雪中二花取
(せっちゅうにかどり) (10)


 
 まだ陽は高い筈なのに、しんしんと降り出した雪のせいで風呂場の中は薄暗い。
 だが、柔らかく立ち込める湯気の白色に彩られて、薄暗い筈であるのに何故だか不思議と仄明るくさえ感じる。
 風呂場の外部から引き込まれて湯船に惜し気無く注がれる湯は、山深い地ならではの温泉由来だ。葛木家に引いているものは大雪や大雨の時期は温くなるのが難点だったが、軽く焚くだけで浴用には十分足りる。一ヶ谷の里に湧く薄赤茶に色づいた湯は、刀傷や火傷の類に良いとされ、この山里が拓かれた時から皆に重宝されていた。

 小太郎は、そんな湯に顎までしっかり浸かっている最中だ。
 逆上せてしまいそうなほど熱く整えられた湯船の中、手を伸ばせば届いてしまいそうな湯煙の向こう側にぼんやり浮かんでいる人影へ、気付かれないようこっそりと視線を流す。


 菊の朱唇がまた後でと笑んだ時から、何となくの期待が小太郎にはあった。
 濡れて重い着物を脱衣場で脱ぎ捨て、期待に満ちた身体を大急ぎで洗って、溢れんばかりに湯の湛えられた湯船へとその身を入れて。
 冷え切って軋むような体に湯の熱さがぐいぐい染み渡り、喉の奥から思わず声が出て、最高の褒美をもらったと小太郎が湯船の中で大の字に身体を開いた瞬間――……脱衣場の戸が、静かに開いた気配がして。

 布の擦れる微かな音が外で降りしきる雪の音にまぎれて届き、直後、その人は裸身を晒して颯爽と湯殿へ現れたのだった。


「――……何か用か」
「アッハイ何でもないです」

 高次である。


 脱衣場で衣擦れの音がした時は、まさかそんな大胆なと息を呑んだが、若者の期待はあっという間に霧散した。雪かき後で自分も汗をかいていた高次が、重ねて風呂を沸かしていては勿体無いから私も邪魔をすると言い、至極当たり前のように現れたのだ。
 ……嬉し恥ずかし気分で期待して喜んでしまった自分の純情を返して欲しいと、小太郎は恨めしさを込めて高次の横顔を盗み見る。
「先程から何なのだお前は、チラチラと」
「いえ別に」

 湯煙の向こうに腕組みして湯に浸かった仁王様が鎮座していては全く以って落ち着かないが、厳寒の中で味わう熱い風呂はそれでも格別である。手拭いで顔をこすり、頭のてっぺんへひょいと乗せて、小太郎は仁王像の近くでも遠慮なく手足を伸ばした。
「……腕や脚の肉を、湯の中でよく揉んでおけ」
 風呂場の中では高次の静かな声がよく響く。
「まだ若いからと己を過信するな。使った後にきちんと手入れをせねばならんのは、道具も身体も同じ事だ」
 小太郎と同じように頭に手拭いを乗せ、前を向いたままの高次が低く呟いた。その言にハイと答えた小太郎へ満足気に軽く頷くと、高次は何かを言いかけて再度口を開く。
 幼い頃から師匠と呼んで師事する男が何か言いかけているとすぐ察し、小太郎は高次を注視したが、高次の口元は曖昧に少し開いただけでまたすぐ閉じた。それが二度ほど続く。
 何だろう、玄笹さんが何か言ったんだろうか、風呂の中だと逃げられないな、割と詰んだなと、湯でとろけた頭でぼんやり眺めていると、その視線を感じたのだろう高次が今度はきっちり口を開いた。
「……今日は良くやった。しっかり食べて、よく休むように」
 それだけ言うと瞑想するかのように目を閉じて、それきりふっつり黙り込む。
 窓の外、いよいよ本格的に降り出した大雪が、積もり上がっていく音だけがやけによく響く。

 ――ああそうか。この人はこれを言う為に、わざわざ風呂場までやって来たのか。
 口減らしで捨てられた身である小太郎に父親はもう居ないが、父という存在について思う時、小太郎の脳裏には何故かいつも高次の顔が浮かぶ。……怒られそうなので、口に出した事は無いのだが。

「ありがとうございます!」
 俺の親父様は不器用だと肩を揺らして笑いながら、小太郎は勢いよく顔を洗う。


********************


 湯船で十二分に温まり、折角だからと高次の背中も流したりして、ツヤツヤの小太郎は足取り軽く厨房へ向かう。

 葛木家御一同様の夕餉の膳を整え終え、給仕役の下女達に部屋まで運ぶよう指示していた毘沙門が、風呂上りの小太郎が現れたのを目にしてニヤリと笑んだ。
「おう坊主、お前の分もちょうど出来た所だぞ」
 言って手招きし、折角の風呂上りが冷えないように薪を足した囲炉裏端へと小太郎を座らせる。
 そして悪い膝を庇いつつも機敏な動きで、厨房三和土
(たたき)の竈(かま)から小ぶりの鍋を取ってきて、囲炉裏の内側、ごく端に据えた瓶台(びんだい/鍋置き)へと乗せる。
「覗き込むなよ、火傷するからな」
 まだ小太郎が幼かった頃、食事を与える際にはいつも言っていた言葉を今日も言って、毘沙門は鍋の蓋を優しい手つきでふわりと開けた。

