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 中央構造線に沿った道秋葉街道を辿る
2009.10.13~15

 
 二日目は,R152を更に南下し,時間的に行けるところまで行って,二日目の宿 しらびそ高原「ハイランドしらびそ」に日没前までに着くことを念頭に予定はフレキシブルとして出発。

 * 宿からおよそ40分ほどで着けると云う南アルプスの赤石岳や荒川岳が一望でき伊那谷や中央アルプスの眺めも良好だと云う”夕立神(ゆうだちがみ)展望台”があると聞いたが,今日は曇り空なので,残念ながらパス。

 鹿塩川は,大鹿村落合小渋川に合流する。
ここから伊那谷伊那大島に通じる道路が通じている。40数年前,小渋川中流部でダム関連の調査でひと夏を過ごしたことがあるが,当時は自家用車など普及しておらず,今回旅している秋葉街道とか鹿塩などは秘境中の秘境!だった,とても訪れることなど考えられなかった。

■ 南北朝の歴史を秘める大河原

 ー大西大崩壊ー -鳶ケ巣崩落ー -中央構造線博物館ー

 落合からさらに南下,およそ2.5kmで大河原に達する。
赤石岳からほぼ北西に向かって流れ下る小渋川が中央構造線の谷とおよそ60°の角度でぶつかったところ,深い谷の中にぽっかりと広い空間が造られている。中央構造線と直交する枝谷が多い中で,交差角60度というのは合流点に土砂を堆積させる絶妙な角度なのだろう。山中に貴重な平地をもたらしてくれている。

 大河原には南北朝時代の歴史が秘められている。
後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が,戦い敗れてこの地にたどり着き,地元の有力者香坂氏に支えられ,30余年の長きにわたってこの地に暮らしたと云う。逼塞の身ではあってもかつては都の大物かつ文化人であり,この地に文化の香りをいくらかでも残したことだろう。
 小渋川を2kmほど遡った右岸に上蔵(わぞう)という集落がある。大河原城跡や宗良親王を祀る信濃宮とか室町時代か以前といわれる長野県最古の木造建築物・福徳寺など興味ある歴史が詰まっていると云うが,今回は旅の主目的を優先して先を急ぐことにした。なお上蔵集落は中央構造線の東側の三波川・みかぶ帯の地すべり跡地の平坦地に開けた古い集落である。

 上蔵の向かい,小渋川を挟んだ対岸の青田山に「鳶ケ巣(とびがす)」という中央構造線沿い第一級の崩落地がある。かんらん岩から成り,変質した蛇紋岩は粘土化し地すべりや崩壊を起こしやすくなる。幾重にも石段を築いた砂防堰堤がこの大崩落地の中ではいかにも頼りないようにさえ見える。


鳶ケ巣大崩壊


 一億年に及ぶ中央構造線の活動の影響で山体は芯まで砕かれているかのよう。崩壊斜面の向かい側に民家が一軒建っていたが,崩壊が再発すれば瞬時に吹き飛ばされてしまう運命にある。どんな神経で家を建てたのか?
小渋橋から赤石岳遠望

中央構造線から分岐する小渋断層が一直線の谷を造り,大河原からどっしりとした赤石岳が遠望できる。南アルプスの盟主赤石岳という山名は「赤色チャート」から命名された。



 順序が逆になったが,大河原についてまず訪れたのが,小渋川の対岸(左岸)大西山の大崩壊である。
平成3年6月,崩壊地の麓,大河原を見渡す台地に大西観音菩薩と名付けられた大きな観音像が建立された。この災害は大西山(標高1741m)が突然崩壊し一瞬にして42名もの命を奪い,中央構造線沿いでも他に例を見ない大災害だと云う。

大災害の鎮魂のモニュメントとしての観音菩薩が建つ大西山崩壊地 崩壊前 崩壊後
 昭和36年(1961)6月中旬からの豪雨により28日には総雨量424mmに達し,29日午前9時10分頃大西山山腹斜面が大音響とともに高さ450m,幅280mに渡って崩壊し,約280万立方米メートルの土砂が下市場・文満の集落を一気に襲い39戸の住宅を破壊,水田30余町歩を埋設させ42人の尊い命を瞬時に奪い去った。伊奈地方を襲ったこの災害は世に36災害と呼ばれる。


 大西山の崩落地を望む地に平成6年大鹿村営の「中央構造線博物館」が建てられた。
入館料は,隣接する大鹿村の歴史と民俗文化を紹介する「ろくべん館」と共通で一人500円。

