ヤッシャ・ハイフェッツ Jascha HEIFETZ  (February 2,1901 - December 10,1987)

 「完全のあくなき追求者」と言われるヴァイオリニスト・ ヤッシャ・ハイフェッツ。彼は1901年2月2日、現在ヴィルナ(Vilna) という名で知られるリトアニアの古都に生まれた。3歳の時、音楽教師であった父が初めてのヴァイオリンを 与えると、3年後には聴衆の前でメンデルスゾーンの協奏曲を弾くまでに至った。1910年、 レオポルト・アウアー(Leopold Auer) の後見を受けペテルブルク(Saint Petersburg) 音楽院に入学し、翌1911年4月30日には その地で初の公式の演奏会を行った。その後次々にヨーロッパ各地へソリスト として赴いたが、その間にも彼はアウアーのもとで研鑚を積むことを決して忘れなかった。ベルリン の演奏会にたまたま居あわせた偉大なヴァイオリニスト・フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875-1962) が、まだほんの13歳のハイフェッツ の演奏を聴き「我々に残されたのはもはや楽器を投げ捨てることだけだ」と語った と言われている。

 その後1917年に勃発したロシア革命を避け、ハイフェッツ 一家はシベリア経由でアメリカに渡りニューヨークに身をおいた。同年10月17日、ハイフェッツは カーネギーホールにおいてニューヨークデビューを果たし、批評家からも一般聴衆からも大喝采を 持って迎えられた。ハイフェッツは一夜にしてアメリカの大スターとなったのであった。以来、 引退するまでの約半世紀もの間、ハイフェッツは当代最高のヴァイオリニストとして世界を股に 掛け華麗なる演奏活動を繰り広げ続けた。

 ハイフェッツの演奏の特異性については、完璧・精巧無比・ 人間の限界を極めた、など様々取り沙汰されているが、情熱と厳格さが混淆していることを説明する最も よい例は、彼のニューヨーク・デビューリサイタルを聴いた2人の有名な音楽家の会話だろう。アウアー 門下の先輩にあたる世界的に有名なヴァイオリニスト・ミッシャ・エルマン(Mischa Elman, 1891-1967) は、友人の作曲家・ピアニストのレオポルト・ゴドフスキー(Leopold Godowsky) と隣り合って座っていた。エルマンは、大きなホールで16歳の少年が聴衆に向けて放つ魔力 のような芸術とテクニックに眉をこすりながら聴いていたが、やがてゴドフスキー に向かって言った。「ここはとてもアツイね。」ゴドフスキーから返ってきた言葉はこうだった。 「ピアニストには寒いね!」

 ハイフェッツのレパートリーは膨大で、バロックから現代、 長大な協奏曲から当時演奏家にとって重要な位置を占めていた小品群まで、多岐に渡っていた。彼は作曲 ・編曲も手がけ、華やかな装飾や離れ技を盛り込んで大いに聴衆を喜ばせた。またその演奏の多くを レコーディングに残したことにおいても顕著であり、おかげで今日我々が彼の音楽のエッセンスを うかがい知ることができるのである。

 ハイフェッツは1925年にアメリカの市民権を得、1940年代 にはカリフォルニア州ビヴァリーヒルズに快適な家を持った。彼は60代になった頃から少しずつその演奏 活動を減らし、1972年に最後の公式リサイタルを行った。1987年12月10日ロサンゼルスの病院で その輝かしい生涯を閉じた。


 ハイフェッツの演奏を初めて聴いたのはたぶん4歳の時。 寝付きが悪かった私に、両親が子守歌代わりにLPをかけてくれたのだが、その中で一番のお気に入りに なったのがハイフェッツの小品集だった。せがんでは夜な夜な聴いた。ツィゴイネルワイゼンから始まり サンサーンスの序奏とロンド・カプリチオーソ、ハバネラ…と続くそのオケ伴奏のLPは、子守歌にするには かなり激しい気がするのだが、当時の私は、端正で軽快で乱れの全くないハイフェッツの演奏に気持ちを委ねる ことで安心して眠りについたようである。(変な子供である…。(^^;) )

 近年の私は「人間くさい音」が好きで端正な彼の演奏は少し毛色が違う気もするのだが、何事もなく難所 を弾いてのけるその超人さの裏側に随所に見られる彼独特の熱さには不思議な魅力を感じ、また、親しい友人 にすらファーストネームではなく「ミスター・ハイフェッツ」と呼ばせた彼のプライドの高さが逆に彼の人間 くさい片鱗をうかがわせたりもし、現在も私の中で、取り上げないわけにはいかないヴァイオリニストの1人となっている。


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