天皇を追いながら歴史をよんでいきます
29代:欽明(きんめい)天皇 539-571
●物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏が擁立(ようりつ)したので家臣として力を強めた。
※「擁立」とは、本筋では候補にあがらない人を天皇に推薦すること。
推薦者は見返りに大きな権力をほしがり、天皇の力は弱まることが多い。
●かつて最大権力だった[大伴(おおとも)氏]は、「磐井(いわい)の乱」をおさめられずに信頼を失っていたうえに、任那(にんな・みまな)の一部の領土を百済(くだら)にあげたことを責められて権力を失った。
かわりにこの乱をおさめたのが[物部(もののべ)氏]だった。
●仏教が中国→百済より伝来したことにより[蘇我氏]と[物部氏]が対立していく。
100年ほど前に入ってきた儒教は、宗教というより、社会の在り方についての学問のような感じで普及したので、反発なく受け入れられたが、仏教は、昔から日本にあった八百万の神(やおよろずのかみ)を崇拝する神道(しんとう)の考え方と対立することになる。
日本の昔からの神々の怒りをかう!と仏教反対の神道派の[物部氏]
VS
先進国のように仏教をとりいれるべき!と賛成した仏教派の[蘇我氏]
[蘇我馬子(そがのうまこ)]は渡来人(=とらいじん=朝鮮半島から渡ってきた人)という説もあり、仏教派というのもうなずける。とにかく物部氏と蘇我氏は犬猿の仲だったらしい。
538 仏教伝来
インドの大乗仏教(だいじょうぶっきょう)が中国を経て百済(くだら)より伝来。
百済の使者から[欽明(きんめい)天皇]へ、釈迦如来像(しゃかにょらいぞう=お釈迦様の像)や経典(きょうてん=おきょう)、仏具(ぶつぐ)などが献上された。
▼仏教とは▼
●仏教は釈迦(しゃか・お釈迦様)が考え悟った、世の中の真理を知り、生・老・病・死など個人の不安を開放する教え。
釈迦は身長が4.85mもあったという。
●悟りを開いた人のことを「ブッダ」と言うが、悟りを開くのはとても難しいため、ブッダといえば釈迦しかいない、という世界。仏教では神はいないのだが、釈迦がすごすぎて「釈迦=神」のように信仰されたのが「大乗仏教」。日本に伝わったのはこの大乗仏教。
●釈迦如来の如来(にょらい)は神の敬称のようなもの。
●仏像について
「仏像(=釈迦如来像)」:悟りを開いた釈迦の像。
「大仏」:仏像の大きいもの。
「菩薩像(ぼさつぞう)」:釈迦が悟りを得る前の修行中の像。
「弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)」:釈迦ではなく、釈迦の次(56億年後!)に仏の悟りを開くといわれている修行僧の像。
「地蔵」:地蔵菩薩の略。弥勒菩薩が仏になるまでの仏がいない56億年間!迷いから人々を救うための修行僧の像。
※仏教は深いので、解説はざっくり参考程度にご覧ください。
※このころの中国大陸の南北朝文化が日本に伝わって「飛鳥文化」を生んだ。
562「任那」は「新羅」に滅ぼされる。※任那消滅は660年の白村江(はくすきえ・はくそんこう)の戦いの時とも言われる。
571 最期まで任那の復興を夢見ながら62歳で崩御。
30代:敏達(びだつ)天皇 572-585
29代[欽明天皇]の息子で、33代[推古天皇]の夫。
物部氏と蘇我氏が引き続き家臣として権力を持つ。
[欽明天皇]の遺言に「任那(にんな・みまな)の復興を!」「新羅(しらぎ)を討て!」などあったが、いずれも進展はなく、新羅とも仲良く通交していた。
578宮大工(みやだいく)の集団が発足した。日本初の会社のような団体。
▼仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の対立▼
[蘇我馬子]は、[敏達天皇]から仏教を信じていいという許可を得たのだが、寺を建て始めると疫病が流行。仏教反対派だった[物部守屋]は、仏教のせいだと禁止を求めた。
そこで、[敏達天皇]は「仏教禁止令」を出し、寺や仏像を焼き払い、尼(女のお坊さん)を裸にしてムチで打つなど厳しくとりしまった。
しかし、疫病はいっこうに収まらないどころか、ついに、[敏達天皇]も感染してしまう。
かえって仏教のたたりだと言われ[蘇我馬子]に再び仏教を許可するが、[敏達天皇]は治ることなく崩御。
[敏達天皇]への弔辞を読む時の[蘇我馬子]と[物部守屋]の大人気ない(おとなげない)やりとり・・・日本書記より
★守屋→長い刀を差して弔辞を読む小柄な「馬子はまるで矢に射られた雀のようだw」
★馬子→緊張で体を震わせながら弔辞を読む「守屋は鈴を付けたらさぞ面白かろうw」
585仏教の信仰をめぐる対立の中、[敏達天皇]崩御