 学芸員の方が,館内の展示の概要を丁寧に案内してくれる。北川露頭の剥ぎ取り標本・岩石の大型標本・中央構造線を中心とした地形地質模型・中央構造線や南アルプスの岩石説明,地震や活断層,二階には砂防や災害に関する展示,屋外には巨大岩石標本を地質配列通りに並べた岩石園など工夫を凝らした素晴らしい展示がされている。大鹿村(大河原と鹿塩が合併してこの名となった)を訪れた際には必見の場所である。


■ 地蔵峠を越えて大自然に抱かれた遠山郷へ

 小渋川と分かれて,断層線谷青木川に沿ってR152を南下する。道は一車線,対向車には1台しか合わなかった。大河原から20分ほど,峠への急登区間に入る手前の安康沢に架かる橋際に,「安康(あんこう)露頭」の案内板がある。案内に従って左手の小道を下り,安康沢を飛び石伝いに渡って青木川の岸に到ると対岸に見事な中央構造線の露頭が見える。大雨で河床が上がり半分ほど埋まってしまったと云う。人っ子ひとりいない静かな河原で熊が出てこないかと心配になり,意識的に妻と大声で話をしたりするほど森閑とした渓谷である。

中央構造線安康露頭
 左手の二本の黒色帯が断層角礫・粘土,褐色部分が内帯の領家変成帯,右側の緑黒色部分が外帯の三波川変成帯。破砕と変質が激しいため両者の境界ははっきりしない。
東から西に突きあげる低角の衝上断層群が顕著である。 
 もっと詳しい説明はこちら

 標高差200mのヘヤーピンカーブを一気に登って地蔵峠(標高1314m)へ。
ここより北の方向の見晴らしは良く晴れた日には分杭峠まで一直線に見渡すことができると云うが,今日は残念ながら曇りがちで霞んでいる。峠の右手から伊那山地の最高峰鬼面山(標高1889m)への登山道が続いている,入口に「お地蔵さん」と「地ぞう峠までの道を届けて 虫の声」なる句碑もある。
 江戸時代初期,遠山谷を治めていた遠山土佐守は,参勤交代で江戸へ行く時には,この峠の前後がひどい山道のため峠の入口で武士の装束を山伏姿に変えて高遠へ向かったというエピソードがある。

 R152は,ここでいったん途絶・不通区間となる。代わりに蛇洞沢林道が左手の尾高山(標高2214.2m)の西側裾野を捲きながら下り上村程野で国道に通じている。この道は林道とはいいながら幅員も十分,舗装もちゃんとされていて先ほど走った国道区間より立派な位である(しかし冬季間は通行止めとなる)。地蔵峠より5km程で「しらびそ高原」への道が分岐している。道の両側には立派に手入れがされた杉林が続く。
 
地蔵峠のお地蔵さん
手入れの行き届いた杉林
 
 峠から13.3kmおよそ30分ちょっとで,飯田市上村(かみむら)程野へ,ここからがいわゆる遠山郷である。

 R152は,ここ程野から北,地蔵峠方面へはおよそ2kmで行き止まりとなるが,伊那山地の下を貫ぬく「三遠南信自動車道矢筈トンネル(4176m)」で飯田市と通じている。
このトンネルの開通(1994)によって,交通手段に恵まれない過疎地域であった遠山郷の上村・南信濃村(現在は飯田市)は,飯田市方面へと直接繋がり生活圏が劇的に広がる変化をもたらし,路線バスの運行により下宿を余儀なくされていた高校生や病気がちの高齢者が飯田市方面へ通えるようになった。また上村の”しらびそ高原”や南信濃村の遠山温泉郷・下栗の里などが観光地として人々がアクセスし易くなったと云われる。

 R152は,集落の中心部を除き相変わらずただひたすらに谷筋をたどる細々とした道が続き,中型トラックでさえ行き違うのに神経を使うほどである。「まだまだ生活道路として整備しなければならない道がいっぱいあるのに,道路はもういらない!ガソリン税は廃止だとか,あるいは一般財源化するなんて!自民も民主もどっちの政治家も何も分かっていない!」とブスブス文句を言いながら車を走らすわたしであった。

 遠山郷は

 長野県の最南端,南信濃・上村地方の山深い谷にあり,日本三大秘境のひとつと言われている。
国の重要無形民俗文化財に指定されている遠山霜月祭,神様の湯治場の伝説がある秘境の谷に湧いた天然温泉「かぐらの湯」,日本の原風景が残る場所下栗の里,南アルプスの雄大なパノラマを望むしらびそ高原・・・・・・・
南アルプスの山と渓谷の自然の恵みにしっかりと囲まれた心安らぎ,人情味溢れる地である。