 熱くてうんと美味いもの、と毘沙門が宣言していたその通り、鉄鍋の中で真っ白な湯気を立てて煮えていたのは、熱々の粕汁だった。
 具も盛り沢山で、酒粕と赤味噌で土台を整えたたっぷりの汁の中に、先程小太郎が運ばされてきた大根やゴボウが早速入っており、戻した干し椎茸を食べやすい大きさに切ったものや、大振りに切ってある蓮根、柔らかそうな里芋、指の半分程に切り揃えた甘い青ねぎなど、箸が迷いそうなくらいぎっしりと煮えている。
 しかも、
「これは大奥様がお前にと御手配下さったものゆえ、他の奴らには言うでないぞ」
 と、猪肉までふんだんに入れられていて、それらと味噌と酒粕の良い匂いが鼻腔をくすぐった途端、小太郎の腹は勢いよく鳴り始めた。
「もう食べていい?!」
「ちょいと待て。それで、こっちも儂からの褒美だ」
 食べ盛りの若造を慣れた手で制止して、毘沙門は二人用ほどの大きさの白木の飯櫃
(めしびつ)を更に取り出す。
 目を輝かせる小太郎に蓋を開けて見せたそこには、この山深い里では滅多に拝めない赤鰯――海の魚であるイワシを糠漬けにした保存食――を焼き解して麦飯にたっぷり混ぜ込んだ、香ばしい飯がずっしりと入っている。毘沙門秘蔵の一品を使った献立だ。

「よし食え」
「ありがとうございます! いただきます!」
 親無し身寄り無しの拾われ子だった筈なのに、やけにきちんと躾が行き届いているのは菊の施した教育の賜物である。美味い美味いと連呼しながら正しい箸の使い方で粕汁をガンガン片付け、猛烈な勢いで飯を綺麗にかき込む小太郎の姿を眺め、毘沙門はふむと顎を撫でた。
「儂はお前が拾われた頃から知っておるし、姫若様もお前を憎からず思うておられるだろうが……」
 語尾にため息を乗せつつ、毘沙門が自分も小太郎近くの囲炉裏端へと腰かける。
「……長生きしろよ。里内と言えども夜道は十分に気を払え。命
(めい)を頂いて外へ行く時は、顔見知りであっても背は見せるな」
「萩生の人達の様子見てて、俺もそう思った」
 飯に添えられていた嗅ぎ慣れない匂いの茶を飲み干し、小太郎も若干のため息交じりだ。
「色んな意味で目ェ付けられたなって」
「そうとも」
 毘沙門の目が、じっと小太郎を見ている。戦場に立っていた昔を思い起こさせる鋭い眼光は、深い皺に彩られていようと変わらず強い。
 猛禽のそれに良く似た目でやけに鋭く射貫かれて、小太郎の箸が止まる。

 ――……そう言えば先程飲んだ茶は、初めて飲む味だった。
 毘沙門に悟られないよう、そっと舌で口内を探る。痺れは無い。異変も今の所は無い。汁にも飯にもおかしな所は無かったはずだが、気が付かなかっただけかもしれない。
 粕汁の椀に箸を重ねて置いて、静かに膳に戻すと、少しだけ毘沙門の眉が動いた。
 毘沙門の視線はその間も小太郎を射抜いたまま揺るがないし、小太郎も毘沙門から目を離さない。
「毘沙……」
「口に入れる前に気付け! そういう所じゃと言うておる! 」

 途端、張り詰めた空気がふっと揺らいで、毘沙門が声を上げた。
「良いか、当代の御頭様は慈悲深いお方ゆえ、そんな命を出された事は今も昔も一度も無いが、場合によっては我が子についた悪い虫を取り除けと命じておってもおかしくないのだぞ」
 一息で言い上げ、小太郎の鼻先に指を突き付ける。
「それに薄汚いねずみが身内の顔して入り込む事もあろうし、浅ましい悪知恵であちこち動き回る事もあろう。儂の預かる厨房ではそのような事断じてさせんが、全部が全部に目を届かせる事は難しい。何処であろうと何であろうと、万事気を抜くなと言うておるのじゃ」
 しわがれた声は大きくなかったが、そこに込められた気迫は凄まじかった。
「人は存外簡単に死ぬし、殺そうと思えば簡単に殺れる。――忘れるな」
 返事代わりに喉を鳴らした小太郎に対し、毘沙門が大きく息を吐き出した。
「頼むから長生きせえよ……、お前はどうも抜けておって危なっかしい」
 お前が死んだら姫若様たちがどれだけ悲しむか。
 白髪頭を掻きながら呻いた毘沙門の眼に、先程のような険は無い。

「――……毘沙門じいちゃん」
 毘沙門をしっかり見据え、頷いて、小太郎が箸を取る。
「そろそろ食事続けていい?」
「そういう所だと言っておろうが!」
 拳骨を振り上げて老爺が怒鳴るが、小太郎はただ笑むばかりだ。