31代:用明(ようめい)天皇 585-587
[厩戸皇子(聖徳太子)]の父。
※[厩戸皇子うまやとのみこ(聖徳太子)]は574年に馬小屋(厩=うまや)の戸の近くで生まれそうになったので、そう命名された。
[蘇我馬子]が擁立(ようりつ)。
※擁立とは、本筋では候補にあがらない人を天皇に推薦すること。推薦者は天皇に恩を売る形で権力を強めた。
[蘇我馬子]と[物部守屋]との対立が深まり・・・
587【丁未の乱(ていびのらん)】
ついに仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の内乱。
〇中国大陸の文化をとりいれたい進歩的な[蘇我馬子(そがのうまこ)]
●仏教の受け入れをよしとしない[物部守屋(もののべのもりや)]
蘇我氏は何度も物部氏を攻めるが、とどめをさせない。
[厩戸皇子うまやとのみこ(聖徳太子)]は四天王の木像を彫り、蘇我氏の勝利を神に祈って応援した。そのおかげか[蘇我馬子]は[物部守屋]を弓で射殺することができた。
物部氏の宗家(=そうけ=本家)は消滅。
593年[厩戸皇子(聖徳太子)]は神様への御礼として大阪に「四天王寺」を建立した。
日本で最初の官寺(国家が援助する寺)。
587[用明天皇]崩御。即位後2年、病死。享年36歳。
後継者が決まらない中、[物部守屋]が天皇に推薦しようとしていた皇子が死ぬ。[蘇我馬子]による暗殺かも。
32代:崇峻(すしゅん)天皇 587-592
34歳即位。物部氏が擁立しようとしていた皇子が死んだため、蘇我氏が[崇峻(すしゅん)天皇]を擁立した。
仏教を信仰してもいい時代が到来。仏教派の[蘇我馬子]歓喜。
実権は[蘇我馬子]36歳が一手に握っており、不満のあった[崇峻天皇]は、イノシシ狩りの時「あいつもイノシシみたいにしとめてやりたい」と言ってしまう。その話を聞いた[蘇我馬子]は危機感をおぼえ、やられる前にやる、と暗殺を計画し・・・
592[崇峻天皇]が、[蘇我馬子]に暗殺される。日本書紀より
・・・これが本当なら天皇が殺されるという空前絶後のできごと。でも天皇を殺しておいてそのまま[蘇我馬子]が権力を持ち続けるなんてありえないことなので、朝廷全体の同意のもとだったのかもしれない。
記紀(古事記・日本書記)は、天皇中心を印象づけするために書かれたので、天皇家ではない[蘇我馬子]を悪く書いたのかもしれない。
後継者はどうしよう…
[厩戸皇子(聖徳太子19歳]は若いし、[蘇我馬子]と血がつながっている候補者だと、反対する勢力によって反乱が起こるかもしれない。そこで白羽の矢がたったのが推古天皇でした。
33代:推古(すいこ)天皇 592-628(女帝)
●頭脳明晰で、公正で、容姿端麗で、安定した政治を行った。
● [推古天皇]は、天皇の血筋の濃い[厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)29歳]を摂政(=せっしょう=今の総理大臣)に、今まで権力が強すぎた[蘇我馬子42歳]を側近として尊重しながら、発展した隋にならって、天皇中心の国づくりを目指した。
●飛鳥の地(小墾田宮:おはりだのみや)などを中心に政治を行った。
596蘇我馬子「飛鳥寺(あすかでら)」建立。日本最初の仏教寺院。
現在の奈良県明日香村に、仏教に熱かった[蘇我馬子]が悲願の建立。かつて物部氏と戦ったのも仏教をめぐる対立だったので、とても嬉しかったはず。
飛鳥寺の「飛鳥大仏」は約3mと小さ目だが、日本最古の大仏。
▼厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇と立て直した政治▼
600「遣隋使」を派遣する。
中国で「隋」誕生。ずっと分裂時代(魏・秦・南北朝時代)だったので130年ぶりの国交。「隋」の[煬帝(ようてい)]に日本の成長を見せるつもりがバカにされ大失敗。見下されたままでは侵略される恐れがあるので、技術や制度をならうことに。・・・隋書より
607第二回「遣隋使」として[小野妹子(男)]を派遣。[厩戸皇子(聖徳太子)]は1回目で見下されてしまったので、どうにか「隋」と対等な関係で国交したいと思い[煬帝]に手紙を書いて持たせた。
「日(ひ)出ずるところ(=日本)の天子(てんし=えらい人=推古天皇)、書を、日(ひ)没するところ(=隋)の天子(=煬帝)に致す・・・」
というフレーズから始まるところで[煬帝]は激怒。
なぜかというと、日本と隋が対等だと言わんばかりに「天子」という言葉を使っていたから。しかし[厩戸皇子(聖徳太子)]は失礼を承知で手紙を書いていたという説あり。
「隋」は高句麗(こうくり)と戦おうとしていたため、その背後にいる日本を敵にまわすことができないと気付いていたのだ。
