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 中央構造線に沿った道 秋葉街道を辿る
2009.10.13~15

 日本地図の長野県を眺めると南アルプスと伊那山地の間に南北に連なる顕著なリニアメント(線状地形)が存在することに気がつく。ここには,北から順に”藤沢川・三峰川・粟沢川・鹿塩川・小渋川・青木川・上村川・遠山川・八重河内川・小嵐川・翁川が連なり,大きな断層の存在が予想できる。日本第一級の地質構造線”中央構造線”である。
 この谷筋に沿って道が開かれ,塩の道,信仰の道として昔から多くの人々が往来した。長野県諏訪地方から静岡県水窪まで中央構造線沿いに南下し,そこから浜松市秋葉区へ至りさらに御前崎付近の相良まで達する古道”秋葉街道”である。

 今年5月に,佐久間ダムを訪れた際に,足を延ばして,静岡県側から中央構造線によって造られた直線谷や鞍部地形を眺めた時以来,その先の長野県に延びる部分を見てみたいと思っていたのだが,今回,車を駆って一巡することとした。
 コースは,茅野から南下し,杖突峠→高遠→美和湖→分杭峠→鹿塩温泉→地蔵峠→遠山郷→青崩峠→(迂回路兵越(ひょうごえ)峠を経由して静岡県水窪町へ。 途中,鹿塩温泉・しらびそ高原にそれぞれ一泊。

 中央構造線は,九州八代から四国(松山の南の砥部,吉野川)~紀伊半島(紀ノ川,伊勢)~三河湾を横切り,奥三河~諏訪南を通り群馬県下仁田や埼玉県寄居付近でもその存在が確認され,1000km以上も連続して追跡できる大断層である。大鹿村中央構造線博物館ホームページに詳しく解説されている。

 中央構造線のつくる断層線谷の東に赤石山地(南アルプス)の大山塊,西に伊那山地の山並みが連なる。赤石山地からの急流は,伊奈山地を横切って天竜川に流れ込むことになる。
 甲斐駒が岳(2965.6m)・仙丈岳(3032.6m)・荒川岳(2697.6m)・塩見岳(3046.9m)からの流れを集める三峰川は高遠町で,赤石岳(3120.1m)から流下する小渋川は大鹿村で,聖岳(3013m)・上河内岳(2803m))・茶臼岳(2604m))から水を集める遠山川は南信濃村(現飯田市)で,それぞれ今も隆起を続ける伊那山地を深くえぐって天竜川に注ぎ込んでいる。
 (左写真は拡大可)


 私たち夫婦は,お互いの誕生日に,夕食を奢ることにしているが,今回の旅は,鹿塩温泉での温泉付き誕生日祝いも兼ねる。

■ 茅野から高遠へ

 新宿07:00発の特急”あずさ”で茅野へ。
今日は天気がよさそう,車窓より甲斐駒,八ヶ岳がすっきり見える。

 駅前でレンタカーを借りる。
カーナビの指示にしたがって市街地を抜けすぐに国道152号線(以下R152)を南下する。R152は長野県上田市~静岡県浜松市を結ぶ全長134.9kmの国道である。北から順に大門・杖突・中沢・分杭・地蔵・青崩と6つの峠を越えて行く山岳道路である。今回はこのうち杖突峠~青崩峠間の中央構造線に沿った谷筋を行くことになる。

 先ずは,杖突峠を越えて高遠城址公園を目指す。30年ほど前,夏の家族旅行で走ったことがある。
高遠城址公園は,昨日まで連休であったため,今日はほとんどのお店がしまっていてひっそりとしていた。駐車場も管理人がおらず,無料。公園を抜けて,「高遠町歴史博物館」・「絵島囲み屋敷」を見学せんとしたが,ここも振替休館。
 
 桜の名所として知られる高遠城は,天正10年(1582),勇猛果敢で知られた武田武士の最後と云うべき激しい戦いが繰り広げられた。
 江戸七代将軍の時,大奥総取締役で大年寄・絵島が,役者生島新五郎との仲を咎められ遠流の罪を受け幽閉された場所が囲み屋敷。当時の図面を参考に復元されている。ここ花畑の地は,南アルプスと中央アルプスの雪嶺を望む景勝の地である。
 
 

■ 美和湖~分杭峠

 高遠から2kmちょっと南下した所に長谷村非持(ひじ)という集落がある。その小さな村落の地名がついた「非持石英閃緑岩」と呼ばれる岩体が中央構造線に沿って30キロほど帯状に分布している。このうち中央構造線に接した幅2~300mの部分は,とくに揉まれていて圧砕岩(「鹿塩ミロナイト」)と呼ばれる)。

 非持から溝口にかけてのR152の右手に,三峰(みぶ)川を堰きとめた人造湖「美和湖」がある。美和ダムの上から南を望むとはるか彼方に「分杭峠」ケルンコルが見える。

 中央構造線の谷に造られた人造湖美和湖から南を望む。遠景の凹部がケルンコル分杭峠 鹿塩ミロナイト
 花崗岩のもとになるマグマが固まる途中で引きずられたり押しつぶされたりして,結晶が丸く変形したり一定方向に並べられたりしている。


 ダムから3kmほど先右手に「中央構造線公園」という案内板を見つけ,慌ててバックしてダム湖のほとりに向かう横道に入る。「溝口露頭」と呼ばれる中央構造線がむき出しになった崖が湖岸にあり,遊歩道が付けられて中央構造線の有様を観察出来る筈なのだが,生憎湖水の水位が高く,露頭が半分近く水没しており,かつ近づけない。”長野県の地学”にその様子が掲載されている。”

