雪中二花取
(せっちゅうにかどり) (7)


 
 白一色の雪道を、菊達一行は久方振りの葛木家に向かって進む。
 山深く、平坦な地が少ない一ヶ谷だったが、萩生家を出てしばらくは平地と民家が立ち並ぶ。里人は皆久々の晴天に大喜びで、総出で屋根の雪下ろしだの玄関前の雪かきだの、主筋
(あるじすじ)の屋敷に顔を出しに行ったり、隣家の様子を見に行ったり、普段は静かな山里であってもあちこちで声が上がっていて、なかなかに騒々しい。
 そのおかげで行きの道往きよりも格段に歩きやすくなっていたのは幸いだったが、その分しっかり人目もある。

「……御頭様のお嬢様と、若様じゃねえか?」
「なんでこんな雪の中を」
「母ちゃーん! なんか外におひめさまいるー!」
「何だ、駆け落ちか」
「人さらい?」
「ありゃ屋敷の下働きの子だがね、お嬢様とちょっと前に大喧嘩したァ」

 暇な年寄りや久々の晴れ間に大はしゃぎ中の子供達に指をさされ、雪仕事中の里人達の好奇の視線にさらされ、別に事件じゃないから! と時に大声で言い訳しつつ、小太郎は雪の中を突き進む。
 背に大量の土産物、両腕に葛木家の嫡子二人、内一人は重量と、小太郎の負担は途轍もなかったが、会いたかった人達に久々に会えた喜びはその重さに勝っていた。
 真っ白な息を大きく吐きながら、雪道で足を動かす小太郎の歩みは期待通りしっかりしていて、これならば早々に着くだろうと担がれながら菊も上機嫌である。
 山里ではなかなかお目にかかれない、綺麗な着物姿が目の前を通って行くのに歓声を上げた小さい女の子達に手など軽く振ってやってから、小太郎の耳元へ口を寄せる。
「聞いたか? お姫様だそうだ」
「……黙ってれば、そういう風に、見える、かな」
 そろそろ小太郎の呼吸も荒くなってきている。ひとつ大きく呼吸して、白い息が辺りに広く散った中、菊と藤千代をよいしょと抱え直す。
「おっまえさっきから可愛くないぞ、何だその口の利き方は。藤千代にはだらしなくデレデレする癖に」
「俺が菊にデレデレしてたら絶対良くないだろ」
 前を見据えたまま返す小太郎の語尾は強い。
 不機嫌にも見えるような横顔で前を見たまま一言呟く。
「……あのな菊、頼むから俺にあんまりくっつくなよ」
 その言葉に菊が鼻白む前に、小太郎はぶっきらぼうにふてくされてみせた。
「久々に会ったからかいつもよりなんか可愛く見えるしすげー良い匂いするし、さっきから俺の頭とか頬っぺたに乳がずっと当たってるし、やらかいしあったかいし、俺今かなり我慢してるけどそろそろアレだからな、ホント」
「…………別に我慢しなくていいぞ?」
「こっ子供の前でそういう変な触り方はやめてもらえませんかね?!」
 細い指で顎の輪郭をくすぐるようになぞられて、小太郎の声が裏返る。

 だが、そんなじゃれ合いは一瞬だった。
「いや、子供で思い出した。俺さっきから藤様が一言も喋んないのが気になってんだった。おーい藤様どうした? 具合でも悪い? 疲れちゃった?」
 言って、自分の首に両腕を回してべたりと抱きつき、そっぽを向いた藤千代の顔を見ようと小太郎は首を巡らす。
 小太郎からは死角で見えない藤千代の顔を、代わって菊がひょいと覗き込んだ。
「あ、ぐっすり寝てる」
「ウッソだろ藤様ここで寝るのはダメだ、絶対風邪引くからそれだけは止めて藤様起きて! 菊、起こしてくれ!」
「藤千代、起きなさい。ここで寝るな、家に帰ってから寝ろ、風邪引くぞ」
「こたろうさっきからうるさーい……」
「うわ理不尽」