強気のやりとりを成立させ、日本は隋に国として認められた、という形にもっていった。おかげで、支配されることなく、一線を引きながら国交が続けられた。
このように[厩戸皇子(聖徳太子)]は、日本の独立と対等な外交のため、時には相手を怒らせることも戦略としながら交渉した。
現代の私たちも、その交渉術は見習うべきものがある。
603【冠位十二階の制度】
高い順に、紫>青>赤>黄>白>黒・・・6色を濃淡で2つに分けて12の位を作った。渡来人も多くなってきたため、家柄ではなく、才能や功績がある人を重視して採用した制度。
604【十七条の憲法】
仏教や儒教をとりいれた役人の心構え
605「斑鳩宮(いかるがのみや)」という宮殿を作り[厩戸皇子(聖徳太子)]が住む。
海外や難波から飛鳥に入るには斑鳩宮を通るので、主要な意味のある土地なのだが、天皇や蘇我馬子が住む飛鳥から20㎞ほど離れており、毎日通えたのか謎。
607「斑鳩宮」の中に【法隆寺】を建立。
父[用明天皇]の供養のために。
落雷による火災にもあったが、700年前後に再建された法隆寺の五重塔は、古くて594年の木材を使っており、現存する木造建築物の中では世界最古といわれている。
※仏教の普及に伴い、仏塔に偉い人の遺骨を安置するようになり、古墳は役目を終えていった
618中国の「隋」が滅び「唐」が建国
622 [厩戸皇子(聖徳太子)]病死。49歳。
[推古天皇]は[厩戸皇子(聖徳太子)]を次期天皇にするために教育していたのに、大切な後継者を失ってしまった。
[蘇我馬子]は推古天皇のもと、よく任務をこなしていたが、本心では天皇主権というのが気に入らなかったので、 [厩戸皇子(聖徳太子)]が病気で寝込んでいるところを暗殺したのではという説もある。
603~622頃「渡来人の秦氏(はたし)が「広隆寺(こうりゅうじ)」建立
「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」が百済から持ち込まれる。平安遷都前に建っているので、京都で一番古いお寺。
626[蘇我馬子]死去75歳。
2年後[推古天皇]が崩御されると、政治の実権は子[蘇我蝦夷(えみし)]と孫[蘇我入鹿(いるか)]に引き継がれる。
628[推古天皇]崩御。75歳
才色兼備かつ政治感覚に優れた天皇だったが、皇位継承問題は未解決のまま崩御され、その後は[蘇我蝦夷]と[蘇我入鹿]の思いのままの時代になってしまう。
34代:舒明(じょめい)天皇 629-641
流れからいけば[聖徳太子]の子どもが天皇を継ぐところ、[蘇我蝦夷43歳]が実権を握りやすいよう[舒明(じょめい)天皇]を擁立。
630 第一回「遣唐使」派遣
遣唐使の中には、日本に帰国後、中国の知識を教えるために塾を開く者もいた。
[蘇我入鹿(そがのいるか)]は[中臣鎌足(なかとみのかまたり)]と同じ遣唐使の塾に通い、2人とも優秀で「塾の双璧」と言われていた。
[蘇我入鹿]が天皇よりも強い力を持ち始めると[中臣鎌足]は危機感を抱き、天皇中心の世の中に戻さねば!と天皇家との接点を探し画策し始める。
[中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)]が蹴鞠をしていて履物が飛んで行ってしまった時に、すきを見ていた[中臣鎌足]は履物を丁寧に拾い届けた。それをきっかけに、二人は身分違い、年齢も12歳くらい離れていながら親友になった。
[中臣鎌足]は、天皇家を守るために[蘇我入鹿]の危険さをうったえ[中大兄皇子]は理解を示した。・・・日本書紀
※蹴鞠(けまり):このころ、中国から伝わった、鹿の皮で作ったマリを輪になって蹴り上げて、地面につかずに蹴りつづけられた回数を競う、皇族の間で楽しまれていた遊び。中大兄皇子が仲間とやっていたと日本書紀に書かれているが、遊び方は、平安時代に流行していたものとは違っていたかもしれない。
※[中臣鎌足]の「足」は敬称らしい。名前は実は「カマ」。死後、藤原の姓をもらい[藤原鎌足]と呼ばれるようになる。
641 [34代:舒明天皇]崩御。49歳。
35代:皇極(こうぎょく)天皇 642-645(女帝)
[34代:舒明天皇]の皇后。天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇の母。
蘇我氏が操りやすいという理由で[皇極天皇]が49歳で即位。
642 夏に雨が降らず民衆は困っていた。[蘇我蝦夷(そがのえみし)]が仏教のお経を読んだが小雨しか降らす、次に[皇極天皇(こうぎょくてんのう)]が雨乞いをすると5日間も雨が降ったので民衆を感動させたという。
