に里邸の東三条邸にこもり、たびたびの召還にも応じなかった。円融天皇とうまくいかない詮子が詠んだ歌に「なきに劣りて生ける身の憂き」(死んだ人よりひどい状態で生きる身はつらい)というものがある[
65代:花山(はなやま)天皇 在位984-986
藤原為光の娘・藤原忯子に劇的に心動かされた天皇は、忯子を女御とし寵愛したが、妊娠中に死亡した傷心から19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した<『栄花物語』『大鏡』による>『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。
66代:一条(いちじょう)天皇 在位986-1011
996 菅原道真が左大臣になる
【長徳の変】
1000 すでに「藤原遵子」という皇后がいる一条天皇に[藤原道真]は中宮という地位をつくり長女「」
67代:三条(さんじょう)天皇 在位1011-1016
1012 [菅原道真]が次女を后にさせる。
68代:後一条(いちじょう)天皇 在位1016-1036
1016 後一条天皇(后は藤原道真の長女、藤原威子)が天皇に即位(8歳)。[藤原道真]は摂政となり事実上の最高権力者に。
1017 [菅原道真]は摂政の地位を息子[菅原頼通](27歳)に譲る。
1018 後一条天皇に[菅原道真]は四女を后にする。
1028 菅原道真 死去
1053 「平等院鳳凰堂」建立。[菅原頼通]が自分の権力を示そうとした。
1069「荘園整理令」藤原氏の権力を天皇家に戻そうとし、私有地である荘園を整理する。
1074 [藤原頼通]死去。藤原氏の摂関政治が終わる。
72代:白河(しらかわ)天皇 在位1072-1086
1072[後三条天皇]から譲位され20歳で即位。
1073 後三条天皇病没。親政が続くよう荘園整理に力を入れた。
仏教を信仰し「勝」の字がつく寺を6つ建立した。「法勝寺」「延勝寺」「最勝寺」など。
1086[白河天皇]から譲位され8歳で息子が即位。[白河天皇]34歳が上皇となり天皇と同等の権力を持ち「院政」を開始。まわりの僧侶や武士が力をつけてきたので、天皇家の政治を守るために、次の鳥羽天皇、朱雀天皇の代まで43年間、権力を持った。
1096出家して[白河法皇]44歳となる
上皇と天皇とに、とりまきの貴族たちが分かれて、権力争いが起こりやすくなっていく。政治に入ってきがちだった[藤原氏]は弱くなる。寺院の僧兵たちの発言が強くなり、護衛のために武士と連携するようになる。→平氏
「前九年の役」[源頼義]
「後三年の役」[源頼家]清和源氏が関東の豪族に支持されるきっかけを作った人。ここで活躍した[源義家]の子孫が[足利尊氏]
1107[堀川天皇]29歳で崩御。5歳び[鳥羽天皇]が即位。
1108「源義親の乱」[伊勢平氏の平正盛]が[源義親(悪対馬守)]を討伐して[白河法皇]を喜ばせ、地位と名声を得た。
[源氏]からしたら、身内の者がグレて対馬守としての務めを果たさず、庶民を殺したり、税を横領したり、それをやめさせることもできず憤死に値したが、[源義忠]が平氏と仲良くする処世術にたけており、血をつないだ。
1123[崇徳天皇]3歳で即位。[鳥羽上皇]即位。
1129[白河法皇]77歳で崩御。[白河法皇]は強大だった権力のため[治天の君]と言われる。[鳥羽上皇]が院政を開始する。
1141[近衛天皇]に譲位。[崇徳天皇]は院政ができると思っていたが、[近衛天皇]は養子ではなく弟扱いだったため院政ができないと判明。あきらめ、和歌に熱中した。
1141[白河法皇]の希望3歳で譲位。
1155[近衛天皇]病気のため17歳で崩御。
77代:後白河(ごしらかわ)天皇 在位1155-1158
1155[次の二条天皇]の中継ぎ的な役割として29歳で即位。
Winer! 1156年 保元の乱 後白河天皇 弟 兄 崇徳上皇 藤原忠通 兄 弟 藤原頼長 平清盛 甥 叔父 平忠正 源義朝 子 父 源為義 兄 弟 源為朝 源義康 |
1155[鳥羽法皇]崩御 まわりがざわつく。
1156「保元の乱」
皇位継承問題(白河上皇の不倫がきっかけ)と摂関家(藤原氏)の内紛により、朝廷が[後白河天皇(弟)]と[崇徳上皇(兄)]分裂。
[後白河上皇]が、東日本の清和源氏(河内源氏)と、西日本の桓武平氏(伊勢平氏)を味方につけ、[源義朝・平清盛]とともに高松殿(京都)に兵力を集め[崇徳上皇・藤原頼長]を攻撃し勝利した。[崇徳上皇]についた父親[源為義]を息子の[源義朝]が処刑した。骨肉の戦い!