 両手に花の賑やかな雪道中
(ゆきどうちゅう)は、尚も続く。


********************


 すっかり寝入ってしまった藤千代が風邪をひかないように、小太郎が首に巻いていた襟巻で藤千代の頭から肩をすっぽり包んでしまう。
 キンと冷たい空気が小太郎の空いた首元を通り抜けていくが、寒さは一切感じない。むしろ心地良い。
「――……〜〜〜ッ」
滝のような汗が小太郎の顔を流れ落ち、雪景色に湯気すら立ち昇って見える。
 萩生家を出発してから暫し経つ。葛木家まではあと少し。
 だが、小太郎の限界はすぐそこまで来ていた。

「……重ってえ……!」
 叫ぶ声が白い吐息と紛れて飛び散る。
 人の手が入って歩きやすかった辺りを進んでいた時は余裕があったが、萩生家と葛木家とのちょうど真ん中の辺りは平地が少なく、段々畑や棚田ばかりで民家も少ない。
誰も雪かきをしておらず雪は積もりっぱなしで、小太郎が行きの道中で雪を蹴散らしながら走って来た道筋だけが進むよすがだ。
 歩き難さと山里ならではの道の悪さと、何よりも分厚く積もった雪道が心底祟って、小太郎の体力は最早風前の灯火である。
 打掛と小袖の下に着込んだ絹の単
(ひとえ/下着)の袖口を引っ張り出し、小太郎の頬や鼻筋を流れ伝う汗を丁寧に甲斐甲斐しく拭ってやりながらも、菊は居心地が悪そうだった。
「小太郎、私だけでもそろそろ降りよう」
「なんで?」
 だが、菊の申し出に対する小太郎の声は低い。
「なんでって……さっきは降ろす降ろす言ってたじゃないか、今だって重いと」
「いやもう平気、掛け声みたいなもんだし、ここまで来たら最後まで俺が担ぐし、さっきは絶対降りないって言ってただろ」
「流石にもうそんな我儘は言わない。だってお前、そんな真っ赤な顔をして」
「大丈夫、いいよいいよ、まだ頑張れる」
 絶対に降ろさないとばかりに菊を抱いた腕に再度力を込め、汗を流しつつも歯を見せて笑んだ小太郎が、雪道をまた一歩を大きく踏み出す。
「小太郎」
「イヤだ。道が一番悪い所は越えたし、あと少しだし」
「……小太郎」
 駄々をこねる子供を諭す声で名を呼ばれ、小太郎は口をひん曲げた。
 慣れない家で過ごして気疲れしたのか、小太郎達が騒いでいてもぐっすりと寝入っているらしい藤千代は実体重よりも重たく感じるが、そもそもが幼子でそこまで重くないため全然良い。重い打掛を着て更に自身も重さのある菊も、それでも小太郎が担ぎやすいよう、体重がかからないよう、自分で工夫してきちんと抱かれてくれているので、まだ何とかなっている。
 だが背中の籠に山と積まれた土産物は、ただそこに在るだけでずっしりとむやみに重く、小太郎の肩に容赦なく食い込んでいく。

 菊の、雪中行脚ですっかり凍えた冷たい指が、それでも優しく小太郎の頬を撫でた。
「小太郎、私の言う事を聞け」
 命じる事に慣れた穏やかな声に、それでも小太郎は頭
(かぶり)を振る。
「菊こそたまには俺の言う事聞いてくれよ、今は可愛い顔して俺に担がれてればそれでいいんだよ。そんで時々小太郎大好きかっこいいって言ってくれたら俺はどんだけでも頑張れるから」
「小太郎大好きかっこいい」
「よっっっしゃああああああ」
「……微妙に惜しい男に育ったなお前……」
 吠えてまた一歩を踏み出した小太郎に菊は溜息しか出ないが、間近からその顔をじっと見つめて小さく呟く。
「……でも、本当に格好良くなった」
「おっ、そうだろそうだろ」
「昔は小さくて泣き虫で、私がいないと何も出来なかったのに」

 だが、今は断じてそんな事は無い。
 独りで敵地に乗り込んで来て腹黒爺から姉弟を取り戻し、そして二人と荷物を担ぎ上げて、堂々帰還すべく雪道を着実に進んでいる。
 少し前まではその変化を、小太郎が遠い所に行ってしまったように寂しく感じていたものだが、今は違う。子供の頃のように再び間近く接し、互いに容易く気持ちを寄り添わせ、こうやって素直に話が出来る。――それは何と得難い事か。
 首筋を伝う汗を指先で拭ってやりながら、いつの間にかすっかり男になってしまった小太郎の横顔を、菊は色々な思いを込めて強く見つめた。

