雪中二花取
(せっちゅうにかどり) (9)


 
 出陣準備もあらかた整い、篝火
(かがりび)が焚かれて陣幕の張られた葛木家正門前玄関には、忍軍一ヶ谷衆の主力たる一番隊二番隊を始めとした錚々(そうそう)たる顔触れが集まっていた。

 およそ忍が持つものらしくない、丸太もかくやと言わんばかりの黒漆塗の大槍を携えて、正門に武蔵坊の如く立っていたのは、現頭目・葛木九郎の末弟である小六
(ころく)である。
 菊達を担ぎ上げた小太郎が正門近くに駆け込んで来たのを見るや、餌を見つけた羆
(ひぐま)のように吠え猛る。
「兄者ァ! 葛木の嫡男共が帰って来たぞォ!」
「叔父上うるさい」
「うるせえよバカヤロウ我慢しろ!」
 巨熊もかくやの威嚇にも止まらず一目散に門を駆け抜ける小太郎に担がれたままの菊が、心底うんざりと言った風情で呟いたのに対し、これ以上ない満面の笑みと辺りが震え上がるほどの大声で小六が返す。
 その大声が届いたのだろう。玄関前のひらけた庭に戦装束で集まっていた一番隊や二番隊の、かなり厳つい人垣が歓声と共にざざと割れ、その最奥、紺染めの長羽織り姿で太刀を手に、床几
(しょうぎ)に腰かけた九郎の静かな姿が現れた。


 その場まで一直線、両腕に大事な二花を抱え、脇目も振らずに小太郎は駆けて行く。
 皆が見守る中、九郎の眼前でゆっくりと膝をつき、まず菊をその場に静かに降ろした。
「ご苦労」
 小太郎に対する菊の労いは短いが、その口端に微かに上る笑みは優しく甘い。降ろされてそのまま数歩進み、父親たる九郎の隣へ侍るように菊は立つ。
 次いで藤千代を降ろす。藤千代は小太郎が降ろす前に自分からぽんと飛んで庭に降り立ち、同じ高さになった小太郎の目線と顔を合わせ、小さな歯を見せて大きく笑った。
「おうちついたねえ!」
 先に降ろされた姉同様、藤千代も父の隣へと立つ。

 
 そして身軽になった小太郎は、当主に向けて深くゆっくり頭を下げる。
 荒く上がった息を二度三度と整え――……、そして静かに口を開いた。
「御頭様に申し上げます」
「許す」
 太刀を手に、床几に腰かけたままの九郎が簡潔に述べる。
 九郎のその声音は一切の感情を感じさせないものだったが、小太郎は更に深々と頭を下げ、大きく息を吸って言葉を続けた。

「菊様、並びに藤千代様、御二方とも只今お戻りです!」

 その声は明るく伸びやかに、重い曇天をも跳ねのけて、周囲に響く。
 

「よし終了! 皆ご苦労だった、そろそろ雪も降るから飯と酒持ってすぐ帰れ!」
 ズパァンと大きく九郎が両手の平を打ち鳴らして立ち上がり、良く通る声で宣言した。
 直後、居合わせた男たちの大歓声が葛木家の庭に響き渡り、それと同時に玄関の奥から待ちかねた菜津がよろけながらも駆け出でて来た。
「菊! 藤千代!」
 半泣きの態で我が子達に駆け寄って、両腕を広げて二人一度に抱き締める。そのすぐ後ろから、菜津の脱げた履物を拾いつつこやも姿を現した。
「菊さま藤さま大丈夫でしたか何も無かったですか、シメたい奴やブッ殺したい奴がいたらホントすぐこやに言ってくださいね、どんな手を使ってでもこの世で一番酷い方法で嬲り殺しますからね」
 相変わらず言っている事はとんでもないが、菊達の無事と菜津の安堵を喜ぶこやは本気で泣き崩れている。
「……ちょっと待ってくれ、私達はそんなに心配されてたのか? 一体どんな話になってたんだ?!」
「母上なかないでぇ」
 我が子に取り縋って静かに涙を零す菜津に狼狽える姉弟を眺めつつ、心からの笑みを浮かべて小太郎がよろりと立ち上がった。一番隊や二番隊の面々が各種武器や防具の類を物々しくガシャガシャいわせながらの帰りしなに、そんな小太郎の肩や背を労わって叩き、頭を乱暴に撫で、よくやったと口々に褒めて帰ってゆく。