[源義朝]は[平清盛]の方が自分より重用されたので恨みを持つことになる。
78代:二条(にじょう)天皇 在位1158-1165
1158[二条天皇]即位
1159「平治の乱」[平清盛]VS[源義朝](頼朝・義経の父)
反乱を起こした[藤原信頼]は、才能は平凡なのにご機嫌取りで[後白河上皇]の側近として、のし上がってきた。ところが大好きな[後白河上皇]との間を脅かす[信西(もと僧侶だが賢いので重用された側近)]が気に入らず、保元の乱で平氏びいきが不満だった [源義朝]を誘い、信西を斬首する。これを聞きつけた[平清盛]が[後白河上皇]と[二条天皇]をお守りする形で戦い、大好きな[後白河上皇]から見捨てられた[藤原信頼]は殺されてしまう。情けない人として有名。
敗北した[源義朝]たちは東国を目指して東海道を下る。その時、次男[朝長]は落ち人狩りをしていた比叡山の山法師の矢に討たれ、その傷が悪化し1160年2/8死去。[義朝]は再び京に戻り、平清盛を暗殺しようとするが失敗。逃げて愛知の知人にかくまってもらうが、懸賞金がかけられ、2/11入浴中に知人に殺された。長男[善平]は飛騨(岐阜県)まで逃げ着いたが、父の訃報を聞き、平清盛と相打ちになろうと京に戻り、下人を名乗って暗殺の機会をうかがっていたが、立派な風貌が下人に見えず捕えられ、3/4六条河原で強気なまま斬首された。「うまく首を斬らないと雷になって殺しに来るぞ」など最期まで大口をたたき、実際、その時、首を斬り担当だった難波経房は8年後、平清盛のお供に滝を見物に行った時に雷に打たれて死んだという。三男[頼朝]は、東国を目指す途中ではぐれて捕えられ、3/11死刑をまぬがれ伊豆に流刑となった。源義経(牛若丸)と2人の弟も平家につかまるが、まだ10歳足らずの幼さだったので、出家する条件で命拾いする。別々のお寺に預けられ[義経]は仏教の修行の傍ら、夜は天狗に武術を教わっていた、なんて話もある。その後、奥州(東北・陸奥)の藤原氏にかくまってもらう。(1180年、兄]頼朝]の挙兵を聞きつけ合流する)
1160~1185年、平清盛による武家政権。
79代:六条(ろくじょう)天皇 在位1165-1168
1166 [源頼朝]伊豆の豪族、北条時政の長女[政子]と結婚。
1167[平清盛]太政大臣となり平氏政権はじまる。
1168[平清盛]病に倒れ、表向きは政界から引退する。
80代:高倉(たかくら)天皇 在位1168-1180
1169 [後白河上皇]は出家し皇子(息子)を[後白河法皇]に。[平清盛]の娘が入内(じゅだい)=皇后になること。これにより後白河法皇と平清盛は友好的になる。
1170 平家と対立気味だった[後白河法皇]は日宋貿易を積極的に行う。新しいものを好む点では[平清盛]と意見が合い、天皇としてはタブーとされた宋の人と面会をしていた。[平清盛]も莫大な富を手に入れつつ、宋のお金を流通させて通貨経済の基礎を築いた。
1179[平清盛]がクーデターを起こし後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。このころ、空気が変わり始める。皇子の[以仁王]が各地の源氏に声をかけ挙兵を試みたが、ばれて討たれる。
[源頼朝]は、[以仁王]の声かけには乗らず、まず[北条時政]に命じて伊豆を初めて政治的に制圧し、そのあと神奈川、千葉と進み、各地で仲間を集めて平氏への反撃を始める。 [源義経]も合流し、平家軍を蹴散らす。[源義経]は京都で[後白河法皇]に気に入られ、政治に利用されてしまう。
81代:安徳(あんとく)天皇 在位1180-1185
1181平氏の独裁が大きな反発を受け、源氏による挙兵も相まって平氏ピンチの中[平清盛]死去。熱病で3/20病死(64歳)。
1182[源頼家]鎌倉にて誕生。(18才で征夷大将軍につくが独裁的だったので、23歳の時、修禅寺で暗殺され、その後は源氏ではなく北条氏に実権を握られてしまう)
82代:後鳥羽(ごとば)天皇 在位1183-1198
1185壇ノ浦の戦い [源頼朝][源義経]の活躍もあり平家追討を成し遂げる。源頼朝が平清盛の子ども[平宗盛]に和睦を申し入れたが、平清盛の遺言、源氏には屈しない!と受け入れず、平家滅亡。
【国風文化】
894年遣唐使廃止以降、中国に文化が入らなくなり、日本国風の摂関政治の頃栄えた貴族文化。仮名文字から源氏物語、など
>>>鎌倉時代へ続く
次の12世紀の院政期の文化にも影響を与える。