天皇を追いながら歴史をよんでいきます
43代:元明(げんめい)天皇 707-715(女帝)
[42代:文武天皇]が25歳で病に伏し、跡継ぎの息子(聖武天皇)は5歳だったので、息子が大きくなるまでの間だけでいいからと母にお願いし、中継ぎということなら、と即位を決めた。
【藤原京から平城京へ】
〇藤原京は・・・
[41代:持統天皇]が694年作った日本初の計画都市で、唐の長安を手本とし、瓦の屋根、朱塗りの柱など、華やかで、大きい規模だった【藤原京】は、持統天皇→文武天皇→元明天皇と三代にわたり住まれたが、16年で首都としての役目を終えていく。
〇藤原京から遷都した理由は・・・
●藤原京は川が遠く、下水がたまり不快だったり、不衛生さから病気が流行したからとか、
●藤原京は文武天皇が早くに亡くなったり縁起が悪いとか、
●藤原京は昔ながらの豪族が多く、政治の中心にいた[藤原不比等]は平城京にゆかりがあったから、など諸説あり。
【藤原不比等の台頭】
672年【壬申の乱:じんしんのらん】で[40代:天武天皇]VS[38代:天智天皇(中大兄皇子)]は敵対関係に。敗者[38代:天智天皇]のお気に入りだった中臣鎌足の子孫[藤原氏]は、勝者[40代:天武天皇]時代に冷遇されてしまった。
686年[40代:天武天皇]が亡くなると、それまでは天武天皇の味方だった[41代:持統天皇]&[43代:元明天皇]、2人とも[38代:天智天皇]の娘なので、藤原氏は冷遇から解除された。[藤原不比等]は才能を発揮し、政治の表舞台に立つ。[藤原不比等]は【平城京]へ遷都し、政治を自分の手で推し進めようと考えていた。
708「和同開珎 わどうかいちん」発行。
埼玉県秩父市で銅が採れたことを記念して「和銅」と名付け、唐のお金をまねて作った、国として流通させた初めての貨幣。これより前に富本銭(ふほんせん)が存在していたが、国で正式に流通させたものではない。
和同開珎1枚を「1文(もん)」と呼び、1文でお米2kg(ということは1000円くらい?)だった。流通させるために平城京の建設の賃金をこれで支払ったり工夫をしたが、物々交換が主流だった時代、なかなか流通しないし、鋳造技術が良くないのでボロボロになるのも早い。708~958年まで全12種類(「皇朝12銭」と呼ぶ)を発行したけれど、結局あまり定着せず、発行をあきらめてしまった。
次に貨幣が作られるのは、ずっとあとの江戸時代となる!
710【平城京】遷都。奈良時代はじまる
【平城京】唐の長安を手本として、今の奈良公園、東大寺のあたりに作られ、74年間も首都として天皇が暮らした。【藤原京】と違う点は、京を塀で囲い、大きな門からしか出入りできないようにした。
【古事記・日本書紀・風土記】の編纂を始める
それまでの歴史書は、火事で焼けてしまっていたので、元明天皇は、天皇家の力をうまく織り込んだ歴史書を作ろうと思った[藤原不比等]は、国内向けと、中国など国外向けの2種類の歴史書を編纂するように指示する。
天皇のお世話係(=舎人(とねり))であった[稗田阿礼・ひえだのあれ]は、すごい記憶力で、昔の史実などをすぐ暗記できる才能があったので、古事記編纂にかかわらせた。
日本書紀の編纂を主導したのは中臣鎌足の子[藤原不比等・ふひと]
古事記を書き記したのは[太安万侶・おおのやすまろ]
【歴史書を作ろうとした背景】
[元明天皇]、[元正天皇]は、中大兄皇子こと[天智天皇]の血統なので、645年「乙巳の変・いっしのへん」で敵対した蘇我氏(入鹿と蝦夷)を悪く書くことで、自分たちの政権の正当性を強調した。内容が曲げられて天皇家に有利に書かれたものもあるかもしれないが、日本が天皇家を現在にもしっかり引き継いでいるという象徴になり、日本の礎いしずえになったとも言える。