「ちなみに言うておくが、この茶は儂が煎じた疲れ取りの薬湯だ。足腰痛み出す前に飲んでおくとよう効くぞ」
 まだまだ沢山煎じておいたからと言い添えて、毘沙門が竈に据えた土瓶を指し示す。熱々の粕汁の椀に口をつけて汁を味わい、啜り上げてから小太郎が口を開いた。
「毘沙門じいちゃんが怖いのは顔だけだもんな。気遣いの鬼」
「やかましいわ」
 飯椀におかわりを山盛り装い、怒鳴る毘沙門の顔は、然しながらどこか笑んでいる。


「御頭様も……九郎様も、お若い頃はよくこの囲炉裏端で飯を食うた」
 毘沙門が、薄暗くなり始めた厨房を見渡しながらぼそりと呟いた。皺に埋もれた目元は微かに柔らかく笑み、その口元が苦笑のような形に緩む。
「やれ小腹が減った喉が渇いた何かくれと、飯時以外でもよう来られてな。弟様方を伴われての事もあったし、お若い頃の側役様を伴われての事も多かったし、……御一人で来られて、何を言うでもなくぼんやりされておる事もあった」
 パチパチと囲炉裏で薪が爆ぜる音がして、その優しい音が毘沙門の昔話を彩っていく。
「あの方は考え事をされる時に此処へ来る。昔は握り飯か炙り餅を好んで食うていかれたが、跡目を継がれてからは酒を一杯か二杯。ゆっくり呑んで、気が付くと居らんようになって」
 空になっていた小太郎の湯飲みに土瓶から薬湯をなみなみ注いでやり、小太郎の反応は待たず、毘沙門は再度口を開いた。
「……最近も、此処へよく来なさる。萩生の事だけじゃなく、色々と思う事のおありなのだろうよ」
 
 それ以上は何も言わず、毘沙門は静かに立ち上がると、おもむろに小太郎の頭をべしりと叩いた。
「お前、金はあるのか」
「じいちゃんどうしたの、いきなり」
「きちんと貯めておるのかと聞いておる」
 やられた拍子にこぼれかけた汁椀を上手に庇い、小太郎が抗議するが、毘沙門の眼は真剣だ。先程とはまた違う色味のそれに真っ向から射抜かれつつも、小太郎は真っすぐな目線をしっかり返す。
「下っ端だし頂いてる分は少ないけど、色々ちゃんと貯めてるよ。子供の頃からの分はお方様がその都度ずっと預かって下さってるし、……そう言えばいつでも渡せるからって、年末くらいにお言葉もあったな」
「そうか」
 ならいいが、と再度重ねて呟き、それきり毘沙門は黙り込む。なんでそんな事訊いた? という小太郎の疑問には無視をして。
 暫し間が空いた後、何故かもう一回小太郎を殴ろうと拳を振り上げ、それは当の本人に易々と避けられた。
「毘沙門じいちゃん! 俺! 飯食ってます!」
「くそたわけか、見たら分かる」
 腕を組み、囲炉裏端に再度腰かけ直して、毘沙門が今までで一番大きな溜息と共に天を仰ぐ。
「……お前、本当に長生きしろよ……」
「えっ何、俺そんな多方向から命狙われてんの……?」
「もういいからさっさと食ってしまえ」
 どうにも締まらない顔付きと声音で椀を持つ若造に、歴戦の老忍は再度大きな溜息を吐くが、肺腑の空気を全部出し切ってしまうとその双眸は優しく緩んだ。
――無論、小太郎にはそれを気付かせないが。


********************


 熱い風呂を使い、熱い飯を食い、心の臓は少々冷えたが、小太郎は芯から温まった身体で自室へと向かう。
 まだ日が暮れる時間ではないはずだが、空は鉛色の雪雲に分厚く塗りこめられて陽の光は一切無い。ただ、庭や通路のあちこちに降り積もった雪の白さが目に映えて、不思議と暗さは感じなかった。
 
 毘沙門は長生きしろと――菊との事を良く思わない者からの何かしらを覚悟せよと言うが、そんなものは今に始まった事では無い。
 菊の隣に居たいと思い始めた幼い頃から今の今まで、頭目の一人娘から寵愛されているように見える事へのやっかみや、嫌がらせと言う名の横槍には事欠かなかったし、それらが尽きる事は一度も無かった。
 一時期は落ち着いていたのが、先だっての大立ち回り、屋根の上での大喧嘩以降は目に見えて増えた。下忍達からは概ね好意的に受け入れられたが、上忍――特に里外に住まう葛木の親族からは一際当たりが厳しくなった。
 仕事で里の外に出た時などは特に多く、好意的なものの一切無い、殺意含みの視線を感じた事も二度や三度では済まなかった。きっと、明日以降は今まで以上に増えるだろう。

 だが、小太郎はそれでいいと思っている。
 菊の隣に立つという事はそういう事で、その身を手に入れたいと願うのならば、尚一層の万難と辛苦が要される。だから周囲の身近な者達は早く諦めろと溜息交じりに言うのだし、身の程を知れと時に怒りさえする。
 だが、それでいいのだ。
 小太郎が真に欲して掴もうと足掻くものは、あらゆる苦労に見合うだけの、それ以上の価値があるのだから。