 美和湖の上流堪水端で,黒川三峰川が合流する。
ここでちょっと寄り道。
 黒川に沿って上流へ向かう。およそ1kmほど先に「南アルプス林道戸台口バス停」がある。すこし先の戸台から奥は一般車乗り入れ禁止である。戸台から先は,甲斐駒・仙丈岳への登山口である北沢峠を越えて,日本第二の高峰北岳登山口の広河原を経て山梨県南アルプス市芦安や早川町奈良田に通じている。
 日帰り&休憩温泉宿「仙流荘」で遅い昼食。

蛇紋岩で出来た特異な形をした岩山
黒川をさかのぼった「仙流荘」付近から見える
三峰川と黒川の合流点
大きく開けた河原が広がる,


 三峰川橋を渡って三峰川左岸をおよそ2キロ。中央構造線から離れ,大きく蛇行しながら南アルプスの懐深く仙丈ケ岳の真下まで迫る三峰川と市野瀬で分かれ,中央構造線が造った右支流粟沢川のV字谷に沿った国道を進む,すぐに一車線の山道となりカーブの多い峠道となる。
 やがて分杭峠(1424m)
峠の手前に駐車場があって10数台が停車している。ここから北方の眺めは絶景である。皆さん景色を愉しみがてら休憩をとっているのだろうか。ここはTVで紹介された「ゼロ磁場ポイント」とか「『気』の集中する場所」とか言われている場所である。断層の両側から押されて磁場が生じるが,局部的に力が相殺されて「ゼロ磁場」が生じ,ここに大量の「気」がはっせいし心身を活性化するという,その「気」を体感すべく大勢の人々が訪れるらしい。わたしは何も感じなかった。国道の標識の”分杭”が”分”になっているのが気になったくらいである。
 峠には,江戸時代には,高遠領であったことを示す石柱が建てられている。 

是より北 高遠領 分杭峠から高遠方面を望む
遥か彼方に杖突峠が霞んで見える
 
■ 北川露頭~鹿塩温泉へ

 分杭峠から鹿塩に通じる谷 鹿塩川は,ほぼ中央構造線に一致してまっすぐに南下する。
深い谷の道は行きかう車もほとんどなく,まさに秘境に下って行く感じがする。ところが,はるか縄文の昔から江戸時代までこの道を頻繁に物資が往来し,武田の軍勢が戦場へ行き交い,平和な時代には信仰の道として秋葉山や善光寺,伊勢神宮詣での人々で賑わった道であった。

 3Kmほど下った右手に「中央構造線北川露頭」の案内板がある。
駐車場も整備されていて,3分ほど歩道を下ると鹿塩川左岸に,説明パネルが掲げられた「北川露頭」を見ることができる。伊那地方に大災害をもたらした昭和36年の大雨で大きく露出したものだと云う。
 すぐ近くに村の天然記念物の「矢立木」と呼ばれる大きなサワラがある。
川岸に降りて観る。

中央の黒い帯(人物の頭あたり)が断層粘土。

右の灰色部分が外帯の三波川変成帯の岩石,左の茶色っぽい側が内帯の領家変成帯の岩石。

 もっと専門的な説明は,こちら
 以前は,歩道の上から覗き見る姿勢で観察できたらしい(左写真)が,風化したり,土砂に覆われたりしていて今はこのような状態で観ることは出来ない。

 車に戻る途中,妻は,栗の実をいっぱい拾ってきた(このページタイトル左の写真)。

 鹿塩川に沿って12,3km下って,塩河集落で左折して塩川沿いに1km近く遡った所が今夜の宿 鹿塩温泉「山塩館」。(16:40)到着。
 この辺りには,”大塩”,”小塩”,塩原”,塩河”といった地名が目に付く。
たぶんこの辺りの地下には岩塩層があり,塩分いっぱいの地下水が湧き出しているのだろう。

 山中に湧き出る不思議な塩泉
 
 鹿塩という地名は鹿が塩を舐めに集まったことが由来であろうか?
海から隔てられた山の中で塩水が湧き出る。この塩をいったい何処から来たのだろうか?
 思いつくのは,地下に岩塩層があるのではないか・・・・・ということになるが,日本列島の地質環境では岩塩層は堆積しないと云う。岩塩層は,死海とか,アメリカのソルトレイクのように水が流れ込んでは,どんどん蒸発する場所でないと出来ない。となると~ 当地の岩塩層は,はるか大昔(と云っても数千万年,数億年前),大陸の上で造られたものがプレートに乗って日本列島に付加し,更に中央構造線の活動で現在の鹿塩の地下にもみ込まれたものと考えるのが妥当と思われる。

 さて,こんな地球の秘密が隠された世にも珍しい「塩の湯」にさっそく入ることとした。
海水と同じくらいの塩分濃度と聞いていたが,浴槽の湯は,それよりやや辛い,源泉を口にして見たが,ゲエッこれは極めて塩辛い!慌てて吐き出す。
塩の湯は身体を芯から温め疲れを優しくほぐしてくれると云う。塩川のせせらぎを聞き,もうひといきと云った感じの紅葉を眺めながらゆっくりと山の湯に浸かった。

 山塩館が正式な旅館を始めたには明治になってからだそうだ。当初は一軒だけの営業で塩湯と呼ばれ,そのうち泉質が身体に良いと云う事で今では3軒が営業している。平安時代の頃から塩が造られ,ミネラル分たっぷりの塩は今でも旅館の料理用に造られている。
今夜の泊まりは10人だけ。


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