ジャック・ティボー Jacques THIBAUD (September 27,1880 - September 1,1953)


 ジャック・ティボーは、落魄のヴァイオリニストを父に、7人兄弟の末子としてフランスの ボルドー市に生まれた。兄弟のうち2人は幼くして死去したが、他の5人はそれぞれに音楽の道を歩んだ。 初め父はティボーをピアニストにすべくピアノを学ばせていた。ティボーは、5歳で生地の楽壇にデビュー する程の才能を発揮したにもかかわらず、ヴァイオリンの音色のとりことなり、階上に住む女性の奏でる ヴァイオリンの音を「仙女がダイヤモンドで壁をこすっている」と強い憧れを抱いていた。彼は父に内緒で、 ヴァイオリンを学んでいた兄に手ほどきを受けもした。しかし彼が9歳の時、その才能豊かな兄がはからずも夭折した。 折しもティボーは、兄の死の前日、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をセザール・トムソン(ベルギーの名手) の演奏で初めて聴き、ヴァイオリン音楽の偉大さを目の当たりにし感動を新たにした直後だった。兄の葬儀の2週間ほどのち、 ティボーは意を決して、息子の死の哀しみと闘っている父に懇願した。「お父さん、お願いです。僕にヴァイオリンを教えて下さい!」

 2年後、彼のヴァイオリニストとしての初めての公開演奏が行われた。批評家は彼を天才少年と絶賛した。 父の旧友のヴァイオリニスト・イザイも「君の息子は僕よりうまく弾いたよ」とその演奏をほめちぎった。 13歳のときパリ音楽院に入学し、名教師マルシックの門下で3年間、公私にわたり厳しい指導とあたたかい庇護を受けた。 音楽院卒業後、リュシアン・カペーの後任としてコンセール・ルージュのソロヴァイオリニストに就任し、 カルチェ・ラタンのカフェで、各界の名士達を前に演奏をするようになった。その演奏がフランス楽壇の大立者エドゥアール・ コロンヌの耳にとまり、ティボーはコロンヌ管弦楽団の楽員となり、やがてソロ奏者に抜擢された。フランスでの彼の名声が 一躍高まったのは1898年、サンサーンスのオラトリオ「大洪水」の初演がコロンヌの指揮で行われたときだった。 ティボーがその前奏曲の長いヴァイオリン・ソロを弾き終わった途端、アンコールを求める聴衆の歓声のため演奏を 中断する事態が起きた。12回も舞台に呼び戻されたということである。彼はそのシーズンだけで54回もオーケストラと 協演することとなった。フランス国内のみならず、1903年に行ったアメリカ演奏旅行は圧倒的な大成功を博し、 その人気故にツアーはほぼ1年間にも延長されるに至った。こうしてティボーは世界的ヴァイオリニストの地位を揺るぎないものとしたのだった。


       

パブロ・カザルス と アルフレッド・コルトー

 ティボーは、1905年パリで、最初のレコード録音を行ったが、この同年、ピアノのコルトー、チェロのカザルスと 初のトリオ演奏を行っている。この名手3人によるトリオ(カザルストリオ)は話題を呼び、1933年まで30年近くに わたり不定期に開催されることとなった。現在でもその録音によってカリスマ的存在となった所以をうかがい知ること ができる。第1次世界大戦中はフランス陸軍に籍を置き参戦したが、負傷して病院生活を送った。やがて復員すると スポーツで体力の回復をはかり、彼は1917〜の19年の戦中から戦後にかけてを2度目のレコード録音期とした。以降、 四半世紀にわたる長い年月、彼は世界の各地にて数々の演奏会を行い数々の貴重な録音を遺し、最も充実した 演奏活動の期間を送ったのだった。

 ティボーの演奏について、レオナール門下・フランスのヴァイオリニスト兼音楽理論学者ポール・ヴィアルドー は「サラサーテが精巧に作られた鴬ならば、ティボーは生まれながらの鴬である」と語ったが、これをヴァイオリニスト ・ジョルジュ・エネスコも的を射たものとし、加えてこう語った。 「ティボーは張りつめた4つの弦の感触を、ヴァイオリンという女神の柔肌のそれに置き換えたヴァイオリニストの 第1人者と言えよう。その演奏には、形容をこえた美の逸楽が紅蓮の炎と燃えさかっている。」 また、カール・ フレッシュは、「ティボーの演奏は官能的な快楽への渇望に満たされていた」と述べた。

 ティボーは1928年と1936年の2度来日もし、1953年秋、3度目の来日予定であった。9月1日、日本に向かう途上 サイゴンに立ち寄りフランス軍兵士慰問の演奏会を行うことになっていたが、彼と彼の令嬢、ピアニスト・ルネ・ エルバンの乗り込んだ飛行機は、悪天候のためアルプスの一角に激突炎上し、乗客30名と乗務員9名は全員、不帰の客となった。
 


 ティボーのレコードは子供の頃から自然と耳にしていたせいか、 彼の演奏で聴き知った曲は、他の演奏では何となく物足りなさを感じてしまう気がする。中身が非常に濃く個性に 満ち満ちているのに自然である。「そうあるべくして生まれてきた」感じというべきか。…幸いにも彼は多くの録音を 遺してくれたので、参考文献的音源としても随分とお世話になっている。

 ティボーの著書「ヴァイオリンは語る」はおもに彼の少年時代から名声を得るまでの回想録だが、その内容には 冒頭から唸らざるを得なかった。客間の窓辺に長いこと突っ立って世を憂う、まだ5歳に満たぬ少年ティボー。 彼の部屋の窓にはたびたびかのモーツァルトが現れ、ティボーは5歳のモーツァルトあるいは15歳のモーツァルトと 言葉を交わす。彼はモーツァルトと親しい友達なのだった。…幻想と片付けるにはあまりに明瞭な記憶。天才という 言葉はあまり好きではないが、ティボーは紛れもなくある種の天才だったのだと思う。

 ティボーの演奏には独自のポルタメントがしばしば使われている。彼に限らずこの時代のヴァイオリニストは 少なからずポルタメントを用い、その入れ方や癖が個性のひとつとなっていたようである。古い録音を聴いて育った 私にとってそうした奏法はかえって当たり前なもので、子供の頃、何故この魅力的な奏法が自分のレッスンでは 取り上げられないのか非常に不思議であった。学生時代は必然的にポルタメントをあまり入れない現代のスタイルを 勉強したわけだが、現在は、ポルタメントについては弦楽器の特長であり、感情表現の手段のひとつとして使わない手はないと考えている。


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