643 父[蘇我蝦夷(そがのえみし)]が、子の[蘇我入鹿(そがのいる)]に権力をゆずると、さらに蘇我氏の独裁状態に。
邪魔に思っていた[聖徳太子]の一族24人を無実の罪で残酷に殺害。一族を全滅させた。
これには父[蘇我蝦夷]も、やりすぎで命を狙われる恐れがあると[蘇我入鹿]に警告した。
645【乙巳の変(いっしのへん)】
[中臣鎌足]が策を練って、蘇我氏を滅ぼした。
天皇の地位を狙っているという理由で、新羅・百済・高句麗からの貢ぎ物を受け取る儀式の時に、まず[蘇我入鹿]を暗殺し、首を雨の降る庭に転がした。父[蘇我蝦夷]をも追いつめて自害させた。
[中大兄皇子19歳]と[中臣鎌足31歳]は、この【乙巳の変(いっしのへん)】ののち【大化の改新】をおこし、中国を手本として天皇中心の日本をつくっていった。
645 日本初の譲位(天皇が存命のうちに皇位をひきつぐこと)
[35代:皇極天皇]は蘇我氏とのつながりが強かったので、皇位を退いた。
▼飛鳥文化 592~628年頃▼
【特色】
●日本最初の仏教文化。
●中国の南北朝、ギリシャ、インド、ペルシャ、朝鮮半島などの影響を受けた国際色豊かな文化。
[推古天皇]・[聖徳太子]の頃、中国は「唐」の時代だったが、200年前の「南北朝」の文化が広まったことになる。
都のあった、現在の奈良県 明日香村が栄えた時代なので、「明日香→飛鳥」文化と呼ばれるようになった。
彫刻は、直線的で男性的な「北魏(北朝)様式」と、やわらかい曲線美の「南朝様式」が融合している。
このころ、有力な豪族たちは、古墳に代わって、本格的な氏寺(うじでら)を競って建てるようになった。
氏寺とは、一家一門で建立し代々帰依する寺で、中国や高句麗から伝わった「伽藍(がらん):回廊に囲まれて門やお堂や塔が組み込まれた寺院のつくり」が取り入れられ、再建されたものが今も残っている。
①~④の氏寺は、同時期に建立された(順不同)日本最初の仏教寺院。
氏寺①「四天王寺」
厩戸皇子(聖徳太子)が「丁未(ていび)の乱」の勝利祈願の時に、四天王(仏や僧侶を守る四つの神)を木彫りで作り、それを祀るために難波の地(大阪)に建立。
氏寺②「法隆寺」
「厩戸皇子(聖徳太子)が、父[用明天皇]の供養のため、斑鳩(いかるが)の地(奈良県の明日香村よりは北に20kmほど)に建立。中国の「南朝様式」のやわらかさが特徴の仏像や、北魏(北朝)様式の冷たいイメージの仏像。「玉虫厨子(たまむしのずし)」(玉虫の殻を装飾に使った仏教工芸品)など、国宝が多く残されている。回廊(長い廊下)の木の柱は、上から下にゆるやかに太くなっており、堂々としながらも、やわらかさがあり美しい。ギリシアのパルテノン神殿の柱のふくらみ(entasisエンタシス)と似ているので、エンタシスの柱といわれるが、中国では見られないことから、ギリシアの影響をうけたものではなく偶然似たものだと思われる。
氏寺③「飛鳥寺」(法興寺)
蘇我馬子により建立。日本最古の大仏「飛鳥大仏(釈迦如来像)は直線的で男性的な「北魏様式」である。
氏寺④「広隆寺」
厩戸皇子(聖徳太子)が[秦氏(はたし)]に建てさせた、京都最古の寺院。
日本一美しい仏像とされる「弥勒菩薩」は曲線美の「南朝式」である。
弥勒菩薩は、釈迦の次(56億年後)に仏の悟りを開くといわれている修行僧が、将来どうやって人々を救おうかと思い悩んでいる姿だという。表情は、古代ギリシアの彫刻に見られる幸福感に満ちた(Archaic smile)といわれ、美しいのでウルトラマンの口元のモチーフになったらしい。

36代:孝徳(こうとく)天皇 645-654
[35代皇極天皇]から譲位。
[中大兄皇子]が有力後継者だったが、今は蘇我氏の反対勢力も少し残っているし、平穏をとりもどすまではと[孝徳(こうとく)天皇]を推薦して実権は自分で握った。
[中臣鎌足]は外交と軍事を担当した。
難波宮に遷都。
※この場所は後の織田信長や豊臣秀吉も重要視する大切な場所だった。現在の大阪城の場所だが、埋め立て前なので海が今よりも近かった。
内陸にある飛鳥宮より、大阪の入り江にある難波宮の方が、唐の情報が入りやすかった。
646 【大化の改新】
[中大兄皇子]による改新の詔(みことのり)により、豪族(蘇我氏)を中心とした政治から天皇中心の律令国家へ。
●庚午年籍(こうごねんじゃく:日本最古の戸籍)を作り、人民支配の基礎を固める。
●公地公民制:「私有地」は廃止して、土地と人民は天皇の支配下とした。「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」を定め、決められた広さの田を農民に配り、口分田(くぶんでん)と呼び、稲を育てさせた。亡くなると土地は天皇に返す。。
