雪中二花取(せっちゅうにかどり) (6) 「何で菊はあんな下忍に入れあげてるのってずっと思ってたけど、ちょっとだけ分かった気がする……」 荷物を背負って姉弟を抱き上げ、雪かきはされているとはいえ積雪の中、萩生家の正門を堂々たる足取りで出ていく小太郎の背中を見送って、香羽(こう)がぼそりと呟いた。 「自分で拾って自分で育てたから、単に情が移ってるだけじゃないかい?」 それに対する弥三郎の応えは簡潔で、そして至極真っ当だ。 反論しようと香羽が再度口を開きかけるが、大して興味の無さそうな弥三郎の顔に気が付き、口を噤む。 「そうか、あやつが小太郎か……」 元吉翁が顎の灰髭を撫でさすり、妙案が浮かんだのかニヤリと笑んだ。 「……あの下忍と娶(めあ)わせてやると菊に言ったら、どうなるかの」 周囲にいた全員が驚愕して目を見張る中、この老策士は嬉しそうに更に続ける。 「萩生の家で、あの小太郎とやらと添わせてやると言ったら、菊は我が家に入るのではないか? 後は様子を見て毒でもじわじわ盛ってあの小僧めを始末してしまえば良いし、使えそうなら別にそのまま飼っても良い。確か親無しの拾われ子だったな? どこぞの御武家のご落胤だのとでっち上げてしまえば、我が家に入れるにも問題無かろ」 正に邪智と呼ぶに相応しい案をするりと吐き出し、いっそ優しげにさえ見える慈愛の笑みを元吉翁は浮かべた。 「このまま普通にしておったところで、下忍風情と結ばれよう筈も無い事は菊とて充分解っておるだろう。そこをくすぐってみるのじゃ。好いた男と添い遂げたいと思っておるなら、この誘いは渡りに船なのではないか。……これはかなり冴えとるのでは? ん? 儂すごいな?」 「悪巧みにかけては、義父上は間違いなく一ヶ谷で一番ですよ」 麗しい顔を心底の呆れ顔に染めて弥三郎が言う。多聞は主人たちの言に笑顔で黙したままだったが、その沈黙は雄弁に肯定を示していた。 だが、香羽は実父の言に一気に青ざめた。幼い頃から可愛がってきた姪が自分の家の子になるのは嬉しいが、それでは――…… 「じゃあ……うちの弥平はどうなるの……?」 父母と祖父、そして元吉翁の側に控えていた多聞の視線が一気に自分の方を向き、遠ざかっていく菊達の姿を物言わずじっと見ていた弥平は、にわかに狼狽える。 萩生家に嫡子は弥平のみだ。しかし、女ながらに忍軍の次代を率いる者として育てられ躾けられてきた菊が養子に入るなら、元吉直系の実孫と言うだけの弥平は確実に廃嫡されるだろう。 特に何かに秀でている訳でもない、目立つ所の無い弥平。家族の繋がりなど何とも思っていない元吉ならば、孫の事など歯牙にもかけず、実益を取るのは明らかである。 「……ッ」 家族だけでなく、使用人から注がれた視線にも憐れみと侮りとを感じ、弥平の顔にかっと血が上った。 菊達の後を追ってか、雪の積もった庭を門に向かって走り出す。 「――……泣かせてしまったかの」 「父様のバカ! 私はともかく、弥平を蔑ろにするのはいい加減にして!」 白い息を散らして叫び、怒りに肩を震わせて、香羽は屋敷の中へ戻って行く。やれやれとため息をつき、弥三郎もそれに続いた。 後には元吉翁と多聞、老主従二人だけが残された。 「出来の悪い子ほど可愛いと言う奴ですかね?」 「ちっとは口を慎まんか多聞。……まーそんな感じかのう」 遠慮無い多聞の言い様に、寒い寒いと腕をさすりつつ、元吉翁がけろりと呟く。 「あれはなあ、昔から言いたい事があってもきちんと言わんし、思った事があっても腹に溜め込むばかりでよう言わんし、そのくせ気付いてもらえないと拗ねよるし、どうしようもないからのー」 「私などからしてみれば、菊様のように言いたい事を全部言う覇気に満ちたお人より、弥平様のようなお人の方が可愛いですしお仕えしやすくて良いですよ」 屋敷内へそろそろ入るよう主人を誘いながら多聞が言うが、その言葉に元吉翁が呵々大笑した。 「それは単に操りやすいって事か。多聞よ、お前もつくづく腹黒いな」 「大殿ほどではございません」 不思議に気の合う腹黒主従が、双方機嫌良く肩を揺らして笑い、今後の作戦などを立てながら屋敷の中へと引っ込んでいく。 「小太郎とやらに何ぞ適当な仕事を命じて他所に行かせて、その行きか帰りの山道でさっさと殺して埋めてしまうか? 消してしまえば、奥手な弥平にも好機が巡って来るやもしれんし」 「でもあの子、よく働くし素直だし、殺すには割と惜しい所があるんですよねえ。