 屋根があっても雪の降り込む中庭沿いの路を通り、折角温まった身体が雪で冷えていくのを辛く感じながら、小太郎は自室の付近までようやく到達する。
 広い葛木家の一番端、家としての備えが殆ど無い辺り。もともと物置か何かだった小部屋に布団のみを入れて居室として与えられているだけなので、周辺には火の気も人気も無い。
 しかし普段ならしんと冷えて暗いばかりの部屋なのに、今日に限っては部屋を区切る障子の向こうで明かりが灯り、何故だかほの明るかった。

 ああ、と笑んで、小太郎はその障子に手をかける。
 日に灼けて色の変わった障子戸をするりと開けると、そこには見慣れた人影がこちらを向いて、火鉢と共に座していた。
「やっと来たか」
 古ぼけた行燈の灯りと、手元の火鉢の火色に照らされながらそこに居たのは、今度こそ小太郎が予想した通りの人だ。
 火鉢に据えた鉄瓶の湯気に彩られ、その人が笑う。
 柔らかな空気が部屋からふわりと流れ、小太郎の頬を撫でる。
「随分遅かったな、食事は済んだか?」
 気取らない普段着姿の菊が、そこに居た。



 普段着であるとは言え、御屋敷の一人娘である菊が身につける着衣は上等なものばかりだ。上質な布の滑らかな光沢が、ゆるく笑んだ唇と一緒に柔らかな灯りに照らされて薄闇に浮かび上がり、菊がそこに居ると示している。

 菊が部屋にいると認知した後の小太郎の行動は速かった。
 部屋に入るや後ろ手で障子をスパンと閉め、無言で菊まで近付いて、あっという間にその細い顎を上向きに捉え、そのまま有無を言わさず唇を重ねた。

「――――??!!」
 乱暴に、と言うよりは情熱的ではあるが性急な動きで口を吸われて菊は目を剥くが、それ以外の反応をする前に小太郎の身体は即座に離れた。
「ちょっ、な」
「シッ」
 菊の口を、今度は小太郎の掌が覆って塞ぐ。
 空いている方の手の指を立てて沈黙を促し、今閉めたばかりの障子の向こうを探るように耳を澄まし――……降り続く雪以外の気配が無いと知ると、そこでようやく菊から手を離す。
「……おかしいな、こういう時は絶対師匠が乗り込んで来ると思ったんだけど」
「それでか馬鹿!」
 口を塞いでいた手を叩き落として菊が怒鳴るが、全く悪びれた所の無い小太郎の様子にその勢いはすぐ収まった。
「全くお前は情緒も風情もへったくれも」
「うははは、邪魔が入る前に褒美を貰っておこうと思って」
 まだ貰ってなかっただろ、と笑顔で言われてしまっては、菊に反論は無い。
「今日の俺は菊の口吸って乳か尻を揉んでも許されるくらい根性出したと思う」
 火鉢を挟んで菊の向かいに腰を下ろした小太郎が、しみじみと呟いた。
「でもな、そういう色気を出すと邪魔が入るって知ってるから俺……」
「あ……諦めるなよ」
「いいんだ、良い思いした次の日に首が飛んだら意味無いしな……」
 その目はどこか遠い。
 ……葛木家在住の仁王様を思い出しているだろう事は、想像に難くなかったが。


 小太郎の部屋はとにかく狭い。
 その狭い板張りのど真ん中にはいつものように万年床がどんと居座っているので、菊はその布団の足元を座布団代わりに、火鉢やその他一式と共に鎮座して小太郎を待っていた。
 明々と炭火の熾
(おこ)る暖かな火鉢だが、そんな高価な物がこの部屋に元々あった訳ではない。菊の腕ですっかり抱えられるくらいのそこまで大きいものでは無かったが、それでも持ち重りするだろう火鉢をどうやってこんな離れまで持って来たのか――……と、ここまで考えて、菊が自分で軽々運んで来たに決まってんなと小太郎は一人で頷き、火鉢に自分も手をかざす。

「ともかく、褒美をやろうと思ってな」
 隙間風の入り込むような部屋で火鉢を間に挟んで向かい合い、宝物を見せる手付きで菊は包みを開いていく。
「皆から色々貰ってたようだが、甘いものは別腹だろう?」
 広げて見せたのは、黒豆やら干し蓬
(よもぎ)やらを混ぜ込んで風味を付けたかき餅がいくつか。そして、経木の折箱に山と盛られた胡桃味噌の串団子だった。
「ここで炙って食べよう、美味いぞ」
 言って、火鉢に据えておいた餅焼き網に菊手ずから団子を乗せる。乗せた途端に炭火に味噌がじゅっと鳴いて、香ばしい良い香りが部屋に満ちた。
 軽く炙ればすぐ食べられるので、良い具合に焦げ目が付いたものを早速一本、湯飲みに入れた蕎麦茶を添えて、菊は小太郎に差し出してやる。
 子供の頃のように嬉々として食べ始めた小太郎を満足気に見やり、菊自身も一本めに口をつけた。熱々の味噌を舐めて団子を噛み下し、美味いと舌鼓を打ちかけて――しかし菊は気が付いた。
 向かい合わせに座った小太郎の足先が、菊の尻を撫でている事に。

