天皇を追いながら歴史をよんでいきます
大和政権時代 313~539 戦争の時代 鉄の時代
中国勢力(後漢・漢民族)の拠点「楽浪郡」(BC108~AC313)が滅びると、
朝鮮半島には高句麗(現・北朝鮮)・新羅(現・韓国)・百済(日本の友好国)の3つの国が争い合う「朝鮮三国時代」となる。
それまで高句麗は、北側が中国と接しているため、度々、襲撃され戦っていた。
しかし、中国勢力は、3世紀頃からの300年あまりの内乱のおかげで、襲撃されることがなくなった。
397年、百済が日本と仲良くしていると、北からの攻撃の心配がなくなった高句麗は、新羅と手を組んで南下政策を始める。
391年から150年あまりの間、朝鮮半島に日本が管轄する「任那(にんな・みまな)」という地名があったらしい(韓国認めず)
糸魚川のヒスイで作った勾玉や、日本に自生する木で作られた木製品が多数出土しているのも裏付けとなる。・・・日本書記・三国志記
16代:仁徳(にんとく)天皇 313-399
天皇が高い山から国をみおろすと、どの家にも煙がのぼっておらず、民衆が炊事もできないほど貧しいことを知る。
もともと質素な暮らしをしていた[仁徳天皇]だったが、3年間さらに倹約して、民衆への課税と労役をとりやめることにした。
仁徳天皇のお住まいの宮が雨漏りしても直さずがまんした。
3年後、再び山の上から眺めると、どの家からも煙が立ち上がっていたので、そこで初めて課税について検討を始め、10年後に実施した。
河内平野の水害対策として治水工事を行い、広大な田も開拓した。
堤防が2か所、うまく築けずにいると、神のお告げがあり、2人いけにえに出すことになった。1人は泣きながら川に流され死んだ代わりに堤防は完成した。
もう1人は「神がこの2つのひょうたんをしずめられたなら、神を信じて入水しましょう」と言い、ひょうたんが沈まなかったため、入水しなかった。
それでも堤防は無事完成した。智をもって命を守った「茨田(まむた)の堤(つつみ)」という話・・・日本書紀
外交にも注力する。
宋や高句麗は朝貢してきたのに、新羅は朝貢を拒否したので武人を派遣して討伐した。
崩御は日本書記によると110歳、古事記によると83歳。
大仙古墳(中陵)に葬られる。丘になっている部分の全長525m。日本最大の前方後円墳。
17代:履中(りちゅう)天皇 400-405
天皇になりたくて張り切っていたのだが、即位後、九州の筑紫に課税しようとし、神のたたりを受けて在位6年で崩御。
仁徳陵の南の「南陵」に埋葬。
[18代:反正(はんぜい)天皇] 406-410
容姿端麗で歯並びが綺麗だったので「瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)」と呼ばれた。
身長が3mほどだった?!
在位5年60歳で崩御・・・「古事記」。
仁徳陵の北の「北陵」に埋葬。
19代:允恭(いんぎょう)天皇 412-453
412[允恭天皇]は持病を理由に即位を断っていたが、まわりの強い要請で即位。
病気がちだったが、新羅から腕のいい医者を連れて来て持病を治してもらった。
「氏」は同じ先祖をもつ豪族のグループ名のようなもの。「姓」は天皇から強い豪族「氏」に与えられた称号のようなもの。例えば、蘇我氏は「蘇我臣(そがのおみ)」、大伴氏は「大伴連(おおとものむらじ)」と呼ばれた。
※「姓」=臣・連・君・直・造・首・史・国造・県主など
しかし、権利を乱用したり、結婚の際に素性をごまかすために氏姓を偽る者が多くあった。
正しい氏姓を名乗らせるため、熱湯に手を入れて偽りがないと誓約する「盟神探湯(くがたち)」を実施。
嘘をつくと火傷を負うとされ、恐怖から自白する効果があり、乱れた氏姓制度があらためられた。
在位42年 78歳で崩御。
20代:安康(あんこう)天皇 453-456
456 【眉輪王(まよわのおおきみ)の変】[20代:安康天皇]は、弟[21代:雄略天皇]の結婚相手を探していた。[仁徳天皇の娘]がいいと、ある豪族を[仁徳天皇の皇子]のもとへ遣いに出す。