●中央集権体制:軍事や交通整理し、各地域をおよそ60の「国(今の県)」に分け、さらに郡・里(今の市や町)に整理した。
●税金の制度【租庸調雑徭】:「祖(収穫に応じた稲)」「庸(都に何かを納めるか、都で労働する…大仏づくりなど)」「調(天皇への貢ぎ物として特産品)」「雑徭ぞうよう(地方の工事)」を税として農民に納めさせた。庸と調は農民に都まで運ばせた。
[中大兄皇子]は、蘇我氏の残党が静かになってから即位しようと[孝徳天皇]を推挙したが「次の天皇は息子に」と言い出したり、意見が合わなくなってきたので、孤立させ、最終的には死に追いやった。
654[孝徳天皇]崩御。
最後は、皇后も一族も[中大兄皇子]に味方し飛鳥宮(奈良)に戻ってしまい、難波宮(大阪)に1人残されて孤独のなか崩御。
37代:斉明(さいめい)天皇 655-661 女帝
62歳即位。
[皇極天皇]と同じ人物で女帝。初めての2回目即位=重祚ちょうそ
[36代孝徳天皇]が[中大兄皇子]を裏切ったことから、信用できるのは母しかいない、と、2回目の即位になる母を推挙し、実権は[中大兄皇子]が握った。
660【白村江の戦い:はくすきえのたたかい】
唐・新羅(しらぎ・しんら) VS 百済(くだら)
「百済」は惨敗していたが、日本の[斉明天皇]とその息子[中大兄皇子]に助けを求めてきた。悩んだ末に応援したが「唐・新羅」に惨敗。
この頃、朝鮮半島で日本の管轄だった「任那(みまな)」も滅びたと考えられる。
661 百済復興の戦いを決意した[斉明天皇]は、朝鮮半島から近い、福岡県朝倉市に「朝倉宮」を建て遷都した。
大宰府より30kmほど内陸に位置する。
しかし、その4か月後・・・
661[斉明天皇(68歳)]崩御。
敷地内の木を切って「朝倉宮」を建てたから祟り(たたり)で亡くなったと言われているが、急な死なので暗殺されたかもしれない。
38代:天智(てんじ)天皇 668-671
[37代:斉明天皇]の子=中大兄皇子
これまでも裏で動いてきたが、ついに皇子から天皇へ!正式に即位する。
百人一首
「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
刈り入れ時、獣の番をするために一晩仮庵で寝る農民の夜を描いた、余情の一句。朝鮮半島の戦いを背景に日本の危機を示しているという説もある。
都を難波宮から大津宮(滋賀県)に移す。
白村江の戦の経験から、瀬戸内海から外国軍が攻めてきても対処しやすいよう遷都したのだが、家臣に引越しの負担が大きく不人気で、いやがらせの放火がたえなかった。
664 大陸に対する防衛基地として福岡県に「大宰府」を置いた。
668 「高句麗(こうくり)」消滅。
「唐と新羅」は、「百済」を倒した勢いのまま「高句麗」を挟み撃ちし滅ぼす。
日本はその後、「唐と新羅」の攻撃を恐れ防衛に力を入れた。
九州に「防人(さきもり)」を置き、水城・山城をいくつも築き、交替で見張りをさせた。
対馬にある「金田城」は天気がいいと朝鮮半島が見えるほどの展望で、唐や新羅の船が出現すると、壱岐→大宰府→と山城をつないで、奈良の都まで狼煙(のろし)リレーで知らせたという。
669[中臣鎌足]病死。[天智天皇]の親友だったので、お見舞いした時に「藤原」という名前を与えた。後の藤原氏繁栄の礎(いしずえ)となるのだが、その藤原氏が力を持ちすぎて天皇家を脅かすというのは皮肉なもの。
670 日本最古の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成。
当時貴重な紙を使っていた。正倉院には不要な戸籍を裏紙として利用した痕跡も見られ、貴重な資料となっている。
671 水時計を制作
6月10日に「大津宮」で、鐘と鼓を打って時間を知らせたので、現在6/10は「時の記念日」とされる。
水時計「漏刻」は3500年前の古代エジプトで発明されており、中国を経て日本に伝わった。
穴が開いた器から水が一定速度で落ち、たまる速さを利用した時計。
当時、都のあった滋賀県の近江神宮には[天智天皇]が祀られており、時計発祥の地として水時計も置かれている。
弟の[39代:天武天皇]を後継者にする予定だったのが、唐の継承の方法にならい実子[弘文天皇]を後継者にすると宣言。
死ぬ間際に弟の[39代:天武天皇]を呼び出し「お前に後を任せたい」と言ったが、それはダマしで[天武天皇]がひっかかって「任せてくれ」と言おうものなら殺されると決まっていた。それを察して
[天武天皇]は「いやいや後継は[39代:弘文天皇]に」と遠慮するそぶりをして坊主になると言って辞退し出家した。
野望は捨てていなかったのか【壬申の乱】へ・・・。