「お前、足」
「ん?」
 狭い所へ向かい合わせで二人して座っているせいで、小太郎のむき出しの足は菊のすぐ横へ投げ出されている。その足が、暖を求めるように菊の尻、そして腿に触れていた。
「足! ……お前、さっきから私の」
「あー、あったかいと思ったら菊の尻か、ごめん触ってた」
 言いながらも、団子を食べる小太郎の手は止まらない。雪が降る中を部屋まで歩いてきたせいですっかり冷えた足先を、指摘されてもお構いなしに菊の尻や腿とへくっつけてくる。
 熱を得るように足の甲を添わせ、時折足裏をくっつけ、しかし本人はそれが何でも無い事のように平然と団子を食べているのだから、菊としては堪ったものでは無い。
「寒いなら足袋を履け」
「さっきまでは別に冷えてなかったんだよ、ここに来るまでが寒かっただけで」
「足袋を履かないからだろ」
「風呂上がりにそんなの履きたくなかった」
「だからって」
「イヤか? 風呂上がりだから臭くないし汚くないぞ」
 問答の末、何でダメなの? と逆に聞かれてしまい、菊は窮する。言われてみれば嫌ではない。冷たい足で触られて寒いと思うが、それだけだ。
 そう言えばつい最近も似たような事を言ったような、と思い起こし、菊は弥平の顔を思い出した。偶然を装って菊の膝に足先を添わせてきた、従兄の顔を。

「――……嫌じゃない」
「なら良いだろ」
 確かに小太郎の足指は冷えている。
 菊が手の平から熱を分けてやるように踵
(かかと)を握ると、くすぐったいのか小太郎の足先がぴくりと動いた。今日は雪中行軍だった事を思い出し、動くなと命じてから凍傷になっていないかを念入りに探り出す。
 荒れて硬くなった足裏は働き者の証でもある。肌触りが良いとは言えないそこに触れ、指や指の股を一本ずつ確め、丁寧に見ていく。
 世話を焼いてくれる大人がいない小太郎の身繕いは、幼い頃は菊の役目だった。風呂に入ったおかげか確かに汚くは無かったが、爪が伸びているので久々に切ってやりたいと思い、そう言えば手の方の爪はどうだと目線を動かして、菊は自分を見つめる小太郎の視線にようやく気が付いた。
 その顔は満面の笑みで、明るさの乏しい室内であってもすぐ分かる機嫌の良さだった。新しい団子を網に載せて炙り、これ以上無く上機嫌に笑んで小太郎が口を開く。
「菊、俺の事めちゃくちゃ好きだよな」
「は?」
「惚れてるよな、俺に」
 小太郎の言葉は驕りや傲慢ではなく、問いや疑問でもなく、事実を事実として述べる断定した物言いだ。嬉しそうに世話を受けながら、子供のように輝いた笑顔を菊に向ける。
 何の話かと眉根を寄せ、言われた言葉を吟味して、途端、菊の頭に血が上る。

「逆! 馬鹿! 逆だろうが!」
「そりゃ俺は菊のこと好きだよ。言っとくけど好きじゃなかったら萩生の大旦那様に喧嘩売るような真似しないし、あんな根性出して雪の中を担いで帰ってなんて来ないからな。途中で絶対落としてたからな、言っとくけど」
 一時は険悪と言っていいような仲だったにも拘らず、最近の小太郎は菊への好意を隠そうとしない。それは子供の頃も同様だったが、雨降って地固まった分最近は吹っ切れたのか、より顕著だ。
 だが好意をそうやって口にして、いい感じに焼けた団子を一口齧ろうとして、そこで小太郎は気付いてしまった顔で叫んだ。
「……菊は俺の事好きじゃないのか?! 俺は好かれてると思って今まで頑張って来たんだけど違うの?! ここまで話引っ張っといてそうじゃないとかアリなの? ……嘘だろ!」
 されるがまま大人しく投げ出していた足が引っ込む。
「なっ」
「年頃の娘が何とも思ってない男の部屋に来るのはダメだろ! 幼馴染だからってそんな、……じゃあ昼間のアレって何? えっ俺の事大好きって言ってなかった?」
「あ、あれはお前が言わせ」
「じゃあ乳押し付けて来たのは? さっき口吸ったけど菊は好きじゃない男にも身体触らせんの? 俺だけにだと思ってたのに!」
「バカ違う! いや、違わないけど、いや、そんな」
 常になく狼狽えつつも菊は否定するが、がっくり肩を落とした小太郎はそれっきり沈黙した。団子が焦げて煙を出し始めたのを見て、のろのろと炭火から外しはしたが、食べるような気力は萎えたか消沈して俯いたきり動かない。