[仁徳天皇の皇子と娘]は喜んで、返事と一緒にたくさんの贈り物を遣いの豪族に持たせた。
ところがその遣いの豪族はお宝に目がくらみ、贈り物を自分のものにしたうえに「結婚を拒否されました」と[安康天皇]に嘘を伝えてしまう。
[安康天皇]は侮辱されたと激怒し[仁徳天皇の皇子]を殺してしまう。
殺された[仁徳天皇の皇子]の妻と、当時7歳の息子[眉輪王(まよわのおおきみ)]は、罪に問われず[安康天皇]の家に置かれたのだが、無実の罪で父を殺されたことに恨みを募らせ、[眉輪王(まよわのおおきみ)]は、父の仇!と、寝入った[安康天皇]を暗殺する。
全てを理解した[雄略(ゆうりゃく)天皇]は、この大きな事件のもととなった「遣いの豪族」を殺し、[眉輪王]も、隠れていた屋敷ごと焼き殺した。
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在位3年 暗殺により54歳で崩御。
★天皇の暗殺は、[32代:崇峻天皇]と[20代:安康天皇]の2人だけとされる。
【眉輪王(まよわのおおきみ)の変】のあと、事件の関係者を次々と殺していった[雄略(ゆうりゃく)天皇(ワカタケル大王)]
混乱に乗って、王位を約束されていた[17代:履中(りちゅう)天皇]の皇子を、狩猟に誘い出し殺害。
天皇の座を奪う。(日本書記より)
[21代:雄略(ゆうりゃく)天皇 456-479]
ワカタケル大王。発掘情報から実在する可能性が高い天皇。
反対勢力を倒す勢いのまま、反抗的な豪族たちも徹底的に殺し「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこ)」つまり暴君と伝えられる。
兄弟、従兄を次々と殺害したため、このあと血縁が少なく、皇統の危機になるほど。
しかし、その手腕は大和政権の力を飛躍的に拡大させた。
これまでは有力豪族の連合体のようなものだった倭国だったが、[雄略天皇]が「専制君主」として君臨し、大王が倭国を支配しするという「中央集権体制」に変えた。・・・記紀
日本は「高句麗」を破り「新羅」に攻め込んだが逆転して敗北。
日本と仲の良かった「百済」は「高句麗」に攻め滅ぼされたので、翌年[雄略天皇]は倭国の管轄する任那(みまな)の土地を分けてあげて百済を復活させた。
中国の「宋」や「秦」から手工業の織物や、養蚕業を教わり、渡来人技術者を重用した。伊勢神宮(三重県)の外宮を建立した。
479 病気で崩御。
古事記では124歳となっている!
※このころの年代は中国の西暦と照らし合わせると誤差があり、正確さは微妙。
22代:清寧(せいねい)天皇 480-484
白髪皇子と呼ばれ生まれつき白髪(アルビノかも)だったので神がかっていた。・・・日本書記
481 結婚せず子がなかったので、[21代:雄略天皇]に殺された皇子の子、兄弟2人を明石市内で探させた。
兄弟は、名前を変えて25年もの間、明石市内に隠れ住み、牛馬の飼育に携わっていた。
[清寧天皇]に探し出された二人は、宴の時に[清寧天皇]へ和歌を贈り、自分たちの身分を明かした。
[清寧天皇]は喜んで、その兄弟に王位を継承することとした。
兄は遠慮し、まず弟が即位した。
23代:顕宗(けんぞう)天皇 485-487
まず弟(36歳)が即位。★弟が天皇で兄が皇太子、という逆パターンはこれ以降も例がない。
[雄略天皇]に殺された亡き父の古墳を滋賀県に作った。
即位3年ほどで崩御(38歳か48歳)。
24代:仁賢(にんけん)天皇 488-498
弟の次に兄(40歳)が即位。
兄弟とも庶民として過ごした時期があったので、親しみがもて、国中が平和だった。
外交として、朝鮮半島の高麗から皮の工匠を呼び寄せ、手工業を取り入れた。
494 武烈天皇を皇太子に立てる。
[平群氏(へぐりうじ)]は[21代:雄略天皇]の時から政治に関わり出し、大きな権力をふるい、天皇の子孫ではないのに皇位を狙う。
【武烈天皇エピソード】