[中臣鎌足]が生きていた時は、宮内の潤滑油になってサポートしてくれていたが、彼の死後ギスギスし、心労がたたったか病で倒れた。
671[天智天皇(45歳)]崩御。
39代:弘文(こうぶん)天皇 671-672
[38代:天智天皇]の実の子。24歳即位
[天智天皇]は最初は弟[天武天皇]に後を継がせるつもりだったのだが、唐のやり方に倣って実の子に継がせることにした。
このため、納得できない者たちが反乱をおこす。
672【壬申の乱(じんしんのらん)】
自分が兄の後継者だったのに、と不満が爆発した[天武天皇]が反乱を起こしたことになっている。
しかし[天武天皇]は反乱当時、すでに出家(権力争いなど考えないお坊さんになること)をしていたことから、本人の不満というよりむしろ側近たちが、自分が支えてきた[天武天皇]が即位しないと困る!と納得できずに起こした反乱なのかも。
[天武天皇]は勝利し、[天智天皇]に近い多くの親戚が追放され、藤原氏もせっかくの身分が低くされてしまった。
[弘文天皇(25歳)]戦死。在位は半年。
40代:天武(てんむ)天皇 673-686
壬申の乱で勝った[天武天皇]は、神とたたえられるほど強大な力を持った。
日本の原形を作り上げたと言っても過言じゃない。大臣を一人も置かずに、皇后とともに自ら政務を行った。
唐・新羅VS百済の敗戦で、軍事の重要性を感じた[天武天皇]は、[天智天皇]が整えた戸籍制度「庚午年籍こうごねんじゃく」で豪族支配下の農民の戸籍を把握し、軍事体勢を整えるために利用した。
唐との親睦を深めるための遣唐使だったが、朝鮮半島の情勢を見て669年から701年まで30年ほど遣唐使を送らなかった。
(唐と新羅が対立し始め、676年には新羅が唐に滅ぼされた頃)
673 敵対する[天智天皇]の都「大津宮」を離れ、政治をする中心地を「飛鳥宮」に戻した。
「古事記」「日本書紀」の編纂を始める
(古事記712年、日本書紀720年に完成)
712 「古事記」完成。
[稗田 阿礼(ひえだ の あれ)]は様々な歴史書を丸暗記し、それを[太 安万侶(おお の やすまろ)]が編纂した。 天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫だとはっきり記し、天皇の権力が向上するようにした。
天皇の皇位継承の正当性を示す目的で作られ、神話と入り混じった歴史物語。
720年「日本書記」完成。
唐や新羅など東アジアに通用する正史を目的とした。
[舎人親王:とねりしんのう(天武天皇の子)]が中心とねり、いや中心となり、[藤原不比等]とともに完成させたので、藤原鎌足&聖徳太子を引き立たせるために、蘇我馬子を悪く書いたのではないか、と言われる。
ほかにも編纂を始めた[40代:天武天皇]と敵対した[39代:弘文天皇]が即位したことは書かれていないので、都合のいいように書き換えたところがあるらしい。
675 初の「肉食禁止令」を発布する。
仏教で生き物の殺生が禁止されていたので、そのために肉食禁止令を出した。
「肉食禁止令」が出たものの、仏教が浸透していない農民などは猪や鹿を食べることもあったし、魚や鶏などは良く食べられていた。足の少ないものはなんとなく許された。
今も厳しい宗派や修行する僧侶は、肉や魚を食べず精進料理を食べている。
676「新羅」が唐に滅ぼされ、朝鮮半島は「唐」に統一される[蘇我馬子]の孫[蘇我山田]が建てた「山田寺」が、天武天皇の時に完成。
1982年(昭和57年)に「山田寺」の回廊の一部が倒れた状態で発掘された。
法隆寺より50年くらい古い。木製なのに腐らず出土したレアケースなのだが、倒れていたので建築物とはいえないのか、知名度が薄いまま奈良の飛鳥資料館に展示されている。
680 [40代:天武天皇]の奥さん[41代:持統天皇(女帝]が病気になった時に、病気を治す神様「薬師如来」を信仰した「薬師寺」の建立に着工する。
[持統天皇(女帝)]の病は治ったが、建立を命じた[天武天皇]が病気になってしまった。
「伊勢神宮」を、天照大神を信じる「神道しんとう」の神宮として信仰した。
このころ「日本」という国号が登場する。
686[天武天皇]崩御。病死。
薬師寺の工事の途中だったが効果虚しく・・・[天武天皇]の死後も工事は続けられ、10年後に完成した。
41代:持統(じとう)天皇 女帝 686-697
[40代:天武天皇]の奥さん。
後継の皇子(息子)が27歳で病死してしまい、当時7歳の孫(42代:文武天皇)に後を継がせるためのつなぎとして即位。
●[40代:天武天皇]の意思をうけついで、孫の[文武天皇]と二代に渡って安定した政策を持続させた。
●柿本人麻呂(かきもとひとまろ)を宮廷詩人とし、天皇を称賛する詩を書かせた。