 正月早々の戦、しかも同じ里中での内輪揉めだ。回避出来て何よりであるし、正月明けて仕事始めの招集とあって、九郎の計らいで酒や飯が褒賞代わりの手土産として供された。
 且つお屋敷の嫡男たちが無事に戻って来た訳なので、小太郎はこれまでの人生で一番と言っても良いくらいの褒められっぷりだ。
「坊主、ようやった! 今日の晩飯は期待しとれよ!」
 出兵の為に集められはしたが御役御免で三々五々帰途に就く皆々へ、青竹に入れられた酒と竹皮で丁寧に包んだ握り飯を手際よく配りながらも、毘沙門が小太郎へ重ねて叫ぶ。
 顔を動かすだけで軋む身体と震える手足を若者らしい見栄と虚勢で隠しつつ、だがしかし小太郎は口をひん曲げた。
「……あのさあ毘沙門じいちゃん、多聞さんがまた物凄く怒ってたんだけど」
「勝手に怒らせておけ! 萩生なんぞに付いた時から、あ奴とは兄でも弟でもない!」
「おんなじ一ヶ谷衆だろ、仲良くしてよ今回とうとう俺に被害が出たよもう」
「知らぬ」
 年寄り同士の私怨で無駄な嫌がらせを被った小太郎としては、ただただ文句しかない。だが更に文句を言い募ろうとした所で、後方から名を呼ばれた。
「小太郎」
 帰宅や酒を喜ぶ声で周囲がひどく騒めく中、大音を上げた訳でもないのに不思議と良く通って聞こえたのは、頭目たる九郎が小太郎を呼ばわった声だ。


「小太郎」
 雪が今にも降り出しそうな空の所為で、あれほど騒めいていた周囲からは人波が急速に減り、九郎の二度目は尚良く通った。
 再度小太郎の名を呼び、早くここへ来いとばかりに手招きしている九郎のその顔は、相も変わらず無表情で何の機敏も読み取れない。だが、九郎の隣で幼い息子をしっかり抱き上げて立つ菜津は、最後に会った時の泣き腫らした悲痛な面持ちが嘘のように穏やかに笑んでいて、夫同様小太郎が来るのを待っている。その隣には菊も立っていて、上機嫌の喜色を浮かべ、母親の耳元へと何事か言っているのが見て取れた。
 小太郎が出て行った時は泣き腫らしたような眼で震えていた菜津が、藤千代をしっかり抱いて菊の言を嬉しそうに頷きながら聞いているのを見、本当に良かったと心から思って小太郎の頬も知らず緩む。

 一家団欒にも似た空気のその場へ素早く近寄り、小太郎は再度、九郎の前で膝をついた。
 九郎の後ろには、いつの間に戻ったのか九郎同様並び立つ高次と玄笹
(くろささ)の両名が、不動の影の如く控えて立っている。
 両名から何事か耳打ちされ、軽く頷き、そして九郎はおもむろに口を開いた。
「お前へ褒美を渡す」
 前を向いたまま指だけで背後の高次に合図をすると、九郎の掌に麻の小さな巾着袋が乗せられた。それをそのまま、九郎は小太郎へぽんと放る。
「わっ……おわぁッ?!」
 飛来したものを思わず受け取ってしまってから、その重みと感触でそれなりの銭が入っていると理解して小太郎が二度慌てる。
 その様子に目元で笑んで、九郎はやけに大きな声を張り上げた。
「此度の働きご苦労であった。お前が菊達を連れて戻らぬ場合は我が葛木家の総力を以て萩生を叩き潰す心積もりであったが、我が子らは無事戻り、血は一滴とて流れず、かの屋敷を焼く事も無かった」

 そこで九郎の声が止む。
 人の少なくなった曇天の下、その声を聴くのは葛木家の面々と小太郎、玄笹、そしてこやや毘沙門くらいのものだ。それらに聞かせるには大きすぎる声を再度張り上げ、九郎が吠えた。

「この温情、有難く思い主に伝えよ! 三度目は無い! 次同様の事あらば容赦せぬと思い知れ!」

 普段感情を滅多に見せない九郎が、激しい怒りと共に吠える。
 あまりの迫力に菜津と藤千代が小さく悲鳴を上げ、菊と小太郎すら肩をすくめた。周囲を揺らして轟き渡ったその声は、先程の高次や小六の咆哮と比べても遜色無い雷鳴の如き一撃で、聞いてこの場で平然と立っているのは高次と玄笹くらいのものである。
 何事が起きたかと小太郎は目を瞬くが、九郎の視線は小太郎ではなく、その更に背後をきつく捉えて動かない。
 
「――……御意、必ずや我が主へお伝えいたします」
 周囲を震わせ揺らした余韻が静かに引いた頃、観念したかのように小太郎背後の木陰から二つの人影がするりと現れた。
 雪まみれの冷たい泥濘
(ぬかるみ)に這いつくばり、両の手を揃えてついて額を擦り付け、震える声を必死に上げるのは、紺染め装束に身を包んだ男が二人――……先程、萩生家の玄関先でも小太郎が見かけた顔だった。
 ならば疾く去れと高次の冷えた声がかかり、その男達は再度額を雪と泥に擦り付けて、そして一目散逃げるように駆け去っていく。