 とはいえ,焼畑を作ってやっとわずかの食料を生み出すことが出来る山峡の暮らしは極めて厳しいものであったと云う。
殿様の遠山土佐守が,岡崎で家康にもてなしを受けた時,手で椀を覆い隠して食べ,家康が疑問に思って尋ねたところ,領国が貧しくて雑食が常なので貴人の前では恥ずかしくて,これを隠す習慣がつい出てしまったと述べたとか。家康は同情して千石を加増したという話が伝わっている。この話からも領民の生活の大変さが想像できる。

 遠山郷北部の中心地旧上村地区は,かつての秋葉街道が飯田から伊那山地を小川路峠を越えて急傾斜の難路を下りきったところにある宿場として発達した。旧上村役場や商店が並ぶ細い路地には価値手の秋葉詣でで栄えた宿の面影が残る。

 断線線谷上村川に沿って南下,およそ11km,木沢集落手前で南アルプス聖岳・茶臼岳から流れ下った遠山川に合流する。さらに15分ほど走ると遠山郷のもう一方の中心地旧南信濃村和田に入る。ここは,秋葉街道の宿「和田宿」として栄えたところ,ここもまた往時の宿場を思わせる風情の残る町並みが連なる。
 集落の中心地から左手の高台に上がった所に「旧和田城 遠山郷土館」を訪れたが,隣接する「龍淵寺(遠山氏一族の菩提寺)」で,葬儀があるとかで,車が道路まで溢れていて,駐車するスペースも無く引き返す。
旧南信濃村和田 遠山郷土館,和田城
 戦国時代は遠山氏の城下町として江戸時代は秋葉街道の宿場町として栄えた。また王子製紙が森林伐採をした明治から大正にかけては,料亭などが立ち並ぶ一大繁華街でもあったという。  平成4年,遠山氏の居城の跡に遠山郷土館が建てられ霜月祭りを中心とした遠山谷の民俗が紹介されている。
 
 もう午後1時半を回っている,バス停の隣のお店でどこか食事できる場所はないかと尋ねると,「この先にお蕎麦屋さんがある」と云う。ここで小さな勘違い,先ほど上村程野から来た時,国道筋でドライブイン風のお蕎麦屋さんを目にしていたので,てっきりそこだろうと思って車を走らせるが,かなり走っても行きつかない,「この先・・・・・」ってこんなに遠くのことを指しているんではないだろう」という妻の言葉で車をUターン。和田の中心地まで戻って探したらあったあった,道から引っ込んだ店なので見逃がしてしまったんだ。

 「蕎麦処丸西屋」というとても美味しい蕎麦を食べさせてくれる店である。
わたしは”もり2枚(もりそば・玄挽きそば),妻は”もり”と”季節の山菜と野菜の天婦羅”と”下栗の二度芋田楽”。蕎麦は下栗産だと云う。
 おかみさんが気さくな人で,遠山郷の昔話などいろいろと教えてくれる。遠山郷付近へ行くことがあったら絶対また寄りたい店である。
 店で映像を流していた「遠山郷物語」というビデオを買求める。なかなか良く造られている映像がいっぱいのビデオである。

 さて,今晩の宿のある”しらびそ高原”は,地蔵峠から下った林道の支線の先となる。秋の陽はつるべ落とし!初めての道なので日暮れ前に着きたいと今日の行動はここまでとする。

 丸西屋の女将さんが,是非寄って行って下さいと云った”木沢小学校旧木造校舎”に寄って,下栗の里経由の林道で今夜の宿「ハイランドしらびそ」に向かう。

 R152を再び地蔵峠方向へ
およそ15分ほどで,木沢集落へ。国道から集落を抜ける旧道に入ると左手に昔懐かしい村の小さな小学校が現れる。
 
木沢小学校廃校校舎
最後の一年生は三人だった
 旧校舎は昭和7年建立。平成17年(2000)3月31日閉鎖され127年の歴史を閉じた。
江戸時代から森林伐採の拠点となり,木沢村として独立していた時代もあり,盛時には何千人もの森林関係者が住み,300人規模の大規模小学校でもあった。
 