●新羅は唐に統一されたが、このころも新羅と外交は続いていた。
●[持統天皇]は世代交代をにおわす和歌を詠む(百人一首より)。
「春(夫、天武天皇の時代)すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ(父の露に濡れた衣を干し日本の危機は去った) 天の香具山」
亡き父、天智天皇の「秋の田の かりほのいほの苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」への返歌。
689 すごろく禁止令(夫、天武天皇がはまって苦労したので、賭博としてのすごろくを禁止したと思われる。)
694 「藤原京」遷都
中国の唐に倣い、日本初の本格的な都「藤原京」を造った。碁盤の目のように一条、二条と道を作り、飛鳥宮から移り住み、天皇と貴族を中心とした町となった。規模も大きく立派だったのだが、唐の長安を真似たつもりが、大切な、皇居の位置が違うということが発覚。669~702年の30年間、朝鮮半島での戦いのせいで、遣唐使の派遣を中断していたため、書物頼みの建設だったのもあり、間違えてしまったようだ。そのためか、せっかくの藤原京は16年で平城京に遷都されてしまう。
691 薬師寺を創建。
[40代:天武天皇]が妻[持統天皇]の病気を治すために薬師如来を信仰して着工したが、[40代:天武天皇]が先に死んでしまうという皮肉・・・。しかしその様式は【白鳳文化】の代表的なお寺となった。
697 皇位を孫に譲るが[文武天皇]は幼いので、そのまま政治を手伝っていた。
初の上皇。後の院政のさきがけである。
42代:文武(もんむ)天皇 697-707
697 14歳即位。
[文武天皇]は幼いので、祖母[持統天皇]のもと政治を行っていた。後の院政のさきがけである。
30年の国交断絶から遣唐使を再開。
[藤原不比等(ふひと)39歳](藤原鎌足の子)は[文武天皇]を擁立したことで、失いかけていた権力を手に入れた。頭がよく律令制度を完成させ、ヤマト政権の支配領域を拡大した。
【藤原不比等 659-720】
[藤原鎌足]の死後、中大兄皇子に藤原の姓をもらった藤原氏だったが、後継者争いの「壬申の乱(天智天皇の弟VS息子)」で、負けた息子側だったため、低い身分にされてしまった。
しかし、運と才能で[持統天皇]の頃から、のし上がり、ここで政治に関わってくる。
●「大宝律令」制定では、中国の唐の律令制度を翻訳・研究し、日本の今までの制度に矛盾のないよう作り上げるという難しいプロジェクトに貢献した。
●娘[藤原宮子]を[文武天皇]と結婚させ、間に生まれた子が[45代:聖武天皇]となる。
宮子は精神病になってしまい、皇后にはなれなかった。
●さらに別の娘[藤原光明子(こうみょうし)]を[聖武天皇]と結婚させた。
ようやく[藤原不比等]は、自分の娘を皇后にさせることができた。
皇族以外の者が皇后になったのは初めてのことで、この慣例を作ったことで、室町時代の摂関政治が成り立つようになったし、天皇の後継を立てやすくなった。
701【大宝律令】制定
▼大宝律令▼
律:刑罰について」6巻、「令:政治のきまりや国の制度」11巻の日本最初の本格的な法典。
681年に天武天皇が、唐にならって律令を制定するように言い、文武天皇の時代に実質権限を持っていた[藤原不比等39歳](藤原鎌足の子)らが編集し完成させた。
[藤原不比等]は文才や法律の知識に優れていた。
これより「律令社会(天皇中心の中央集権国家)」が200年ほど続く
★「律」:刑法をまとめたもの。刑罰の内容は
●ムチでたたく ●杖でたたく ●懲役(働いてつぐなう) ●島流し ●首絞めの死刑 ●首切りの死刑、など。●天皇に危害を加えようとするとさらに重い八逆(はちぎゃく)の刑となった。
★「令」:国の仕事をまとめ、役割を定めた。
1300年以上前の法律なのに、その時に定められた省は、今の日本の省庁の原型になっている。
701 「大宰府」を九州に置く
これまでは防衛の役割が大きかったが、政治・経済・軍事・外交の役割をもった国交の拠点の役割に変わる。
「西の都」とも言われ、1000人を超える人が広い大宰府の敷地の中で働いていた。
以降500年ほど、アジアの玄関口として役割を果たす。
707 [文武天皇]崩御。24歳で病死。
息子は当時5歳だったので跡継ぎにはまだ早く、悩まれた[文武天皇]は病床で、母[元明天皇]に攘夷したいと相談した。孫が大きくなるまでの中継ぎということで母[元明天皇]は承諾した。
43代:元明(げんめい)天皇 (女帝) 671-672
671 元明天皇即位。47歳。「42代:文武天皇]の母。
[44代]元明天皇も中大兄皇子の血筋(アンチ蘇我馬子)。[藤原不比等]に優しかった。