712「古事記」完成。神話的な歴史書。全3巻。国内向け。和化漢文。出雲の神話「因幡のしろうさぎ」も登場。
713「風土記(ふどき)」編纂を[元明天皇]が命じる。各地の地名の由来、特産物、土地の状態などの情報を集めて納税の役に立てた。「大宝律令」で全国を統一し、地方の詳細を知る必要があったので、各地方ごとの地名、地名の由来、産物、言い伝えなどを書かせ、地方統治の参考にした
715 [元明天皇]譲位。老いを理由に、娘の[元正天皇]32歳に譲位する。42代[文武天皇]の息子[聖武天皇]はまだ14歳だったので、また中継ぎ。平城京の中が、安心して[文武天皇]に譲位できないような微妙な状況だったとみえる。
44代:元正(げんしょう)天皇 715-724(女帝)
715 元正天皇即位。35歳、女帝。
[聖武天皇]14歳は、[藤原不比等]の娘との子という、天皇家以外の血が入った初めての天皇になるので、反対する声もあり、[元明天皇]から中継ぎの中継ぎということで、母から娘への譲位。続日本書紀「慈悲深く美しい」とある。[藤原不比等]や[長屋王]に支えられ9年間即位する。
720[藤原不比等]逝去。娘を聖武天皇と結婚させることができて、満足に眠りについたことでしょう。(正妻である[光明皇后]となったのは729年)。
[藤原不比等]は、唐や新羅の侵略を防ぎ、今の日本の礎いしずえを築いたといえる、立派な人だった。
720「日本書紀」完成。歴史書。全30巻。国外向け。漢文。[藤原不比等]が編纂にかかわった。
721[43代:元明天皇(母)]崩御。[長屋王(ながやのおう)]41歳が政権を握り政治を担う。
723(なにさ♪)【三世一身の法】
大化の改新以降、土地は口分田として国から貸し出されるものだったが、人口が増加し土地が不足。開墾すれば三世代のあいだ私有してもいいよ、ということにして不足した土地を補った。でも開墾は重労働なので、なかなかうまくいかず・・・
724 23歳になった[聖武天皇]に皇位を譲る。44歳。
45代:聖武(しょうむ)天皇 724-749
724 聖武天皇即位。24歳。
2人の中継ぎの女帝を経て、いよいよ即位。人柄のいい天皇で、いい世を作ろうとしたが、自然災害や疫病など不運続きで仏教にすがっていった。最初は[長屋王(ながやのおう)]51歳が政権を担当し、信頼し合って政治をすすめた。
●[長屋王]は頭もよく頑張り屋で、[藤原不比等]とも仲が良かったが、その息子の[藤原四兄弟]とは、同世代なのもあり後継者争いの火種があった。
●[聖武天皇]は[藤原不比等の娘]の子という、天皇家以外の血が入った初めての天皇だったので、[聖武天皇]を快く思わない人もたくさんいた。
●鉄の農具が普及
そんな中、[聖武天皇]と[長屋王]はお互い信頼しあって政治をすすめていたが、朝廷内では【聖武天皇を盾にした藤原四兄弟 VS 長屋王を盾にしたアンチ聖武天皇】という、不穏な空気が漂い始める。
729 【長屋王の変】
[聖武天皇]の待望の男の子が1歳で夭折したのは[長屋王]53歳が呪いをかけたからだ、と[藤原四兄弟]が言い出し[聖武天皇]は[藤原四兄弟]の仲間にされてしまう。兵に囲まれた[長屋王]は妻子ともに自害。藤原四兄弟は勝利し、政権を握る。[聖武天皇]は、一時は信頼していた[長屋王]を無実の罪で追い詰めてしまったことに心を痛めたと思われる。(長屋王は無実という説が有力)
729 藤原不比等の娘[藤原光明子(こうみょうし)]が[聖武天皇]の正妻となる[→光明皇后]。天皇家以外の皇后は初めてなので宮中ざわつくが、藤原不比等の思惑通り、藤原氏が力を強めていく。
734 大地震が起きる。
735 学者の[真備(まきび)]が第10次遣唐使として唐から貴重な書物(経典や天文暦、歴史書や音楽書など)を持ち帰る。(ドラマ「大仏開眼」で主人公だったあの真備!)
