「原の辻遺跡」
石田町と芦辺町に跨って「深江田原」(ふかえたばる)とよばれる長崎県第2の平野がある。当たり一帯タバコ畑と壱岐焼酎用の麦畑が広がっている。
原の辻遺跡はこの平野の中にある。
紀元前2~3世紀から紀元3~4世紀にかけて形成された大規模な多重環濠集落で,東西、南北ともに約1km四方に広がっている。平成7年、原の辻遺跡は『魏志倭人伝』の中の「一支国」の王都と特定された。発掘調査途中のため、古代史を書き換えるような発見が相次いでいる。最近ではムンクの絵のような人面石が話題になった。「原の辻資料館」に入って出土品を見学する。
「安国寺」
1388年(暦応元)足利尊氏が,平和祈願と元寇の役の犠牲者の菩提を弔うため,全国六十六ヶ国と二島に安国寺建立を命じた。壱岐では従来あった海印寺を安国寺に当てた。
境内の千年杉の巨木が目をひく。
さて,そろそろ昼時。
昼食を”生うに”を食べたいとのご婦人方の要望あり,ところがうには6月からが旬なので,当初予定していた芦辺港近くの食堂「ほうげつ」では,冷凍ものしかないとのことで,運転手のNさんが,あちこち連絡してくれ,芦辺町八幡浦の「はらほげ食堂」に案内してくれた。
途中,右手の青島に火力発電所が見える。
島嶼では日本で一番初めに出来た火力発電所だそうだ。壱岐出身の電力の鬼と呼ばれる松永左エ門のおかげだという。ちなみ石田町印通寺浦には「松永記念館」がある。
この「はらほげ食堂」は,うに飯・うに丼が旨いと有名なところだという。
メニューは
生うにぶっかけ定食(1900円),はらほげ定食(1600円),うに飯定食(800円),イカ刺身定食(1000円・・・・・・・・・
「うにめし」というのは、ウニを御飯に混入して炊きあげた,炊き込みウニ御飯,「うに丼」は白御飯の上にウニを乗せた丼。
わたしとko君は「うに飯定食」を注文したわたしとKO君には,壱岐観光協会肝いりのアンケート用紙が配られ,後日抽選に当たると素晴らしいプレゼントが送ってくるとか,楽しみに待つことにしよう。
げぇ~っ フェリーが全便欠航だって!!
旨いうに飯を食べて腹も一杯になったところに,フェリー全便欠航のニュース。やっぱり不安的中!!
食事を終わったらもう2箇所ほど観光して港に行こうと思っていたのだが,仕方ない壱岐にもう一泊するしかない。
で,K君の元部下の同級生で,石田町で玄海交通という会社の会長をしているAさんが今夜の宿を手配してくれる。
勝本町湯の本温泉にある国民宿舎壱岐島である。ラッキー今夜は温泉だあ~!
「はらほげ地蔵」
「はらほげ地蔵って何?」って思ったが,Nさんの説明でなるほどと分かった。「はら」は腹,九州の方言で”ほげる”とは穴があくってこと。 というわけで,「はらほげ地蔵」は「はらがほげた地蔵」すなわち「お腹に穴があいている地蔵」のことで,海の中(の台座)に立っているお地蔵さんなのだった。誰が何時何の為に祀ったのか明らかではなく,海女さんの守り神とも,捕獲した鯨の慰霊の為だとか,海上安全のため,疫病退散祈願のためのお地蔵様とも伝えられているそうだ。
塩分による風化が激しく頭部分はコンクリートで付け替えてあるという。
「左京鼻」
八幡半島の先端,玄界灘に面して切り立った総延長約1kmにも及ぶダイナミックな海蝕崖。玄武岩特有の柱状節理が発達,海中からは細い柱を束ねたような奇岩が突き出ている。壱岐島誕生神話の八本の柱の一つ「折柱(おればしら)」である。海鵜のおびただしいフンに覆われている。
風が激しく車外に出られない。
先年,鯨が上がったという清石浜海水浴場を右手に見て芦辺港へ。
本来は,ここで島内観光終了の予定であったが,さらに島の北側勝本町へと向かう。もうタクシー観光の時間は超過しているが,これもAさんのサービスで無料時間延長である。
「千人塚・文永の役跡」,「平 景孝の墓」