 あちこち視線をさまよわせ、意気消沈しきった幼馴染を見、変わらず煌々と燃える炭火を見、薄汚れたような障子やら敷きっぱなしの布団やら脱ぎ捨てられた着物やら何やらを所在無く見やって、再度菊は小太郎を見る。
 がっくり落ちた肩は戻っておらず、深い溜息がその喉からは溢れている。
 小太郎、と菊が小さく声をかけると顔を上げて目線を向けたが、自分の頭が重くてならないと言った風情であっという間に俯いた。
「疲れが一気に来た……」
 言ってそのまま頭を落とし、小太郎は床に寝転がる。
 狭い部屋だ。もっと離れた所に転がって孤独に落ち込みたかったろうが、火鉢を避ければ自然と菊の間近になってしまう。
「頼むから拗ねるなよ……」
 意図せず手が届く所に転がってきた幼馴染の頭に、菊の指先がそっと触れる。
「別に拗ねてない……打ちのめされてるだけで……」
「……こういう事は今更言わなくても」
「分かると思ってたら違ったって衝撃に今耐えてる所だから黙っててホント」
「違わないから。安心していいから」
「そうだよな、俺信じてるからな?!」
 半泣きの小太郎の身体が、菊の真横まで転がってきた。伸ばしてきた大きな手を取ってやって、菊は一つこほんと咳払いする。

 部屋の外はひどく静かだ。
 障子越しに雪の降り積もる微かな気配がする他は、火鉢に乗せられた鉄瓶から立ち湧く蒸気の揺らめきだけが部屋に響いている。
 恨めしそうにこちらを見ている小太郎の手を握り、ああやっぱり爪が伸びていると指先に少しだけ視線を流した後で、菊はゆっくり口を開いた。
「一回しか言わないから、よく聞くように」
 わざと澄まして言ってやる。
「三、四回は言ってもらわないと割に合わないんだけど」
 ふくれっ面で返ってきた返事は、子供じみた響きだ。

 二人で顔を見合わせて笑う。
 それに合わせるように、火鉢の炭火が優しく爆ぜた。


********************


 温かな膝に頭を乗せてやり、爪を丁寧に切ってやり、ついでに両耳の掃除を終える頃には、小太郎の機嫌はすっかり直っていた。
 雪は尚も振り続いており、時折強い風すら吹き付けている。陽が落ちかけたばかりのまだ早めの時間帯ではあったが、外を出歩く人の気配は全く無い。
 まるでこの世に二人きり――と言うには風情の無い、小汚く狭苦しい部屋だったが、狭いのが功を奏して火鉢一つでも充分に暖かった。
 
 機嫌良く寝転がる小太郎の頭を膝に乗せたまま、菊は餅を炙る。
 雪が積もり、時折木々から落ちる音を背景に、指二本ほどの幅のかき餅を一つ一つ焼いていき、行儀良く千切ってから自分の口へ運ぶ。
 自らが食べる傍ら、千切ったものに息を吹きかけ程よく冷まし、小太郎の口元に差し出してやる。すると小鳥の雛のように口が開くので、そこへ餅を放り込む。
 しばらくするとまた口を開けて催促してくるので、同じように冷ましてから繰り返す。

 会えなかった暫しの時間を埋めるような、ただ緩やかな時が過ぎていく。


「――……さて」
 宵闇の濃紺が雪の白さにすっかり勝る時分になって、菊が手に付いた餅の粉をはたきながら小太郎の頬をつついた。
「小太郎、そろそろ部屋に戻るから起きろ」
「んがッ」
 食事と甘いもので十二分に腹も膨れ、昼間の疲れも相俟って、菊の膝ですっかり熟睡していた小太郎がびくりと肩を震わせて跳ね起きる。
「えっもう?!」
「何がもうだ。これ以上居たら、何もしてなくてもしてたと見なされて首が飛ぶぞ。無実で首が飛んだら流石に嫌だろう」
 言ってる事は物騒だったが、起きた小太郎の肩に綿入れを着せかけてやる菊の手付きは優しい。
「火鉢と鉄瓶はどうせまた使うし、ここにこのまま置いといてくれ。芥
(ごみ)の類は……置いて帰ったらそのまま床で肥やしになりそうだな」
「ちゃんと捨てるんで大丈夫ですゥ」
 小汚い部屋を遠回しに揶揄されて、小太郎が舌を突き出して抗議する。だが、部屋への戻り支度を始めた菊を眺めるその目は、膝の温もりがまだ恋しいのか随分と名残惜しげだった。
「外は大雪だ。どうせ明日も明後日も屋敷の外には行けないんだから、また来るさ」
 小太郎が菊の部屋に行くのには、いろんな意味で憚
(はばか)りがある。だがその逆はまた別だ。
 無論、褒められた事では決して無いが、鬼の居ぬ間に何とやらだと言って菊が笑う。
「どこぞの鬼親父がお前は怖くて、だから私とは清い仲でいたいんだろう? だったらその決意を私も守ってやらねばな」
 そう言って悪戯っぽく笑って、菊は小袖の裾を優美な動きで払う。そのまま藍染の足袋が座布団代わりにしていた布団を踏んで立ち上がり、座り込んだ小太郎が見送る中、障子の桟
(さん)に指をかけた。
 だが、何かを思い出したのか、菊はふと立ち止まる。
「……今日は助かった、ありがとう」
 思い出したように呟いて、その目が小太郎を振り返る。