736 [葛城王(かつらぎおう)]が臣籍降下して[橘諸兄(たちばなのもろえ)]となり出世する。※橘という姓は四つの大きな姓の一つ。【四姓=源氏・平氏・藤原氏・橘氏】
737 天然痘が大流行。遣唐使により持ち込まれ日本各地に伝染したと思われる。日本人口の25%~50%が失われたとか。
権力をふりかざしていた[藤原四兄弟]は、4人とも感染して死んでしまった。その息子たち[藤原博嗣(ひろつぐ)・仲麻呂(なかまろ)]は生き延びる。
738 [藤原四兄弟]がいなくなり、代わりに[橘諸兄(たちばなのもろえ)]が政治の中心となった。[吉備真備(きびのまきび)]や同じく遣唐使帰りの[玄昉げんぼう]を重用する。唐の文化をよく知る二人は強い日本をつくるのにちょうどよかった。
739 幼少の頃から聡明で、たいていの書物は読破、算術にも優れていた[藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)]が、光明皇后(藤原家出身)の盾をかざし政権と軍権の両方を掌握。
740【藤原博嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱】
藤原四兄弟の子供で、素行の悪さから大宰府に左遷された[藤原博嗣]が「貴族でもない[吉備真備きびのまきび]や[玄昉げんぼう]を側近にするのは納得できない!」とわがままな手紙を聖武天皇宛に書いたため、謀反(むほん)だ!と処刑されてしまった。その後[玄昉]は[藤原博嗣]の怨霊おんりょうに悩まされたという。記録に残る日本初の怨霊だとか?![聖武天皇]も衝撃を受け、その後、遷都迷走に入る。
740~745 遷都迷走。
740年に「恭仁京(くにきょう)京都市加茂町」に遷都。しかし743年に都づくり中止。
744年に「難波京(なにわきょう)大阪市中央区」に遷都。
745年の正月に「紫香楽宮(しがらきのみや滋賀県信楽町)」
しかしその年の5月には平城京に戻る。[聖武天皇]が遷都を繰り返した理由は、日本史上最大級の謎の1つだとか。
741 東大寺建立 国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建てるよう命ずる。
741「(奈良)東大寺」造営開始。公共事業を慈善的に指揮していた僧侶[行基(ぎょうき)]を抜擢。大仏造りもハイセンスにこなした。
大仏の工事は745~752まで7年かかり、のべ260万人が関わる大事業だった。天然痘の流行、大地震、干ばつ、飢饉、藤原博嗣の乱、などよくないことが重なる中、大仏を作るなんて無茶なことだという考えもある中、聖武天皇は仏教に救いを求めて強硬突破。仏教文化が花開いたが犠牲も多かったことでしょう・・・。
743(なしさ♪)【墾田永年私財法】
開墾するのはかなりの重労働なのに【三世一身の法】に決められたように、3世代で国に土地を返すなんて短すぎて勤労意欲がわかない!と土地を放棄する人が多く、[聖武天皇]が、ずっと(永年)とりあげないことに変更。しかし貴族や寺院、豪族は、農民に土地を開墾させ自分の私有地にして、権力を広げていく。その私有地はのちの荘園と呼ばれるが、結果として天皇の力が弱まることへとつながってしまった。
租庸調雑徭
742 日本の仏教の僧侶は、自ら出家を宣言して僧侶になることができた。[s]戒律(信者たちが守るべき生活規律)によって僧侶に位を与える制度を普及させたい、と日本に来てくれる唐の僧侶を探しに、若い僧侶2人を送り込む。日本への船旅は危険なので、なかなか来てくれる僧侶はみつからなかったが、熱意に負けて[鑑真]が来てくれることになった。やはり船旅は何度も失敗し、5回目の時にはベトナム北部に漂着。その時にベトナムの暑さ、日本の僧侶が死にショックだったことなどの理由により両目を失明したが、陸路で唐に戻り、6回目、754年の航海でようやく日本にたどり着いた。
