12 帰国 & モンゴル雑感
帰国 |
ザイサンの丘からウランバートル市街地を望む |
ウランバートル市内を歩いてみても,到るところに高層マンションが建ちかつ建ちつつある。デパートやスーパーに入ると,電化製品をはじめ豊富に品々が
並べられているし,市内には日本レストランを始め,韓国料理,ギリシャ料理,イタリア料理店まである。
英語は,たいていのところで通じる。
市街地中心部は,車の洪水。ラッシュアワーには渋滞さえ起こっている。
ところが,中心街から,一歩外れると,板囲いで区画された土地に安上がりに建てられたゲルと木造掘っ立て小屋に住む人々が何十万人といる。
多数の遊牧民の 暮らしがたたなくなって,やむなく首都に流れ込んでいる為だという。
モンゴル人口の半分近くが,首都に集中するという異常事態で,ここにも格差社会が出現しているようだ。
アパートが林立,車も多い |
人口集中したウランバートル市の目下最大の悩みの一つが, 水問題である。
ゲル住民の一人あたり水消費量は一日5リットル(バケツに一杯程度)だと言う。わたしの試算によれば, 日本の援助で実施されている上水道改良工事が完成しても,ウランバートル市民一人当たり上水供給量は一日30リットル,文化生活を送るには程遠い量である。
ウランバートルの水源となっているトーラ川の流量が,近年際立って少なくなっているという。支流のセルベ川は既に完全に干上がっている。
旧ソ連・ロシアの影響が,まだ色濃く残っていることも気になる。
国有鉄道の資本金の半分を依然ロシアが保持しているという。
国内線航空機は,オンボロの旧ソ連製アントノフ。
古ぼけたロシア時代のアパートはいまだ健在であるし,ロシア人たちが捨て去って廃屋同然のアパートが 再び使われ始めているとも聞く。
また,町の中はキリル文字全盛である,アルファベットは,稀にしかお目にかかれない。
新聞もしかり, 飛行機内には普通は英字新聞が置いてあるものだが,手にした新聞は,キリル文字で埋められていた。
人口の3割,GDPの3割を占める遊牧民の処遇も大きな問題であろう。
市場経済移行後,遊牧民にも競争原理が働くことになった。
家畜の私有化に続いて土地の私有化も始まりそうである。
牧地をめぐる紛争の復活・物価の高騰・物不足,さらに天候不順によるゾド(家畜の大量死) が追い討ちをかける。
モンゴル経済で大きな比重を占める牧畜業の将来を如何にするかは,目下の政権党「人民革命党」の重要課題だろう。
国内の交通インフラも貧弱である。
鉄道は,国内を南北に縦断するスフバートル~ウランバートル~ザミーン・ウード(ロシア,中国の鉄道網に接続している)とダルハン~エルデネ,バカハンガイ~バガノールを結ぶ支線および東部のチョイバルサンからロシア国境につながる路線,合計約2000kmの単線軌道網のみである。
道路は,計画中の東西南北幹線道路のごく一部が整備舗装化されているに過ぎない。
ほとんどが草原のガタガタ轍(わだち)道といっても過言ではない。
国内航空路路線は,首都と地方を結ぶ3路線のみである。
面積156万平方キロ(日本の約4倍) の国土にして斯くの如き状態は全人口が250万人であることを考慮にいれたとしても,交通インフラの早急な整備が望まれる。
「日本から贈られた乗り合いバス」 ステッカーには“1995”と印刷されている。もう10年も経過しているのに,律儀にも“日の丸”マークがつけられ,大勢の市民を乗せてウランバートル市街を走り回っていた。 |
でも,モンゴルは,国民の勤勉さと資源の豊富さで,徐々にそして確実に発展していくものと思われる。
ウランバートルに着いた時, 「おっ! たいした町ではないか!」と驚いた。
正直言ってこれほどの発展段階にあるとは思っていなかった。
帰りの飛行機内で手にしたモンゴル新聞に「人材育成奨学金プログラム」という日本への奨学金留学生20名募集の記事が目に入った。英語,日本語,モンゴル語で書かれていた。
いま,日本とモンゴルは友好的関係にある。
たくさんの日本人がモンゴルを訪れ,たくさんのモンゴルの人たちが日本語を学び,日本の文化,科学技術を学びに日本を訪れ,ますます親密な関係が築かれることを願う。
いつの日か,自然の美しさも保たれ 人々の生活も豊かになったモンゴルを再訪したい。