「私まで担がせて済まなかった。でもな、お前が藤千代だけじゃなくて私も抱いて歩いてくれて、大事にされて、……本当に嬉しかった」
 それは、菊の素直な声だった。
 素直で飾りの無い、そして年頃の娘相応に愛らしい、穏やかな声音だった。

 偽りない心情を吐露して少し照れたのか、それじゃあと言い置いて菊がさっさと身を翻す。
 そのまま障子戸を開けようとして、何かに引っかかっていて開かない事に気が付き、何だと顔を巡らせて――……
「……それは何のつもりだ?」
 開けさせまいと戸を押さえる小太郎を見つけ、何とも不思議そうな声を上げた。


「帰んなくても……いいんじゃないかな……」
「は?」
 万年床の下に隠してあった忍刀を鞘と下げ緒ごと引っ張り出し、障子戸が開かないよう敷居へつっかえ棒代わりにぐいぐい立てかけて、俯いたまま小太郎が言う。
「……俺は腹を括りました」
「ん? 腹? 何?」
 自分の足元で何やら言っている小太郎の声を拾おうと菊が下を見るが、正座して己の膝頭を握って俯く小太郎の声は聴き取り難い。
 だが、何事かを問う菊の声に、意を決した小太郎は目を見開いた。
「俺の首なんかいくらでも差し出すから」
 菊を見上げた視線同士が絡み合う。何を言い出したかと目を瞬く菊を、射抜く強さで小太郎は見つめる。そして菊の手を取って、更に続けた。
「……今晩、俺と一緒にここで寝てくれ」
 真摯な声は、若い熱を帯びている。


「もちろん良いぞ、元々そうでもいいと思っていた」
 寒いし雪だし、部屋まで戻るのは億劫だと言って、菊が笑う。
 薄暗い部屋の中が一気に華やかになるような菊の笑みにつられて笑い、笑った後で小太郎は我に返った。
「いやいやちょっと待った、意味ちゃんと分かってるか?」
 子供の添い寝じゃないんだぞと念を押す小太郎の指が、菊から離れて迷うように宙を泳ぐ。
 だが、揺れた眼差しで見上げて来る小太郎の顎を細い指で捉えて上向かせ、唇に艶やかな笑みを乗せて、菊は静かに囁いた。
「分かってるとも。……思ってたよりもお前が大人で嬉しいよ」
 言ってそのまま耳元へ朱唇を寄せて、昼間の報復とばかりに耳朶へと歯を立てる。
 その感触と熱を確かめるように軽く食んで、ほんの少しだけ頬を染めて、菊が笑った。
「――……褒美は期待していいと、昼間に言ったはずだったがな」

 小太郎の耳に吹き込む息は、濡れて甘い。







 だがしかし、事がそうそう上手くいくはず無かったのだ。

 感極まった小太郎が菊に抱きつき、そのまま万年床に押し倒して少々の物音と菊の声がした途端、部屋の外で廊下が鳴った。
 雪と風に紛れた殺気。
 突っ走りかけた小太郎は気付くのが数瞬遅れたが、それは正に獄卒の鬼神が二人だけの空間に顕現した瞬間である。
 口を吸って熱い舌を貪り、そして帯を解こうと伸ばした腕をやんわり制止されて初めて、小太郎はようやく菊が己ではなく外を注視している事に気が付いた。
「……どうした?」
 対する菊の返事は無い。
 その代わりに再度唇が押し付けられる。軽く触れてすぐ離れて、今度は額に唇が触れた。
「き」
「安心しろ、私が必ず守ってやる」
 宥めるような口づけを小太郎に与え、菊が布団から起き上がる。

「差し当たっては部屋の外の鬼親父からな」


 先程まで見せていた柔らかさや少々の恥じらい、女らしさはあっという間の瞬時に消えた。障子の向こうに現れた『それ』に対する眼差しは、仇敵に臨む羅刹の如き力強さだ。
「いやいやいやいや菊ちょっと待った殺気すごいなちょっと待って」
「何故だ? 何故待つ必要があるハハハハ」
「俺が斬られたら済む話だから、菊それはつっかえ棒だから刀じゃないから」
「離せ、すぐ済む、すぐ戻って来るから」
「いやいや師匠に何かあったら小春さんが悲しむからちょっと待って頼む」
「小春どのならすぐに良い縁が見つかる心配するな」
「そうじゃなくて! 頼むから刃傷沙汰は!」

 二人の会話が聞こえたか、障子の外から鯉口を切る不穏な音が大きく響く。
 その音に菊の柳眉が逆立った。
「高次! 誰に刃を向けるかよく考えてから刀を抜けよ!」
「すいません穏便に! 穏便にお願いします!」
 今にも障子を蹴破って出て往かんばかりの菊を抑える小太郎の声は、必死である。

 だが、蜜月を邪魔されて烈火の如く怒っている菊から、突如ふっと力が抜けた。
 なんとか怒りを収めてくれたかと小太郎が心底安堵したのも束の間、菊の両手が小太郎の両頬にそっと触れた。
「お前は何も心配いらない。目でも瞑って布団の上で待っていろ」
「なんか男前なこと言いだした」
「たかが高次一人案ずるな、お前には指一本触れさせないから」
「惚れ直しそうだけど頼むから待って!」
 