743 大仏建立の詔(当初は滋賀県の紫香楽宮近くの山に建立予定だったが山火事などで中止)。このころから[聖武天皇]病気がちになり[元正上皇]が政務を務めたりする。
744 唯一の男子[安積親王あさかしんのう]が17歳で死去。急な死なので[藤原仲麻呂]による暗殺かも。
745 3か所の遷都を経て平城京に戻る。
748 [元正上皇]崩御68歳。
749 晩年は政治に関心がなくなり49歳で娘の[孝謙天皇]に譲位。生きているのに譲位するという初の太上天皇(略して上皇)となる。
46代:孝謙(こうけん)天皇 749-758(女帝)
749年 31歳で即位。政権は母(藤原不比等の娘[光明皇后])が握っていた。
同じ藤原一族として[藤原仲麻呂]の発言力が強まり[橘諸兄]の力が弱まる。
751 [吉備真備(きびのまきび)]が[藤原仲麻呂]に煙たがられ、京から遠ざけられるように遣唐使に任命される(754帰還)
752 聖武天皇が大仏を作ると決めてから10年、[行基(ぎょうき)]の協力を得て、廬舎那仏(るしゃなぶつ)が完成。開眼供養会(かいがんくようえ 大仏開眼式)が盛大に行われた。
754 [鑑真]迎えの僧侶を派遣してから12年。5回の遭難を経て6回目でようやく来日。孝謙天皇に歓迎され東大寺に住む。正式な戒律(信者が守るべき生活規律)や薬草の知識を広め、貧民救済に取り組んだ。
755 [橘諸兄(たちばなのもろえ)]72歳辞職。酒の席で天皇の後継の話をしたことが[聖武天皇]への不敬行為と噂され、自ら引退。
756 [聖武天皇]崩御(56歳)
757 「養老(ようろう)律令」制定。藤原不比等が考えていた制度を玄孫の代で実現。「大宝律令」に次ぐ律令で、政治体制を規定する法律。
757 「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱」
[橘諸兄(たちばなのもろえ)]が天皇後継者についての失言がばれて、責任を感じて辞職してからも、息子[橘奈良麻呂]は[藤原仲麻呂]の横暴なふるまいに不満がおさまらなかった。[藤原仲麻呂]を倒し、後継者がいない[孝謙天皇]にやめてもらおうと計画を企てる。しかし情報は漏れ、父[橘諸兄]と同じく[孝謙天皇]にいさめられる。そこであきらめればいいものを、また計画を繰り返し、ついに処分を受けることに。[藤原仲麻呂]は443人を処罰、杖で全身を打たれるなどの拷問に耐えかねて次々と命を落とした。この反乱のおかげで[藤原仲麻呂」は自分に不満を持つ勢力を一掃し、さらに権力を欲しいままにした。
758 [孝謙天皇]は、母[光明皇后]のすすめで[藤原仲麻呂]を重用していたが、あまり気が合わず。そんな[藤原仲麻呂]に進言されて41歳の時、譲位し上皇へ。上皇になっても権力は持っていた。
47代:淳仁(じゅんにん)天皇 758-764
758年 [淳仁天皇]25歳で即位。
天武天皇の孫で日本書紀編纂などにかかわったが、天皇の血筋とはいえなかった。[藤原仲麻呂]により擁立されたので、実権はほぼ[藤原仲麻呂]にあった。[孝謙上皇]も引き続き権力を持ち院政をする。
759 唐招提寺(とうしょうだいじ)建立。[鑑真]が戒律修業の道場として開く。
760年 [光明皇后]崩御。
761年 [孝謙上皇]45歳。60歳の僧侶[道鏡どうきょう]に病気を治してもらい、その徳の深さを知り、大のお気に入りに。[道鏡]が大出世し、勢力拡大を恐れた[藤原仲麻呂]が、[孝謙上皇]をたしなめると対立が生じる!