「……あれは大じじ様の命か」
「出陣が本当かどうか、大方言われて確めに来たんだろう。皆には出来るだけ厳つい格好で来いと招集をかけておいたからな、さぞ慌てたに違いない」
 先程までの殺気はどこへやらの態で楽しげな九郎とは裏腹に、慌てふためき逃げてゆく萩生の下忍を見る菊の目は冷ややかだ。
 だが、何事かその顔が年頃の娘らしくハッと輝く。
「そうだ萩生で思い出した、父上に土産がある」
 華やかな打掛の袖内を探り、古びた帳簿らしき紙束を一冊。
 菊は母に良く似た麗しい笑顔で、父にそっと差し出した。
「萩生の裏帳簿の現物だ。父上が前から欲しがってたのを思い出して、折角だからかっぱらってきた」
「何だと」
「何と」
 九郎と高次が揃って目を瞬く。そこへ重ねてもう一冊、菊が今度はもう片方の袖口から小さな帳面を取り出した。
「こっちは一番新しい物の控え。これは現物を盗ると気付かれるから、内容だけだが」
「よしでかした!」
「素晴らしい!」
「大じじ様はこういう所のツメが甘い。未だに弥三郎叔父上が自分の味方だと信じているし、私を屋敷の奥に入れるなら、何事も十重二十重に隠しておかねばならんものをこうも容易く」
 紅を引いた唇を上げて晴れやかに笑む菊は、美姫と謳われた母によく似た顔である。――だが、そのあまり良くない笑い方は、どう見ても確実に父親である九郎似だ。
 天に重く低く広がる鉛色の雪雲は、萩生家の明日に立ち込めた暗雲でもあった。


「あ、あらやだ小太郎あなた汗びっしょりじゃないの! 早く着替えないと」
 滅多に見ない九郎の激情に、暫し呆然としていた菜津がようやく我に返り、ずっと汗まみれのままで寒中に佇んでいた小太郎に気が付いて声を上げた。
 後ろでは菊と九郎達が親子で悪そうな顔をして何やら話し始めていたが、菜津の気遣いで小太郎も我に返り、途端に冷えと寒さを知覚した。
「うあ、思い出したら、急に寒気が、寒っ」
 ただでさえ雪が降りそうな気温の中で大汗をかき、それが足を止めた瞬間からあっという間に冷え切って、頭のてっぺんから足の先まで身体中がすっかり凍えてしまっている。
 小太郎が身に付けていた上着や筒袴は、雨や雪が染みないよう織目の詰まった紺染めの分厚い麻布へ更に防水の柿渋染めの裏地を誂えた造りであるため、外から濡れる分には滅法強い。だがしかし中に着込んだ肌着下着の類は汗を吸ってずっしり重く、それで下帯までもが濡れて冷え切っていて、小太郎の体温をあっという間に奪っていく。
 気が抜けた途端に勢いよく垂れた鼻水をすすり上げ、小太郎は震えて立ち上がる。

「奥で湯殿の準備を整えてあります。汗をしっかり流して、風邪引かないように肩までちゃんと温まってきてちょうだい」
 九郎たち葛木家の親族のみが使用する風呂場――下忍に使わせるなど普段は到底あり得ない場所である――を、自分からの褒美として準備してあると告げ、藤千代を抱いて菜津が笑った。
「里の皆が使う出湯まで行っていたら、帰り道で却って身体が冷えてしまうもの。血で汚れてる訳でも無いし、遠慮せず湯船もしっかり使うのよ」
「良かったな坊主。風呂を使わせて頂いたら、その後は厨
(くりや/台所)まで来い。熱くてうんと美味いものをこしらえといてやる」
 手土産の酒類を配り終えた毘沙門が身軽く寄ってきて、小太郎の背中をばしりと叩いた。いつもはどちらかと言えば無愛想な毘沙門が、こんなにも上機嫌な事は至極珍しい。ハイと元気よく答え、垂れた鼻水を手の甲で拭きながら小太郎も笑う。
「風呂も飯も嬉しいです、いただきます」
 それを見ていた藤千代が、母の腕から降りようともぞもぞ動き出す。――が、
「ハイハイあなたは駄目よ。折角のお湯なのに、小さい子の世話なんてさせたら小太郎が休まらないでしょ」
 笑顔の菜津にすかさず捕らえられて、動きをしっかり封じられてしまった。それでも逃げ出そうとして、藤千代は母の腕の中でもだもだと身をくねらせる。
「でもっ、小太郎と、遊びたい、のっ、やっ」
「あら、今日くらいは私と遊んで欲しいわ。ずっと寂しかったんだから!」
「藤様、明日いっぱい遊ぼう。俺、仕事は早いうちに全部片づけておくから」
 母親の暖かい腕に抱き竦められ、小太郎の大きな手の平で両頬を揉まれ、ようやく藤千代の動きが止まる。にんまり笑ってこくりと頷き、じゃあ明日ね、約束ねと小さな小指を差し出した。
 
 満ちた気持ちで藤千代と小指同士を絡め、菜津にぺこりと頭を下げ、父娘と側役とで顔を突き合わせて巨頭会議を始めてしまった三人に離れた所から失礼します! と礼儀正しく声をかけて。
 小太郎は、冷えた身体で風呂場へ向かう。


 楽しそうな九郎と静かな殺気に満ち溢れた高次が額を突き合わせて何事かを話し合う中、その二人にくるりと背を向けて、菊がこちらを振り向いた。
 去ってゆく小太郎に顔を向け、目を合わせて悪戯っぽく笑んで、口の動きだけで何かを言う。


 ――また後で、と言ったように見えたのは、気の所為では無いはずだ。






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