ジョセフ・フックス Joseph FUCHS (April 26,1899 - March 14,1997)

 ジョセフ・フックスは、彼の時代、つまりハイフェッツ (1901-1987)、ミルシテイン(1903-1992)、エルマン(1891-1967)といった弦楽器奏者 の黄金期の中にあってなお、偉大な存在と言わしめるヴァイオリニストであった。

 彼は、ウィーンから移民してきた音楽好きな両親の下、5人兄弟 の長子としてニューヨークに生まれ育った。(有名なヴィオラのリリアン・フックス(Lillian Fuchs) とチェロのハリー・フックス(Harry Fuchs) は彼の弟妹である。)彼は肘の怪我 のリハビリのために4歳でヴァイオリンを始めたが、彼の驚異的な才能はたちまちのうちに 認められ、14歳からメーン州ブルーヒルに移り住みInstitute of Musical Artにて、ジュリアード音楽院教授のフランツ・クナイゼル(Franz Kneisel) に師事した。その後、彼はコンサート・ヴァイオリニストとして輝かしいキャリア を積む一方で半世紀に渡りジュリアード音楽院にて教鞭をとり、 また数々の有名国際コンクールの人気審査員としても広く音楽界に 貢献することとなった。

 フックスは21歳でニューヨークにてリサイタルデビューを果たし、 その後、アメリカ合衆国やヨーロッパをはじめ、ソヴィエト連邦、イスラエル、日本、 ラテン・アメリカなどで、数多くの著名なオーケストラと協演した。ニューヨークの ソロ演奏家の多くがそうであるように、彼も名声ある音楽家による協会を共同設立し、 季節ごとに室内楽の演奏会を開催した。フックスの顕著なキャリアはレコーディングにも及び、ピアニスト ・アルテュール・バルサム(Artur Balsam)と共同制作されたベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのための全ソナタの レコードは、絶頂期には直筆サイン付きで発売されたほどであった。

  フックスのソ連での演奏を聴いたダヴィド・オイストラフ(David Oistrakh) は、彼を奇跡的な音楽家だと称した。ニューヨークでの批評家評も良く、 ニューヨークタイムズ紙のハロルド・ションバーグ(Harold Schonberg) は「彼は楽器の完全なるマスターである」「ヴァイオリンの貴族である」と書いた。 ニューヨークHerald -Tribune 批評家ヴァージル・トムソン(Virgil Thomson) は「ジョセフ・フックスが音楽を奏でる のを聴くことは、ニューヨークで暮らす者の特権のひとつである」と書いた。

 フックスはこのように最高に優れた演奏家であったが、 一方で、ヴァイオリン教授としても多大なる貢献を果たした 。ジュリアード音楽院とイェールでの教鞭はもちろん、マスタークラス、テレビコンサート、 メーン州ブルーヒルのクナイゼル・ホールに共同設立した室内楽学校、そして、彼が晩年になって創設・監督した 夏期室内楽プログラム(Orono のメーン大学(University of Maine) とニューヨーク州アルフレッドのアルフレッド大学(Alfred University) における)の数々にその足跡を見ることができる。 彼は何世代もの弦楽器奏者を教え導き霊感を与えた。彼の門下生は今やアメリカ 全土はもとより世界各国で、ソリスト、室内楽奏者、コンサートマスター、音楽大学 教授などとして幅広く活躍している。

 フックスは常に彼の「鉄の弓」と呼ばれるボウイングの妙技と 非の打ち所のないテクニックを賞賛されてきたが、体力の高齢化は否めなかった。40歳ですでに 自分にヴァイオリンを弾くための再訓練を課した。彼はアルテュール・ロジンスキー指揮の クリーヴランド・オーケストラでコンサートマスターを13年間勤めた のであったが、その間に左手の指の萎縮に苦しむようになった。それは幼年時代の肘の怪我に 起因するもので、確実に起こる麻痺と実験的な 神経手術の間で選択を余儀なくされた。幸い手術は成功し、1年間の集中的な努力によりフックスは 完全に楽器との親密な関係を取り戻すことができた。数年後の 第2次世界大戦下、フックスは陸軍病院へ奉仕演奏に行き彼独自の肉体的リハビリの経験を兵士に語った という。

 1950年代からフックスは有名なストラディヴァリウス"Cadiz"を弾いていた。 彼は、スタンダードなレパートリーのみに決して甘んじることなく 、新曲や忘れ去られた古い曲を紹介し、そのレパートリーの拡大を はかった。マルティヌーのヴァイオリンとヴィオラのためのマドリガルは、フックスと妹のリリアンのために 作曲された。ピストンのヴァイオリン協奏曲2番はフックスのために書かれ彼に献呈された。

 1980年代も終わる頃には彼と同世代のヴァイオリニストで現役は もはや誰もおらず、フックスは是非にとぜひにとこわれ、1988年11月、 珍しいルーセルやフリッカー、フランセのソナタなどを含む20世紀音楽によるリサイタルを ニューヨークのカウフマン公会堂で行った。彼の最後のリサイタルは1992年秋、カーネギーホールであった。 彼は98回目の誕生日を迎える6週間前、命尽きるまで、ジュリアード 音楽院で教鞭をとり続けた。
 


 フックス先生と初めて会ったのは1993年ニューヨーク州アルフレッド の室内楽講習。95歳とは思えない強い眼の光、その手の大きさが印象的だった。音楽にのぞむ姿は常に真摯でときには 容赦なく、彼の周りは、彼を偉大な音楽家と畏怖しつつも心から慕う本物のお弟子さんでいっぱいだった。

 時折お得意のワンボウ・スタッカートを自慢げに披露してくれたり、パーティでバッハの無伴奏パルティータを 怪しげに「変奏」して笑いを取ったりするフックス先生は、彼の偉業を知らぬ当時の私の目には「かわいいお爺ちゃん」と 映ったものだった。「あと20歳若かったらあなたをお嫁さんにするのに」と茶目っ気たっぷりにおっしゃったときは、 う〜んとうならざるを得なかった。20歳若くても彼は75歳なのだ!(^^;) 彼はたいへん紳士で愛妻家で、 いつも奥様と一緒だった。師・金関氏と共にニューヨークのご自宅を訪れたときもお二人で とてもやさしく迎えてくださり、素敵なご夫妻という印象を強く持った。
 
 

G.ディクタロー氏(左)とフックス先生(中央),吉見由子
94年夏・アルフレッドNY、バッハのドッペル本番の後、楽屋にて。
後日、お二方それぞれにサインをいただいた。私の宝物の写真。




 彼の生演奏と触れたのは94年の同講習の講師演奏会。曲目はバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲、 ニューヨークフィル・コンマスのG.ディクタロー氏(写真左)とのデュオだった。(光栄にも、私もバックの弦楽 オケの一員として同じ舞台にのった。)あんなにおもしろいバッハのドッペルを聴いたのは初めてだった。以降、 彼の残したLPやCD録音を可能な限り買い集めて聴いた。室内楽、ベートーヴェンのソナタ…語り続ける音楽、 豊かで深い音色、絶妙な節回し。彼の人となりが伝わってくる。厭きない。私をこんなに納得させてくれる演奏は 他にはないと思った。

 残念ながら94年を最後にアルフレッドの講習は幕を下ろし、数年後フックス先生もついに還らぬ人となった。 私は、93・94年の二夏12週間の彼を知るのみだが、音楽の古き佳き時代を生きた偉大な音楽家と触れ合うことが できたこの経験は、何物にもかえがたい私の宝物となって、その後の私の音楽に少なからず波紋を投げかけ続けている。


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