雪中二花取
(せっちゅうにかどり) (5)


 
 萩生家玄関廊下の奥から衣擦れの音をそよがせて颯爽と現れたのは、いつの間に着替えたのか出かけた際に身につけていた瑠璃紺の打掛を纏った菊である。
 その姉同様、隣に立つ藤千代も正月用の晴れ着で身を包み、甘えたがりの普段とは違って、葛木本家の嫡男らしく凛々しい風情だ。
 ただしそれは見た目だけで、中身は普段と変わらない。
「小太郎やっと来た! ねー早く帰ろー!」
 藤千代は小太郎の顔を見るなり駆け出し、裸足で地に下り、土間に跪いたままだった小太郎に勢いよく飛びついた。
「藤様ぁぁぁ久しぶりぃぃ」
「小太郎げんきしてたあ? さみしかった? 夜泣いちゃったー?」
「寂しかったに決まってんじゃんかー! ちょっと泣いたし」
「泣いたのか」
 腕の中に飛び込んできた幼子を軽々と受け止め抱き上げて頬擦りし、小太郎が感動の再会を熱烈に果たしているのを、玄関先まで歩み来た菊が呆れたように眺めている。

 打掛姿の菊が玄関に現れただけで、周囲が一気に華やいだ。玄関周りは仕事中の下人達ばかりで、皆防寒重視の地味な格好で、そんな中に若い娘が着飾って現れれば目立つのは至極当然なのだが、小太郎としては世界が一気に色づいたような気すらした。
 菊の顔から足袋の爪先まで視線を流し、もう一度しっかり顔を見、ああ本物の菊だと思って安堵して、小太郎は心の底から微笑んだ。――藤千代を抱き上げたまま。
「……お前はいっつもそうやって藤千代ばっかり」
「へっ?」
「まあいい、さっさと帰ろう。雪が降ったらまた閉じ込められる」
 不機嫌そうな声を出したのはほんの一瞬で、何事も無かったかのように菊が告げる。だが履物を用意させようと近くの下女に菊が目線を向けた時、我に返った元吉翁が大声を上げた。
「いやいや待て待て菊殿よ、そんな大層な晴れ着姿でどうやって雪道を行くつもりじゃ? 生憎じゃが駕籠は出してやれんぞ、まだ帰らせるつもりは無かったから用意も無いしな!」
「大じじ様よ、そんな事を言っていたら父上が屋敷に火攻めに来るぞ。さっきちらりと聞こえたが、小六
(ころく)叔父上も来るなら間違いなく新年早々大流血の大惨事だ」
 煌びやかな打掛の裾を捌きながら述べる菊の佇まいは、一見どこぞの姫とも見紛うものだが、その細い手指は首を斬って落とす動きを如実に示している。

 騒ぎを聞きつけてか、屋敷の奥から叔父夫妻である弥三郎と香羽が何事かと小走りで駆けて来た。それに数歩遅れて、弥平も怪訝そうな顔で現れる。そして小太郎の姿を見つけ、三者三様に複雑な顔をした。
「あー……、これはそろそろ兄上が怒髪天かな」
「迎えが来てるの?! 菊も藤も春までいてくれるんじゃなかったの? あんた達が喜ぶかと思って、お八つに小豆餅を甘く煮てるのに……ええ……帰らないで欲しい……」 
 兄である九郎の性格を熟知している弥三郎は、引き際を素直に悟ったようだが、姪達は今日も明日も泊まっていくものと思い込んでいた香羽が、急な帰りに子供のように駄々を漏らす。弥平はと言えば、二人を迎えに来たのが小太郎と知って強い不快感を露わにしていたが、特に何を言うでもなく、じっとりと睨みつけているだけだったが。

「義父上、もう素直に菊達は帰しましょう。兄はやると言ったら本当にやりますよ。むしろこうやって先触れしてくれて助かったと言うか、何も言わずに一番隊連れてここに乗り込んで来て、問答無用で火点けててもおかしくなかったですからねこれ」
「菊ほんとに帰っちゃう? 今、雪止んでたから良い茶菓子買いに行かせてるんだけど、それだけでも一緒に食べてかない? もう帰っちゃう? ……じゃあしょうがないよね……父様、そろそろこの子達を帰してあげないと」
 弥三郎夫妻が代わる代わる物申すが、元吉翁は地団太を踏んで悔しがるばかりだ。
「わ、儂はまだ諦めんぞ、嫡男の藤千代は仕方ないにしても、菊だけでも何とか」
「……大じじ様」
 智将の顔をかなぐり捨てて喚き散らす元吉翁に、打掛の裾をさらりと鳴らしながら菊が近寄った。ため息交じりで老爺に歩み寄り、そっと目線を合わせて、元吉にだけ聞こえるように小声で囁く。
「父上が此処に来る理由が、私達を迎えに来る事だけだと本当に思っているのか?」
「何」
 同じく声を潜めた元吉翁に対し、菊は続ける。
「先程の家名と屋号は、一体何の羅列だろうな? あの父上の事だ、きっと前から知っていたんだろう。知ってはいたが、親戚のよしみと大じじ様の今までの功績とで、知らぬ振りをしてやってたんだろうな。……しかし、そんな情けをかけてやる理由が今日消えた」
 紅を引いた唇を吊り上げ、翁の耳元で菊が笑う。
「――……なあ大じじ様、折角ここまで長生きしたんだ、命を粗末にするものでは無いよ」
 笑んで、続ける。