下手な殺し方をすれば側役の真島様辺りが嗅ぎまわるかもしれませんし、ここは一つ、別の女をあてがって菊様と円満に引き離す、なんてのはいかがです?」 「間を取って、事故に見せかけて顔でも焼くか。見目悪くなれば、のぼせた菊の気も冷めるのではなかろかのー」 山間の狭い空は未だ青かったが、その片隅にはほんのりと灰色の雲が広がっている。 それを最後に仰ぎ見て、風向きを見て―― ああまた雪が降るな、と元吉翁は誰に言うでもなく囁いた。 ******************** 一方その頃、萩生家の門を出て雪道を歩き始めた菊達一行は、背後の皆に聞こえないよう声は潜めていたものの、大変に賑やかだった。 「言っとくけど結構重いからな、覚悟してたよりはマシかなって感じだけど重いからな」 「グチグチグチグチやかましい! 今や引く手数多の葛木の美姫を抱いて歩けるんだぞ、ちょっとは光栄に思え」 「わあ美姫とか自分で言っちゃったよこの人、ハイハイやったー嬉しいなー」 「お前! 後で覚えてろ!」 だが、言葉とは裏腹に小太郎が菊を降ろす様子は一切無いし、菊も降りようとはしない。 まだ萩生家の門から見える辺りを歩いているからなのだが、幼い藤千代だけでなく自分をもしっかり抱き上げて雪道を往く小太郎に菊は嬉し気に笑んで、上機嫌で小太郎の頭を胸元に抱きかかえた。 豊かに育った両胸を小太郎の額や頬にわざと押し付け、髪に口付ける様にして、閨の睦言の如く菊は甘く囁く。 「こうやって私を抱き上げているからこそ、こんな良い目にも遭うんだぞ。どうだ小太郎、お前、乳は大きい方が好きなんだろ、知ってるんだからな」 「前が見えないんで今はご遠慮いただけませんかね」 「可愛くない!」 「降りて自分で歩きながら乳押し付けてくれたら、それはめちゃくちゃ嬉しいよ」 だが、ため息交じりに本音を吐露した小太郎を更に怒鳴りつけようとして、そこで菊は気が付いた。 「――……弥平が見てる」 「俺が菊だけ降ろしたいつってるのバレたかな」 萩生家の門から程近い所で突っ立ったままの弥平は、棒立ちのまま菊達をただ眺めている。逆光も相俟ってその表情までは見え辛いが、追いかけるでもなく何を言うでもなく、ただ白い息を大きく吐きながら、弥平はその場に留まっている。 小太郎に抱かれたまま、弥平に向かって挨拶のつもりで、菊はひらりと片手を振った。 弥平もそれに返そうとでもしたのか、右手が何かを掴む様に少し揺れたが、それ以上がある訳でも無く。 ――そのうち弥平の姿は雪道に紛れて遠ざかり、見えなくなった。 弥平が見えなくなって暫くのち、小太郎に担がれて雪道をえっちらおっちら運ばれながら、菊がぼそりと口を開いた。 「一昨日な、大じじ様が藤千代と一緒に寝るとゴネだした」 「んん?」 突如始まった菊の言葉に、世間話でも始まったかと小太郎が間抜けな相槌を返す。その歩みは止まらず、規則的に足だけは動いていく。 「急に泊まる事になった訳だし申し訳ないと思って、萩生の家での最初の内は、藤千代と同じ部屋で同じ布団で寝てたんだ。初日は叔母上も布団を並べて一緒に寝て、夜中までお喋りしたりして」 菊の右腕が小太郎の首と背にゆるく廻され、先程同様に菊の胸が小太郎に密接する。だがちゃんと前が見える様に考慮してくっついてきたそれを、今度は嫌がらずに有難く受けながら、小太郎は菊の言葉の続きを待った。 「それでまあ最初の内は問題無かったんだが、一昨日だな。大じじ様が飯時に、菊殿ばかり藤千代殿と仲良くしてずるいから、今晩は爺と仲良くしてくだされとか言い出してな。大じじ様はまごうこと無きクソジジイだが、何だかんだ言って可愛がってもくれてるから、そういうもんだと思ってその晩は部屋に私一人だったんだ」 小太郎の後ろ髪を弄りながら、菊はぼそりぼそりと言葉を紡ぐ。 「菊ちょっと待って、その話イヤな予感しかしないんだけど」 「そしたら夜中に誰かの気配がした」 「ほらな! そう来た!!」 足が止まった小太郎の絶叫に近くの木から雪が落ちるが、菊は構わず更に続ける。 「その日の夕餉では、これは珍しいだのこっちは辛くて美味いだの、やけに酒を勧められたんだ。……途中からは飲まないで、袖に流しておいて正解だった。