 叫んだ小太郎の頭を、引き寄せて菊は強く抱きしめた。
「お前は私が欲しくないのか」
 胸が菊の香りでいっぱいになるほど強くかき抱かれて、小太郎の口から吐息が洩れる。
「はわわ」
「変な声出すな」
 気が削がれたらしく菊はさっさと小太郎から離れたが、依然その目には戦意がみなぎって迸っている。
「……いいさ、今日と言う今日は決着をつけてやる」
 言って立つその姿は、逢瀬を焦がれる乙女などでは決してない。戦場に出陣する若武者の気魄である。


「話は終わりましたか」
 障子戸を開けたその向こう、今にも刀身を抜いてかかって来そうな悪鬼羅刹の形相でそこに立っていたのは、まさしく真島高次――鬼親父その人だった。
 ただ、その足元には見覚えのある土瓶と湯飲みとが、盆に乗せられて未だ湯気を立てたまま置いてあり、高次が持って来たそれが先程毘沙門が煎じた疲れ取りの薬湯であると知れて、小太郎は口を抑えて叫びを堪えた。

 しかし、菊にとっては与り知らぬ処の話である。
 小太郎を部屋に置き、暗闇に吹き荒ぶ大雪を背景に廊下へ仁王立つと、高次へ勇ましく大喝した。
「まだ途中だ遠慮しろ!」
「何を訳の分からん事を」
 部屋の入口で正座して沙汰を待つ小太郎に視線を流し、立ちはだかる菊を見やり、これ以上は無いと言うほどの不機嫌さで高次が呟く。
 最早刻み込まれてしまった眉間の皺を更に深め、目を伏せ、だがすぐに見開いて怒鳴り上げた。
「順番を守れと言っておるのです! 祝言の前に腹が膨らんだらどうなさるおつもりか!」
「要らん世話だ! お前は自分の子供の事だけ考えてろ!」
 だから自分の娘にも嫌われるんだと付け加えた菊の言葉に、いつもは揺るがぬ高次の頬もほんの少しだけ歪んだが、その揺らぎは鉄の理性で覆い隠し、そんな事はございませんと一言吠えた。
 背後に小太郎を庇い、菊は一歩も退かぬ構えで高次に相立つ。
「大体私がどうしようとお前には何も関係無いのに何故いつも口喧しいんだ、実の父親が特に何も言わないのに何故お前に文句を言われねばならんのだ、おかしいだろ!」
「不肖この高次、菊様がお生まれになられたその時から我が子も同然と思ってお傍に居ります。御父上が仰らないから私が申し上げておるのです! そもそも言われねば分からぬという事自体が嘆かわしい!」
「偉そうに言うくせにお前は仕事仕事で小春どのをいつもほったらかしで、もうすぐ三人目が生まれるんだからそっちに専念しろ! 我が子同然じゃなくて我が子の方に行け!」
「小春は万事心得ておりますし、我が娘達はまだそのような心配をする歳ではございませんし、大体私にそんな心配はさせませんので」
「そう思ってるのはお前だけだ! この甲斐性無し!」
「何とでも言っておればよろしい」
 
 屋敷の一人娘に手を付けかけたのは小太郎であって、首が飛んでおかしくないのも小太郎なのだが、高次の怒りの矛先は完全に菊に向いている。互いに一歩も退かない舌戦が続き、関係の無い事まで持ち出しての喧嘩が続く。
「あの、ちょっと、二人とも」
 二人とも小太郎の制止など全く耳に入っていない。
 埒が明かないので、小太郎はすみません俺が悪いんですと叫んで廊下に額を擦り付けてみたが、眼中に無いとばかりに二人から無視された。

 外は未だ吹雪いている。
 凍えるような風がひっきりなしに吹き込んで来るが、小太郎ひとりを除け者にしたまま、言い争いはますます激しくなる一方だ。
 風邪をひいても良くないし、意を決して小太郎は二人の間に割って入る。
「あの! 俺の為に争わないでくださ」
「「お前は黙ってろ!」」
 二人から同時に全く同じ言葉を返されて、そして小太郎は何もかもを諦めた。


 気が済むまで喧嘩させておこうと腹を据え、寒くないように部屋から綿入れを引っ張り出してきちんと着込んで、冷え切った板張りの廊下に折り目正しく正座して、小太郎はこっそりと息を吐いた。
 ほんのさっきまでは暖かな部屋で温かな膝を堪能していたのに、この急転直下は何なのだろう。
 そう言えば菊の唇は大層柔らかかった。唇も頬もどこを触っても優しい暖かさで、指先だけが少し冷えていて、その指で肌をあちこち撫でられくすぐられ、あれは本当に至福の時だったなと小太郎はふと思う。
 それが今は、大雪の中でこの有様だ。

「まあいいか……もう何でも……」
 小太郎のつぶやきは吹雪に紛れ、未だ言い争う二人の耳には届かない。
 寒いなと身を震わせながら、とりあえず菊を応援すべく背筋を正して、小太郎は廊下に座り直した。


 宵闇に風雪が舞う。
 花咲く春は雪に遠く、まだまだ先の幻である。



―― 雪中二花取 終







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