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GUNMA  MATUIDA

 04 AUGUST 2005

碓氷峠アプトの道をたどり”めがね橋”を探訪

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 旧丸山変電所までは,勾配のゆるいダラダラ坂である。歩くには殆ど平坦といってもいいくらいの勾配であるが,何しろ暑くてあつくてかつ単調な一本道,雨傘を日傘代わりに使って,携帯魔法瓶の冷えた水を飲みつつ,ひたすら歩く。

 ところで,ここらで
峠越え旧碓氷線の歴史 をざっとまとめる。

1884年(明治17年)3月:横川ー軽井沢間ルート調査開始
1884年(明治17年)5月:上野ー高崎間開通,
1885年(明治18年)10月:高崎ー横川間開通
1888年(明治21年)12月:直江津ー軽井沢間開通
1891年(明治24年):横川ー軽井沢間着工
1893年(明治26年)4月1日:アプト式信越本線・横川〜軽井沢間開業
1912年(明治45年)5月11日:電気機関車による営業運転開始
1963年(昭和38年)7月15日:粘着式のEF63電気機関車による新線開通
                    (複線化後の上り線) アプト式の旧線も運用
1963年(昭和38年)9月30日:アプト式信越本線・横川〜軽井沢 廃止
1966年(昭和41年)2月1日:熊ノ平駅 廃止
1966年(昭和41年)7月2日:アプト式を改築した,新線の下り線開通・複線化完成
1997年(平成9年)9月30日:横川ー軽井沢間 廃線

 なお,碓井線の歴史については,

  信越本線碓氷峠鉄道施設のページ末「急勾配に挑んだ軌跡〜信越本線碓氷峠〜」
                   および
  整備新幹線計画と新幹線「あさま」の「プロローグ 碓氷峠の歴史」

 に詳しい。

 さて,また”アプトの道”に戻る。やがて遊歩道の右手に
旧丸山変電所が見えてくる。トロッコ列車も,ここに数分間停車して,日本で最初に電化された碓氷線に電力を供給し,いま優雅な姿が復元されたこの建築物をカメラに収める時間がとれる様に”乗客サービス”をしてくれる。
 
 わたしは,じっくり見学する。
 昭和38年から風雨にさらされ,屋根も落ちて無残な姿であったのが,2000年5月から2002年7月にかけて実施された保存修復工事によって,格調高いレンガ造りの見事な姿を見せてくれている。
 文化庁,松井田町教育委員会の説明文を,そのまま転記する。

国指定重要文化財
                 旧丸山変遷所について 〜歴史〜

 丸山変電所は,明治45年(1912年)碓氷線を走る機関車の電化に伴い造られたものです。碓氷線とは,信越本線の横川ー軽井沢間の通称です。信越本線は日本の近代化を担う重要な鉄道の一つでした。
 碓氷線は日本で唯一アプト式を取り入れ,日本一の急勾配である碓氷峠(66.7パーミル)を越えていました。
 しかし,遅い速度・低い輸送力・トンネル内での煙などの問題に悩まされていました。これらの問題を解決するために,日本で最初に電化されました。
 丸山変電所の役割は,発電所からの電気を機関車に供給することでした。昭和38年(1963年)新線開通に伴い丸山変電所はその役割を終わりました。
 その後丸山変電所は,日本の近代化に貢献した鉄道施設の様子をよく示すものとしての価値が認められ,平成6年(1994年)12月27日に国の重要文化財に指定されました。そして平成14年(2002年)7月に修復工事が完了し現在に到っています。
国指定重要文化財
                丸山変電所について 〜建物〜

 丸山変電所は2棟の建物から成っています。
向かって右側の建物が蓄電池室,左側の建物が機械室です。
 蓄電池室では,機関車が峠にかかる時に必要な電力を補うため312個の蓄電池が並んでいました。充電中は室内に水素と有害物質の硫酸雲霧が大量に発生するため,窓・引き戸などは通風に適するよう工夫されていました。
 機械室では,発電所から送られてきた交流電気を直流電気に変えて,蓄電池室内の蓄電池と機関車へ送電しました。
 丸山変電所は工場建築に近いため華やかさには欠けますが,正面出入り口や側面には控えめながら装飾的な要素が加えられ,落ち着いた格式高いものとなっています。
煉瓦造り建築の最盛期のものであることが実感される,今に伝わる数少ない遺産です。

  信越本線碓氷峠鉄道施設の「旧丸山変電所」で,保存修復工事の様子を記録した多数の写真を見る事が出来る。

 丸山変電所を過ぎて霧積川を渡った辺りから,線路が急勾配となる。
およそ20数分,水分補給をしっかりしながら進む。
11時過ぎ,トロッコ列車の終点駅ともなっている,
峠の湯に到着。