勧められるまま飲んでたら気配に気が付かなかったかもしれないし、――……あれは気付いてもどうしようもなかったかもしれない」 菊の口振りは淡々としていたが、耳朶をかすめるその吐息が妙に熱い気がして、小太郎は思わず生唾を飲み込む。 「大丈夫……だったんだよな?」 「当たり前だろうが。物も言わずに襖(ふすま)をこっそり開けてきた瞬間に把握して、手持ちの小刀投げつけてやったわ」 殺意が強い。 結局その夜這い者はその晩それ以降は現れず、さりとて安眠する訳にもいかず、菊は朝まで苛々しながら起きていたのだと言う。 だが小太郎が安堵したのも束の間、菊は更に言葉を述べた。 「そしたら昨夜はとうとう風呂を覗かれて」 「風呂を」 小太郎の語尾に殺意が満ちる。 普段どちらかと言うと気の抜けている顔付きが瞬時に凄みを増し、噛み締めた歯の隙間から餓狼のごとき唸り声が立ち昇る。 「へえ……風呂、そう」 「古今東西、暗殺や下克上が一番多く起きた場所がどこか分かるか? 風呂場だ。気を抜きがちだが、油断できない場所が風呂場だ。一昨日の事があったから風呂なんて特に遠慮しておきたい所をな、あの糞爺は私にな、あろうことか頭から甘酒をぶっかけやがってなあ」 「よし御頭様達と合流してあの屋敷に火をかけよう」 この時代の一般的な風呂はいわゆる蒸し風呂で、湯船に湯をはって浸かるのではなく、浴室の外部に据えた大釜を使い蒸気を立てて、それを部屋の中へ引き込んで浴び、湯浴みの代わりとするものだ。 だがここ一ヶ谷の里は山深くにあり、周囲に出湯(いでゆ/温泉)も多い事から、井戸を引くのと同様程度の手間で簡単に熱い湯を使う事が出来る。そのため、ある程度大きな屋敷ならば大概が湯船を据えた風呂場を造り付けていた。 萩生家も勿論例外ではなく、下手すれば葛木家よりも立派な湯殿が設えてあるのだが――…… 「風呂の鍵が壊れていたのをうっかり直し損ねているから、間違いが無い様に菊殿が湯浴み中は誰も近寄らぬよう人払いをしておくなどと言われてなあ」 「もういい分かった菊、結果だけ言ってくれ。そいつを殺して俺も死ぬ」 「何でだよお前は死ぬなよ」 思いつめた声を上げた小太郎の頭を一つ叩(はた)き、菊が突っ込む。 そして何とも大きな溜息が、菊の口から漏れ落ちた。 「弥平の奴、もともと風呂場に入り込むつもりだったのか、本当に知らなくてたまたま来た所に私がいたのか、どうも判りかねると思ったからその時は敢えて何も言わないでおいたんだ。……後でカマをかけてはみたが、半々くらいな感じだったし」 正面切って腕ずくで襲われたのだとしても、ひ弱な弥平など菊の敵ではない。 ないのだが――…… 「大じじ様は本当に他人を道具としてしか見てないクソだからな。上手い事言われてそそのかされて、うっかりその気になったという所かと見ているが……あの弥平に私をどうこうする気概があるとは到底思えんし」 ただ、あの元吉翁が己が野望のために形振り構わず弥平の支援をしたのなら、どんな卑怯悪辣な搦め手で来るか分からず、菊であってもさぞ危なかった事だろう。 一歩間違っていれば、今ここで小太郎の目を真っすぐ見られなかったかもしれないし、己の甘さを悔やんでも悔やみきれない事態になっていたかもしれない。 飲まされた酒の、妙に身体に残る熱い味を思い出し、ほんの少し背筋に寒いものを感じながらも、菊は赤くなったり青くなったり忙しい小太郎の頭を丁寧に撫でてやった。 「まあ何にせよ絶対に今晩が山場だったと言うか、修羅場必至だったからな。お前が来てくれて助かったよ」 その声は明るい。 「正月早々、危うく従兄の血でこの手で染める所だった」 「そっちかー……」 心の閻魔帳の一番目立つ箇所に『弥平』の二文字を深々と刻みつつ、小太郎は、菊の強さに心底安堵した。 菊が軽くて細くてか弱かったら、雪道を担いで連れ帰るくらいどうという事も無かっただろう。だがそんな普通のお嬢様のようだったなら、今ここで菊は笑っていられなかったかもしれない。もし雪が今日止んでいなかったら、もし迎えに行くのが明日に遅れていたら、それも同じ結果になっていたかもしれない。 そうなっていたらと思うと、腹の底から怖気が走る。 担いだ菊の体温を感じながらそう思い至り、幸運をしみじみ噛み締めて、小太郎は熱い息を大きく吐く。 「……菊が重くて本当に良かった……!」 「どういう意味だ」 間髪入れずに飛んできたゲンコツはかなり痛かったが、その痛みも案外嬉しくて、小太郎は大きく一歩を踏み出した。 |