「……でもそれは、残念ながら今もなんだよなぁ」
 菊の視線に気付いたか、前を向いていた小太郎の目が菊を向く。
「菊がいないのが不安すぎたから、御頭様に迎えに行かせてもらったようなもんだし。萩生のお屋敷で菊に何か起きてたらって思うと今でも金玉縮むくらい怖いし、いやもう本っっ当に何も無くて良かった。いや有ったんだけど。無事で良かった……本当に良かった」
 渋い溜息を吐きながら、菊の万感には気付く様子も無く、それでも力強く小太郎が述べる。
「だから、菊達に無事会えて俺は嬉しいの。だから離したくないの。だから全然このままで良いの。分かった? ……あ、そうそう、それに」
 一歩、また一歩と地道に歩を進めていた小太郎の足が止まった。
 雪道の真ん中に立ち、荒い息を整えるように二度ほど呼吸し、そして未だ寝ている様子の藤千代を起こさないようにか、菊の耳元へ口を寄せる。

 だが、内緒話が始まるのかと思って自ら近付いてきた菊の耳朶に、小太郎は勢いよく噛み付いた。
「ちょ……っ、コラ!」
 逃げようと身じろぎした菊の冷たい耳朶に歯を立ててとらえ、耳全体を唇で咥え、その柔らかさをしっかり愉しむように甘く食む。
 菊は逃げようと足掻いたが、抱き上げられたままであったのと、藤千代を抱き上げていた方の手でいつの間にか打掛の袖をしっかり握り込まれてしまって、身動きもままならない。
「やめんかバカ! お前、犬みたいに、っ」
 調子に乗った小太郎が濡れた舌を耳穴の奥に沿わせた瞬間、菊の喉から艶っぽい声が洩れた。そろそろ菊が本気で怒り出すと思ったのか、そこでようやく小太郎は舌を離す。

 だが、お互いの距離はくっついたままだ。
 不意打ちで頬と耳とを赤く染め、肩を震わせる菊の顔を間近にのぞき込み、してやったりとでも言いたげな声音で小太郎が笑う。
「……頑張った褒美は何をもらおうかって、さっきからずっとそればっかり考えてるしな」
 そう言って微かに笑む小太郎の顔は、菊が見た事の無い、大人の男の表情だった。


「この馬鹿者が……!」
 舐められた方の耳を押さえ、きつく小太郎を睨みつけて菊が吐き捨てるが、当の小太郎は顔の赤い菊などお構いなしで、何事も無かったかのように再度歩き出す。
「バカ太郎! バーカバーカ!」
「そうですどうせバカでーす」
「ド阿呆!」
 暴れたせいで態勢の崩れた菊をしっかり抱え直した小太郎は、いつもの見慣れた顔付きにすっかり戻ってしまった。暢気な横顔を菊が睨みつけると、視線にはすぐ気が付いて菊の方を向くのだが、その顔はすぐやめたのに何でまだ怒ってんのとでも言いたげだ。先程見せた雄の表情とは程遠く、少年のようでさえある。
 その幼さに安堵するような、それでもさっきのあの表情がまた見たいような、そんな複雑な気分で、菊は静かに口を開いた。
「褒美が……、褒美が、欲しいなら」
 その声に、小太郎の目が菊を見る。
 瞬く互いの瞳に、互いが映る。
 さっきの意趣返しとばかりに、菊は細い指で小太郎の顎を捉え、その顔を上向かせた。
 そして何が起こるのか分かっていなさそうな小太郎に、今度は主導権を握ってやったと小さく笑んで。

「――……期待していいぞ、何なら今すぐやってもいい」
 吐息と混ぜて囁いて、菊は、小太郎の唇へと顔を寄せた。



 が。

「……若様、申し訳ねえが道の真ん中で乳繰り合うのは流石にどうかと思う」
 唇同士が触れる前に、心底渋く嫌そうな声がした。

 紺染めの装束に身を包んで腕組みをした男が、菊達と同じ雪道にいつの間にか立っていたのだ。






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