皇太子になった、のちの[武烈(ぶれつ)天皇]が好きになったのは、天皇をさしおいて実権をにぎる[平群真鳥]の息子[平群鮪(へぐりのしび)]の彼女だった。
そうとも知らず、皇太子が姫との待ち合わせ場所に行くと、[平群鮪(へぐりのしび)]も来て、姫をめぐった和歌のバトルになる。
ヒートアップし[平群鮪(へぐりのしび)]が[武烈(ぶれつ)天皇]に屈辱的な和歌をうたってしまう。
「オホキミノ(大王の)、ミオビノシツハタ(日本古代の織物の「しず」を織る機械の)、ムスビタレ(布を垂れる)、タレヤシヒトモ(誰か別の人に)、アヒオモハナク(姫が思いをかけることはないのに)」・・・日本書紀
→つまり「姫は皇子様なんか見向きせず俺だけを見てるのさ」
これに激怒した[武烈天皇]は側近の[大伴金村(おおとものかなむら)]に命令し、平群親子を討伐。
[大伴金村]は「大連(おおむらじ)」という地位を得て力を強めた。
★古事記には、[武烈天皇]の叔父である[顕宗天皇]と平群臣の祖である[平群志毘(へぐりのしび)]が争ったとする類似の話が載せられるので真相はいかに。
50歳で崩御・・・水鏡より
25代:武烈(ぶれつ)天皇 498-506
[武烈(ぶれつ)天皇]は10歳の時に即位。[武烈天皇]は、罪人への刑罰など的確で、無実の罪の疑いをはらすなど厳格な裁判を行ったが、残酷な行動も日本書紀には記録されており、人々は震え恐れていたという。
【武烈天皇のエピソード】
妊婦の腹を割いて胎児を見た
人の爪をはがして芋を掘らせた
木に登らせた人を弓で狙い討ったり、木を切り倒して落として楽しんだ
しかし [武烈天皇]については、書かれた内容が極端で、書物によっても残忍だったり優秀だったり印象が違うので、次の[継体天皇]を引き立てるための架空の人物だったのかもしれない。
後継ぎなく18歳で崩御。・・・水鏡(鎌倉時代に書かれた歴史物語)
26代:継体(けいたい)天皇507-531
[継体天皇] は、越前(福井県)を治めていて、4親等以上離れた家系だったが、[大伴金村(おおとものかねむら)]が見つけ出し推挙。
途切れそうになった皇統をつなぎとめ、字のごとく引き継いだ。
武烈天皇は天皇を二代連続で推薦したので大きな権力を手に入れていた・・・古事記・日本書記
[継体天皇] はゆかりのある越前(福井県)の大規模な治水工事を行ったり、水運を発展させることで、「越前開闢の御祖神」といわれる。
512「任那4県割譲事件」 当時の朝鮮半島は、「高句麗(こうくり)」「新羅(しんら・しらぎ)」「百済(くだら)」の三国が争っていた。
半島南部には「伽耶(かや)」という小国軍があり、その中に大和政権は管轄拠点をいくつか持っていたが、「百済」に4か所を分け与えてしまう。
理由は高句麗の圧力を緩和するためとか、[大伴金村]が賄賂をもらったとか諸説あり。
そんな中、新羅を攻撃しようと計画していたのがバレて、次の「磐井の乱」のきっかっけになる
「新羅」は九州の豪族[磐井さん]に反乱を起こすよう呼びかけた。
大和政権や[大伴金村]に不満があった[磐井さん]は、大和政権に対する激しい反乱を起こす。
[大伴金村]はこの反乱を鎮圧できず、物部氏が鎮圧したため、大伴氏は信頼を失った。・・・日本書記
古事記では43歳、日本書記では80歳で崩御。
27代:安閑(あんかん)天皇 531-535
各地に支配が及ぶよう「屯倉」を置く。関東から九州まで20~30か所に置いた。今の県庁みたいな感じ。
また守衛に用いる犬を育て飼い馴らす職業「犬養部」が初めて登場。・・・安閑記
66歳で即位、4年で崩御28代:宣化(せんか)天皇 535-539
人柄は清らかで君子らしい顔立ちをしていたと言われる。
[大伴金村]に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。
[蘇我稲目]が大臣になり権力を持ち始め、蘇我氏の全盛期となる。蘇我氏は渡来人という説あり。
大伴氏は「磐井の乱」以降弱まっていく。
69歳で即位。3年で崩御。