 ここで,早めの昼食(上州梅そば 800円)兼休憩。既に空となった水筒に自動販売機から冷えたポカリスエットを補給して,またエッチラ,オッチラ。

 ここから,更に急勾配となる,これが1000分の66.7の勾配か?東京国際マラソンの40km付近,毎回悲喜こもごものドラマが展開される市谷外堀通りの上りと同じくらいの勾配だ。こんな坂道を,蒸気機関車で,よくも登ったもんだ。計画した人間も造った人間も,機関車も全くえらいね〜,脱帽する。
 まさに 「♪なんださか こんなさか トンネル てっきょう トンネル てっきょう・・・・・・ ♪」 の世界だ。



旧丸山変電所全景(側面) 旧丸山変電所蓄電池室入り口
 トロッコ列車  バットレスよう壁
 
 峠の湯を出るとすぐ国道18号線の下を立体交差でくぐって,
1号トンネル(長さ187.06m)→第二橋梁(長さ24.95m)→2号トンネル(長さ112.75m)→3号トンネル(長さ77.53m)→4号トンネル(長さ100.26m)→5号トンネル(長さ243.61m)を抜けた所が碓井第3橋梁(お目当てのめがね橋の上である。これらの構造物は,すべて国指定重要文化財である。
 
 この間,ゆっくり歩いてもおおよそ50分,木の間ごしの陽光の下をくぐったり,トンネル内の冷気を浴びたりしながら快適なウォーキングが出来る。
 
  トンネル工事の経過や各坑門の写真が信越本線碓氷峠鉄道施設の隧道(トンネル)に詳しい。

 トンネル内は,煉瓦が剥がれ落ちかかったり,補強のためのコンクリート吹き付けさえ既に剥がれかかっていたりして,建設以来110数年も経って,さすがに痛みが激しい。遊歩道として一般に開放するため,更にロックボルトやH鋼材による補強,トンネル壁面からの湧水処理など安全対策が施されていることがよく分かる。

 5号トンネルを抜けると,そこは,めがね橋の上,ここからはこの橋の素晴らしい姿を見ることが出来ない。軽井沢側の6号トンネルの手前右手から国道18号に降りる道が出来ている。
また,橋西詰には,ボランティアガイドが待機していて,懇切丁寧に碓氷線の歴史・経緯などを話してくれる。
 6号トンネル(長さ546.17m)より軽井沢方は立ち入り禁止となっている。熊ノ平まで行けるようにして貰いたいものだ。
 坑口にしばし腰を降ろし奥から吹き出してくる風の涼感を楽しんでから,18号線に下り,第3号橋梁の全体像を眺める。

  橋梁工事経過と第3橋梁についての記述は,信越本線碓氷峠鉄道施設の橋梁を参照。

 赤い煉瓦の4連アーチが,その美しさと芸術性で迫ってくる。昔,何回もこの峠道を車で上り下りして,そのつどいつかじっくり見てみたいと思っていたが,ようやく実現した。郷愁をかきたてられながらしばらくためつ眇めつ時間を過ごす。橋脚の中間に2箇所ほど柱状の石を差し込んだようなブロックが造ってある,構造物の安定を図る先人の工夫であろうか?
 
 ガイドの話では,ここで使われた煉瓦(約200万個)の多くは,”深谷レンガ”だと言われている。深谷というとすぐ”ネギ”を連想してしまうが,レンガ製造でも有名な所である。渋沢栄一翁の生まれ育った所でもあり,明治政府の進めた東京改造計画に参画して,不燃性建築素材としてレンガに着目し,郷土深谷の土がレンガ生産に適していることに着目し明治20年(1887年),日本初の機械式レンガ工場を設立した。
東京駅をはじめ明治から大正にかけて多くの近代建築物がここから出荷されたレンガで建設されたそうだ。

 
 めがね橋を,たっぷり眺めた後,来た道を戻る。帰りは楽勝!トンネル内は涼しいし,木洩れ陽の中を,これから登ってくる人たちと挨拶を交わしながらのんびり下る。途中右手に碓氷湖を望み,40分ほどで「交流館
峠の湯」に1時半ごろ到着。

 ここで,温泉に浸たらない手はない。
この温泉は,おそらく,10数年前,ふるさと創生資金といって,政府が市町村に配った1億円を使って,町が開発したものだろう。泉質はナトリュウム炭酸水素塩・塩化物泉,やわらかくて良い湯である。
 湯に浸かっていると,横川駅を発つ時から,追い越したり,追い越されたりしていたシニアグループが,どっと入ってきて,それこそカラスの行水みたいに,さっと浴びて,さっと生ビールを引っ掛けてそさくさと去っていった。聞けば,本日の上りトロッコ列車は,14時30分が最終だと言う。