 上町の”学校前”交差点を右折,”下栗の里”までおよそ9km(30分),しらびそ高原までおよそ11km(35分),
 和田から下栗までの道は,幅の狭い山道で運転に注意が必要である。そのためかカーナビは,こちらのルートを提示せず,地蔵峠からの蛇洞沢林道経由の道をサポートしている。それに従わずに走っているのでカーナビは全く沈黙してしまった。下栗の里から先は南アルプスエコーラインと称する林道で比較的しっかりした道であるが,カーナビ案内無しかつ初めての山道なので多少不安を感じながらの運転であったが,途中で案内板を見つけてホッとしながら無事,16:55”ハイランドしらびそ”着 。 なんとか日没前に到着出来た。
ここは,標高1918m,南アと中ア連峰を望む眺望絶佳の地に建つ飯田市営のレストラン&宿泊施設である。今夕は,曇り空ながら明日は天気が良さそう,明朝の南アに昇る朝日が楽しみだ。

 三日目
■ しらびそ高原~下栗の里~青崩峠

 朝,目が覚めたら窓外が明るくなっている。
窓を開けると,南アルプスの山々の黒いシルエットに赤く焼けた空が浮き上がっている。刻々と色彩が変化していくので外に出て,写真を撮るという余裕がない。寒いのを我慢して寝巻のまま窓を開け放ち手持ちでシャッターを押す。
 日の出は6:20頃,やおら服を着替えて,ホテルの前面にある高台へ向かう。あちこち写真を撮るのに良い場所を物色するがあまりGoodなポイントは無い。まあまあそこそこのところで折り合うこととした。同好の氏数名,朝陽を撮り終ったらそこらの紅葉も数枚パチリ。次に西側の中央アルプスにカメラを向けるがこちらは,靄がかかっていて没。
朝焼けの南アの山々
下栗の里

聖岳・兎岳・大沢岳など南アルプスの山々
飯田市観光パンフレット「感動の旅」より

 08:00 しらびそ高原発 下栗~上村~和田~青崩峠を目指す。

 下栗へ向かう林道の途中に「御池山隕石クレーター跡」がある。2~3万年前に直径約45mの小惑星が衝突して出来た直径約900mの隕石クレーターで,日本で初めて確認されたものだと云う。
道路から見てもそれらしき地形を見出すことは出来なかった。

 下栗の里

 ”日本のチロル”と呼ばれ最近人気が出はじめ観光スポットとなりつつある。
遠山川をはるか下に見下ろす南斜面に「下中根」・「上中根」・「帯山」・「軒松」「半場」・「屋敷」・「小野」・「大野」と6kmほどの区間に集落が点在する。眼前に南アルプスの大パノラマが広がり,何代も前の祖先達から営々と築き上げてきた石垣,急傾斜の狭い土地を耕作した畑が尾根筋まで続き,まさに「耕して天に到る」光景が広がる。
 朝8時半前であるが,既に段々畑で,農作業を始めている姿がちらほら見える。厳しい山峡の生活はいかばかりのものかと思う。

 狭い山道を下りきってR152に出る。昨日何度も往復した南信濃和田への道を進む。
今日の目的地「青崩峠」で,R152は再び途絶している。南信濃和田で中央構造線の作る谷は,遠山川から分かれ八重河内川・小嵐川を作り青崩峠へと登りつめて行く。
青崩峠は激しい断層運動でもまれて脆弱化した岩石よりなり,ここに道路を作ることが出来ず現在も人一人が通れる昔のままの道が残されている。

 和田の南外れのガソリンスタンドに寄って,青崩峠へのR152の道路状況を尋ねる。国道は荒れてはいるが,峠の直下かなりの地点まで車が入れること,奥には車を転回出来るスペースもあることを確認。
 いままで,青崩峠を静岡側から攻めるか,長野県側攻めるか迷っていた私の心はきまった。このまま青崩峠めざして断層線谷を南下しようと。

 青崩峠

 R152は,道路の格としてはお株を奪われた感じの天竜川方面へ向かう国道418号線から分かれて,八重河内川沿いを南下する。

 およそ2km,八重河内集落の先右手奥に「梁の木番所跡」がある。
遠山谷の領主遠山土佐守が家康の命により,大阪方の落人を取り締まるために青崩峠の麓と天竜川の満島に設けた番所の建物を移築したと云う。

 さらに2km,青崩峠で途絶しているR152の代わりを務めて静岡県に通じている兵越(ひょうごえ)峠への分岐を過ぎ,いよいよ狭隘な一車線の山道となる。砂防工事でたまに車が入っているらしく,荒れてはいるが,対向車があるわけでもなく,一カ所だけ山側に 轍の跡が大きくえぐれていて車線が狭く谷川の路肩に神経を使う個所があったが, まあまあ走るのに支障はない。

 兵越峠へ分岐からおよそ4kmほどでR152は,ガレ場道となり,これ以上車を進めるのは危険な様相を呈する。少し手前に車を転回出来る場所が造られていた,車はここまでと云う事なんだろう。また少し先左手斜面を登って行く階段があり,「青崩峠まで20分」との案内板も掲げられている。妻に誘導してもらって車を戻して,山道歩きにかかる。峠までの標高差は150mほどと見た。