[藤原不比等]は野心に燃えて平城京への遷都を推し進めていた。
「風土記」編纂。「大宝律令」で全国を統一し、地方の詳細を知る必要があったので、各地方ごとの地名、地名の由来、産物、言い伝えなどを書かせ、地方統治の参考にした。
708「和同開珎」発行。
唐のお金をまねて作り、国として流通させた初めての貨幣。
和同開珎1枚を「1文(もん)」と呼び、1文でお米2kg(500円~1000円?)だった。
埼玉県秩父市で銅が採れたことを記念して「和銅」と名付け、流通させるために平城京の建設の賃金をこれで支払ったり工夫をしたが、物々交換が主流だった時代、なかなか流通しないし、造幣技術も未熟でボロボロになるのも早い。
708~958年まで全12種類(「皇朝12銭」と呼ぶ)を発行したけれど、結局あまり定着せず、発行をあきらめてしまった。次に貨幣が作られるのは、ずっとあとの江戸時代となる。
▼白鳳(はくほう)文化 645~710年頃▼
【特色】
40代天武天皇~41代持統天皇の時代、唐の影響を受けつつも日本らしさを感じる文化。藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化。
白鳳とは白い羽の雉(キジ)のような鳥で、九州の元号に登場するものを用いたという説がある。
●「キトラ古墳(40代天武天皇陵)」と「高松塚古墳(天武天皇の皇子で長生きした人のお墓)」の壁画
2つともよく似た大きさの古墳で、棺を納める空間もよく似ている。
四角く彫られた穴の東西南北には、中国の四神(霊獣)などが描かれ、天井には高句麗から伝わった星図のデザインが施されている。高句麗の影響をうけながらも日本独自の雰囲気がある。
描かれた四神
東:青龍(せいりゅう)
西:白虎(びゃっこ)※キトラ古墳の白虎は右向きで珍しい。
南:朱雀(すざく)※高松塚古墳は南の壁に盗掘の穴があるため、朱雀は見られない。
北:玄武(亀)※火山岩の玄武岩は、六角形の柱状節理がよく見られ、それが亀の甲に見えるから「玄武」と呼ばれるようになった!
このほか「男女子群像」なども鮮やかな壁画として有名なのだが、2002年頃から作業員の服を除菌していなかったせいもあってカビが大発生し、修復・保全に苦労している。
※「キトラ古墳」の名前の由来は、壁画の亀(キ)虎(トラ)からなど、諸説あり。
※「高松塚古墳」の名前の由来は、江戸時代の地図に高い松が書かれていたことから。
●法隆寺金堂の壁画
1949年に修復中の配線から火災。不幸中の幸いで、建物は一部解体され別の場所で保管されていたが、壁画の多くが焼けてしまった。1300年前の壁画が燃えてしまった・・・愕然とする中、昭和を代表する日本画家が結集して、写真や燃えあとを参考に模写し、それが現在飾られている。
●万葉仮名
漢字の音読みを日本古来の音にあてて訓読みとした。ひらがなの元祖
●和歌
諸説あるが、和歌は、漢字(音読み)に日本の話し言葉(訓読み)をあてはめた仮名文字とともに広がる。天皇や貴族が手紙のように気持ちを伝えあうために歌った。
額田王(ぬかたのおう:女)630-690は、天武天皇など恋人への気持ちを送りあう和歌をたくさん詠った。
柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)662-710は、天武天皇~持統天皇時代、天皇をたたえる和歌をたくさん詠った宮廷作家。新しい和歌のかたちで、鎌倉時代[藤原定家]から三十六歌仙に選ばれ、万葉集・百人一首にも選ばれている。「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」
●本薬師寺(もとやくしじ=薬師寺)
680[40代:天武天皇]の奥さん[41代:持統天皇(女帝]が病気になった時に、病気を治す神様「薬師如来」をご本尊とする「薬師寺」を建立した。[持統天皇(女帝)]の病は治ったが、不幸にも[天武天皇]が病気になってしまった。[天武天皇]の死後も工事は続けられ10年後に完成した。
現在は跡だけ残り、平城京に移された2つの三重塔のうち、東塔は1300年前のものが奇跡的に現存。
西塔は1981年に修復され、建立当初の鮮やかさが感じられる。
※747年 [聖武天皇]の病気が治ることを祈って建てられた薬師寺をこれとは別に「新薬師寺」と呼ぶ。
「新薬師寺」は当時は大きなお寺だったが、落雷で焼失するなどして今は一部しか残っていない。「薬師寺」に比べこじんまりとしているが、創建当初の奈良時代から伝わる唯一の建物。
★薬を手に持った薬師如来をご本尊とするものを「薬師寺」と呼ぶために、同じ名になるのだがややこしい。
★【飛鳥文化】法隆寺 →【白鳳文化】本薬師寺 →【天平文化】東大寺