[吉備真備(きびのまきび)]が唐から帰国。京都に戻され、東大寺づくりのリーダーになる。
763 [鑑真]死去。76歳、唐招提寺にて。死を惜しんで弟子が造った彫像は、日本最古の肖像彫刻とされ、国宝として唐招提寺に安置されている。
764【藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱】
孝謙天皇・道鏡 VS 藤原仲麻呂の戦い。[孝謙天皇]があまりに[道鏡]に夢中なので、危機感をもった[藤原仲麻呂]がクーデター(政権脱却の反乱)を起こすが、[孝謙上皇]が裏切りを素早く察知。天皇の印章である御璽(ぎょじ)と駅鈴(えきれい)を[淳仁天皇]から奪い、[藤原仲麻呂](59歳)を朝敵として討ち殺した。[吉備真備(きびのまきび)]も退路をふさぐなど優れた軍略により活躍した。
[淳仁天皇]は仲麻呂と関係が深かったとして退位、淡路島に流され「淡路廃帝(あわじはいてい)」と呼ばれ、765年に逃亡したときに暗殺された。
48代:称徳(しょうとく)天皇 764-770(女帝)
764年 [孝謙上皇]が46歳で再び天皇に。道鏡とともに二頭政治を行う。政治や刑罰が厳しく冤罪も多かったともいわれている。
765年 743年の[墾田永年私財法]の効果で開墾が過熱しすぎたので、この年は墾田私有を禁止にした。
766年 [道鏡]は、宗教上の最高指導者である「法王」の称号を得て、ますます力が強まる。二頭政治のもと[吉備真備(きびのまきび)]72歳を右大臣に任命。これも異例の出世。
[称徳天皇]は仏教重視の政策を進めるために多くの大寺に行幸(ぎょうこう・みゆき)し、造営など進めながら、神社に対する保護政策も厚く、伊勢神宮や宇佐八幡宮に神宮寺を建立するなど、神仏習合がさらに進んだ。
769年 [道鏡]がついに天皇の地位を奪おうと目論み、宇佐八幡宮に「道鏡が皇位につくべし」と言わせたが、嘘がばれて左遷される。その後[称徳天皇]は病に伏したが会っていない。
光仁天皇は称徳天皇に睨まれないために、権力に興味がないアピールで酒におぼれたふりをしていた。
770[称徳天皇]崩御。
49代:光仁(こうにん)天皇 770-781
真備を側近に任命、真備は80代だったので辞退したが認められなかった。
▼天平文化▼
古墳時代や飛鳥時代に中国から入ってきた文化が根付いた仏教文化。遣唐使を通じた唐の影響を強く受けている。
東大寺 大仏(廬舎那仏るしゃなぶつ)
東大寺の正倉院は「校倉造(あぜくらづくり)」で造られ、床下2.7mになっており、遣唐使が日本に伝えた聖武天皇の宝物が保管されていた。
唐招提寺は鑑真のために建立。金堂は奈良時代建立の本堂としては唯一現存。
唐招提寺に安置されている「鑑真和上像」は日本最古の肖像彫刻。
歴史書「記紀(きき)」、地方のことが書かれた「風土記(ふどき)」など編纂される
▼このころの仏教文化の比較▼
▼飛鳥文化(飛鳥・斑鳩(いかるが)中心)は6-7世紀、日本最初の仏教文化。蘇我氏の寺院建立。法隆寺など。ギリシア、インドの文化とも共通点がある。
▼白鳳文化(藤原京中心)は、7世紀終わり頃、唐の力強い文化の影響を受けながらも、日本らしい仏像がつくられるなど、おおらかな仏教文化。本格的な中国風の藤原京がつくられた。
▶天平文化(平城京中心)は8-9世紀[聖武天皇]が担い手となり、遣唐使が仕入れた唐の最盛期の成熟した文化の影響を受けた。
▼国風文化(平安京中心)は平安時代中期、遣唐使が廃止されたことで中国文化の直輸入ではなく、日本独自の文化。仮名文字の発達など。