 わたしは,峠の湯〜横川駅間の無料シャトルバス(本日の最終は16:25。8人乗りのタクシーで町が委託して運行しているらしい,トロッコ列車の営業を配慮してのことかシャトルバスのことは,どこにも表示していない。僅かに横川駅バス広場に運行時間表があるのみで,峠の湯にも案内表示はおろかバスストップすらない。)があるのを,調べておいたので慌てず,休憩室でゆっくりジョッキを傾け,一眠りする。
 ここから裏妙義の山並みが美しい(今日は,ちと高曇りなのでイマイチだが,カメラに収める)。

 横川駅前の「おぎのや」で”峠の釜飯”をお土産に買い込んで,帰路に着く。
 横川 15:56→高崎 16:26 1635→赤羽17:59 

 本日のアプトの道ハイクは,今月末,酷暑真っ盛りのシルクロード旅行に向けての耐暑訓練みたいな一日とはなったが,まずは無事帰還。


3号トンネル(横川側坑門) 5号トンネルのアーチ補強
 
 坑門は,安山岩の切石積。堂々として風格がある。軽井沢方に4号トンネル更に5号トンネルの坑口が見える。
 
 トンネルの内壁レンガの剥離が進んでいる部分は,安全確保のためH型鋼と吹き付けコンクリートで防護してある。
 ボランティアガイドの話によると,アプトの道をオープンするのに町は数億円の整備費をかけたとのことである(町にはそんな金がないのですべて国と県の補助金で)。

 5号トンネル壁面  第3号橋梁から新線を望む
 側壁レンガの剥落を抑えるために施した吹き付けモルタルも剥離している。左の竪樋状のものは湧水を流下させる設備。   昭和38年7月開通した新線の橋梁。こちらも長野新幹線開業に伴い平成9年7月から営業運転されていない。不定期に観光用特別列車が運行されると聞いているが,詳細不明。
5号トンネル内 5号トンネル内からめがね橋上の遊歩道
 トンネル内は7:00〜19:00照明が入る。入場無料。
 アプトの道全区間とも歩行者専用で,自動車・オートバイ・自転車等軽車両の乗り入れは禁止されている。
 5号トンネルを出たところがめがね橋の上。紅葉の時期もまた美しいと言う。
 渡った所に松井田町のボランティアガイドがいて,親切に説明してくれる。ここから先6号トンネルより軽井沢方は進入禁止。


碓氷第3橋梁(↓クリックして拡大) 碓氷第3橋梁P1(↓クリックして拡大)


 ピアの上部に施されている串刺し状の石材は,何のためのものか?
 通称「めがね橋」。長さ87.7m・高さ31.394m。 四径間アーチ。横川〜軽井沢のアプト線では最大の橋梁。煉瓦積み。
 1892年(明治25年)4月に建設が始まり12月に完成。国重要文化財に指定(平成5年8月17日)されている。

 芸術と技術が融合した美しい赤煉瓦のアーチ橋に,郷愁をかきたてられる。
 200万個のレンガが積まれたと言う,一つひとつのレンガが人の手で積層されていったなんて驚き!気の遠くなる様な仕事だ。
 既に42年前に使命を終えているが,今も長い年月の風雪に耐えて微塵の狂いもなくその堅固さを保っている。いつもながら近代化遺産の工芸品のような手造りの暖かさと品格を感じると共にこれらを造った人たちの偉大さに思いをはせる。
 
 国道18号碓氷峠は,車で何度も昇り降りしているが,その度「あ〜なんて美しい煉瓦アーチ橋があるんだろうか」と思いつつ,今日まで,じっくり見たことがなかった。今回やっと念願達成!
 
 わたしは,このアプト式碓氷線を,太平洋戦争の際の長野疎開で一往復,社会人になってから廃線になるまでの1年半ほどの間に数回利用しているはずだ。
 ガッタンゴットン 々 々 と ゆっくりゆっくり走る車窓からの眺めや,熊ノ平駅で一息ついた情景は,わずかに思い出すことが出来る程度になってしまっている。鉄道マニアを除いて,わたしらが碓氷旧線乗車経験のある最後の年代かも知れない。
 
碓氷湖 交流館峠の湯
 信越線の右側を流れる中尾川と碓氷川の合流点を堰き止めて造った人工湖。四方を国有林の大木に覆われ,秋の湖面にうつる紅葉は素晴らしいそうだ。

 ダムは昭和32年建設省所管の砂防ダムとして竣工した坂本ダム。昭和56年,灌漑及び上水道用として県に移管。
 
 ダム諸元などは,群馬県安中土木事務所の
   <<ダムへの道案内>>坂本ダム
 に詳しい。
 遊歩道アプトの道ウォーキングのほぼ中間地点,憎い所にある天然温泉。トロッコ列車の折り返し駅にもなっている。
 入館料大人500円(3時間),循環ろ過式,加温ではあるが,ウォーキング後,一汗流すには絶好の湯である。


 碓氷峠の森交流館峠の湯公式HP
峠の湯から裏妙義を望む
 
 
 

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