文永・弘安の役で二回とも元軍は,芦辺と勝本に上陸して内陸部に侵攻したという。芦辺から勝本への県道23号沿いには「千人塚・文永の役跡」,「平 景孝の墓」など蒙古襲来時の激戦の跡が残っている。
「勝本城跡」 「曾良の句碑」 「御柱」
1591年(天正19)豊臣秀吉が朝鮮出兵にそなえて平戸藩主松浦鎮信に命じて築城させたもの。海抜78.9mの山頂部に築城。国指定の史跡。周辺は城山公園として整備され,蕉門十哲のひとり河合曽良(かわいそら)の句碑などもある。城跡からは勝本の港が一望できる。
また城への登り口に曾良出身地諏訪市から贈呈されたという諏訪大社の「御柱祭り」で使われた”御柱”が立っている。
河合曾良は,1689旧暦秋,石川山中温泉で芭蕉分かれた後,全国の神社仏閣をめぐり歩いたという。61才の時,つてあってか,筆才が役立ったのか,幕府の巡検使の秘書役としてメンバーの一員となり壱岐勝本に立ち寄った際病を得て,この地で亡くなった。
勝本城跡に句碑が建つ。
「行き行きて たふれふすとも 花の原」
「春にやめ われこじき筑紫かな」
勝本町は対馬海峡に面し,古代から北の玄関口として大陸交通の要衝として栄え,江戸時代は捕鯨基地として栄えた漁業の町である。近年は壱岐周辺の好漁場を生かしイカ、ブリ、タイなどの漁業を中心とした約700隻の漁船を有する西日本有数の漁業基地となっている。
河合曾良が病に倒れた後しばらく世話になった中藤家と聖母宮を見学して,島の北端にある「いるかパーク」に向かう。
「壱岐の土台石」
勝本港を北に抜けて対馬海峡に面した天ヶ原海岸も絶景である,山側は,まるで大きな鉈で断ち切ったような断崖になっている。その断面に見えるのが壱岐島の基盤である土台石と呼ばれる勝本層である。砂岩・頁岩の互層で大変もろく割れやすい。この新第三紀(約2500万年前)勝本層の上に,八幡半島や郷ノ浦の初瀬に見られる凝灰角礫岩と火砕流堆積物を主とする壱岐層が載り,さらに最上位に第四紀火山活動による玄武岩が広く覆って壱岐の島ができあがっている。天然記念物のハイビャクシンの群落も見られる。
「いるかパーク」は,入り江をブイと網で仕切って作ったいくつかのプールにでイルカが飼われている。環境が合わないのか死亡するいるかが多いという。
入館料200円である,子供連れでもないし70歳に近い面々がいるかを見るために入館するほどのこともないと,囲いの外からいるか存在を確認して引き揚げる。
今晩の宿は「国民宿舎壱岐島荘」は勝本町湯の本湾を望む高台にある。夕陽が素晴らしいとパンフレットにあるが,あいにくの天候で残念至極。フロントの好々爺が昭和44年9月皇太子夫妻(今の天皇・皇后)が宿泊したと嬉しそうに語っていた。(玄関脇に記念碑まで建ててあった)
離島には珍しい温泉がある。湯の本温泉と言って白山火山帯の西端に属するかなり古くから湧出していたそうである。65℃のナトリウム塩化物泉・茶褐色ぬるぬる感があって神経痛、筋肉痛、慢性消化器病などに効くという。舐めると非常に塩辛い。深さ75mの井戸から毎分75/ℓ揚湯している。
飛び込み宿泊なので,夕食は出ないとのことで,近くの割烹料理屋「しな川」まで宿のマイクロバスで送って貰う。
ここでまた新鮮海鮮料理をたらふく頂く。 帰りは,店の旦那が国民宿舎まで送ってくれた。壱岐の人は皆,人懐っこくかつ親切である
*宿舎に着いてからK君は今晩予定していた福岡のホテルのキャンセル,夕食予約のキャンセル,明日の予定変更の連絡と携帯電話をフル回転させてくれた。ありがとさん!
雨は止んだが時折風で窓がガタガタ鳴る,雲の動く方向も今朝とあまり変化が無く,低気圧の東進が遅いようで,明朝フェリーが運航されるかどうかが心配である。
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