 熊除けに大きな声で話したり,歌ったり口笛を吹いたりしながら歩む,断層線谷小嵐川の対岸は,大きく崩れた青い色をした岩肌がむき出しになっている。道路を造り直すたびにノリ面が崩壊し,ついに断念して不通区間のまま放置されてしまったのだろう。
 山道は,ハイキング道として整備されており,迷うことなく峠に達する。ゆっくり休憩しながら登ったので35分ほどかかった。
峠には,石仏が3体と句碑2基あり。
  
 信州の旅日記より
    塩の道登り来たりて 望み見る 信濃の国の 青き山並
    垂直に深き伊那谷 点のごと 木の間に赤き屋根の光れる
 
 水窪町教育委員会の解説版に
「青崩峠は,遠州と信州の国境にあって古くからある信州街道(秋葉街道ともいう)の峠である。この道は昔から海の幸や山の幸が馬や人の背によってこの峠を越して運ばれたことから「塩の道」とも云われている道である。
 また戦国時代,武田信玄の軍勢が南攻のためこの峠を越えたと伝えられ,近世には多くの人々が信州,遠州,三河の神社,仏閣に参詣するためにこの峠を越した。近代においては,可憐な少女たちが製糸女工として他卿で働くために越した峠でもあり,多くのロマンと歴史を刻む峠である」
 とある。

 右手の尾根道を少し登ると,信州側の眺望が開ける,遥か彼方に地蔵峠を確認することができた。
しばらく峠の上で休憩していると,わたしたちを追うように同年輩の夫婦連れが登って来た。二言三言言葉を交わしてわたしたちは,もと来た道を下る。
青崩峠より信州側を望む

中央構造線に沿う直線谷の奥に地蔵峠が見通せる
青崩峠にて

 さて,時間的余裕があるので静岡側からも青崩峠を目指すことにした。

いまや実質的にR152となっている兵越峠(海抜1168m,名前は武田軍の兵が遠州攻略の際越えて行ったことに由来すると云う)を越えて静岡県水窪町へ通じる林道。峠までおよそ10km,20分,更に6,7km下ると立派な草木トンネルが出来ていて,これをを抜けるとR152に繋がる。

  *,兵越林道に向かう前に,じつは,いったん和田に戻った。「旧和田城遠山郷土館」の脇に茶屋があり,大変評判の饅頭を売っていて,すぐに売り切れになるという。妻が是非とも食してみたいとのたっての希望で,売切れにならないうちにと,そちらを優先した。ところがまだ11時前だと云うのにすでに売切れで店は閉まっていた。残念!残念!というより私にとっては大きな時間的ロスをしてしまったの感の方が強い。  

 さて,峠に向かう静岡側のR152は,長野県側より整備が行き届いている感じがする。足神神社(旅人の足を守る神社だそうだ,いかにも長い時代にわたって旅人が行きかった峠にふさわしい)を通過して10分ほどで行き止まりとなる。
右手に兵越峠へのハイキング道,左手に青崩峠への山道。案内板に青崩峠まで5分とある。「えっそんなに近いの~」と思わず声をあげる。実際,5分もかからずに楽々と先ほど後にした峠に再び再会。

 

 青崩峠の不通区間ももう一息頑張れば,解消可能だと思われる,トンネルを貫くことだって現在の技術では十分可能であると思うんだが・・・・ でも三遠南信自動車道(三河・遠州・南信濃を結ぶ)の一環としての立派な草木トンネルも出来上がっていることだし,青崩ルートは永遠に不通区間となり,縄文の昔から主要な交易路として多くの人々の踏みしめたこの峠はハイカーだけのものになりそうである。
それはそれで好いのかなと思いつつ峠を後にした。(13:15)
 


 今回の旅はここまで。
帰りは,もと来た道を戻り,上村程野で3日間付き合った国道152号と分かれて,「三遠南信自動車道 矢筈トンネル」を抜けて伊那谷へ。
 「松川IC」で中央自動車道に。
「諏訪・茅野IC」で一般道へ,15分ほどで茅野到着(16:40),車を返して,駅前の寿司屋で鮨をつまみながら無事到着を祝って乾杯!
 17:50発の特急あずさで,居眠りしているうちに新宿着。

 天気に恵まれ,紅葉を楽しみ,近寄りがたい南アルプス南部の山々を間近に見,新しい知識も見聞した有意義かつ満足な旅でした。


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