「それとも、孫達の前でその首を晒したいか?」

「……このクソガキが……!」
 睦言をささやくように己を煽ってきた菊に、元吉翁が叫ぶ。だがその顔は妙に楽しげで、嬉しそうにさえ見えた。
「やかましいわ、このクソジジイ」
 返す菊の声は不機嫌だったが、その響きは少々の親しみが込められている。――ほんの少しではあったが。


 床を叩いて悔しがる元吉翁を他所に、ひとつ大きく手の平を打ち鳴らし、菊が周囲の皆に言い述べる。
「何にせよ私達はもう帰るぞ。早く帰らねばまた雪が降り出すし、正月明けて早々里の中で戦して、面倒な事になるのはやっぱり避けたい」
「そうだね、その方がいいね。多分今ならまだ間に合うし」
 苦笑する弥三郎叔父に軽く笑んで、菊は再度玄関先まで進み行く。
「菊……いつもごめんね、うちの爺様は本当に昔から性格悪くて……」
「それは叔母上の所為じゃないから」
 詫びのつもりか、持たせる手土産を山のように手配させながらも項垂れる香羽に、菊が笑いかける。
「萩生の屋敷には金輪際もう二度と絶対に来るつもりは無いが、叔母上はいつでも葛木の家に遊びに来てくれていいから」
「菊ぅ」
 そして最後に弥平に目を向ける。
「……」
 だが特に何を言うでもなく、それだけだった。
 単に顔を向けた先にたまたま弥平が居ただけだったのだろう。菊の視線と歩みは何か言いたげな弥平をするりと通り抜け、玄関先の土間で藤千代を抱き上げたままだった小太郎を向き、傍まで行ってそこで止まる。
 そして立ち尽くすままの萩生家の皆を振り返った。
「帰り道の事なら心配ご無用、父上は頼もしい迎えを寄越してくれた」
 何が起こるのかと菊を凝視する小太郎に菊は寄り添って立ち、その肩に手の平を這わせる。
 幼い頃はただただ細く小さかった身体も、すっかり大きく育って厚みも付いた。渡された沢山の土産の類を竹で編んだ荷籠で背負い、幼子とは言え藤千代を右腕一本だけで抱き上げて立つ姿は幼馴染の贔屓目を抜いてもしっかり凛々しく、若者らしく細身ではあったが逞しい。
 これは絶対良くない事が起こると経験則で身を固くした小太郎を余所に、菊は満面の笑みで自慢気に宣言した。

「この小太郎が我々を運ぶ」
「えっ」
「担いで帰る」
「えっ無理」
「こう見えて力もあるし健脚だから屋敷まであっという間」
「嘘だろ無理だよムリムリムリムリ」

 間髪入れない小太郎本人からの否定に、場にしんと沈黙が満ちる。
 その隙にと多聞が更にお土産の大根を小太郎の背負う荷籠に詰めたので、小太郎の双肩には更に荷重がかかり、小太郎は真顔で絶対無理だ、ともう一言追加した。
「お前ガタガタうるさいぞ! 根性見せろ情けない!」
「そうは言っても途中で絶対落とす事になるけど良いんですか良くないだろ」
「そこは見栄張れよ菊くらい軽いって言え!」
「今自分が何着てんの分かってるか?! しかも俺、藤様も抱っこしてんですけど?!」
 菊が今着用している上質な絹地と絹糸をふんだんに使った豪華な打掛は、その厚みや長さも相俟ってそれなりに重い。そして菊は鍛えていた分、その辺の同年代の娘よりも正直なところ数段重い。
 自分を過信しない小太郎が真顔で実力を申請するのを見、その正直さに怒り出した菊を見、敗北に項垂れていたはずの元吉翁が元気に復活して立ち上がった。
「よぉおおおおおし仕方ないの! じゃあ弥平! お前が菊を担いで葛木の屋敷まで運んでやれ!」
 予期せぬ処から飛び火した弥平が、目を剥いて狼狽える。
「お、俺が? 菊を?」
「そうじゃ! そんでもってあっちで暫くお詫びも兼ねて泊めてもらってこい!」
 何故詫びで泊めねばならんのだと、半眼の菊が獣のような声で低く呟いたが、元吉翁の耳に都合の悪い事は届かない。荷物持ちすら辛いのではと思える痩身の孫の背をバシバシ叩き、さあ早く菊を抱き上げろと催促する。
 だが当の弥平は、じゃあとりあえずと言った態で菊に手を伸ばしたものの、菊に眼光鋭く睨み付けられてその場に固まってしまった。
「……無理じゃな? ああ、やっぱり無理だわな。こんな雪道をこんな小綺麗な晴れ着を着たまま連れ帰るなど、誰でも無理なのだ。それは仕方のない事よ」
 悪知恵含みにニヤリと笑んだ元吉翁の眼に、弥三郎は呆れ半分の深いため息をつき、香羽は怒りで眉を逆立てた。だが老爺の舌は止まらない。
「ならばやはり雪が解けきるまで萩生の屋敷に居ればよい。そこの小僧も泊めてやろう、仕事は与えてやるから十分尽くせ」
「あのね義父上、兄上が攻めて来るんですよ?」
「それはそれで何とかするし」
「父様いい加減にして、あたしたちもう庇わないからね」
 実娘の香羽が忠告するが、それに対する返事は舌打ちまじりの罵詈だった。
「お前のような親不孝者に庇ってもらわんでも結構じゃ! 儂だってうちに菊のような息子か孫が居ったら、こんなにグダグダ言わんわい。そもそも――」
 その言葉に、弥平以外の子を成せなかった香羽の顔色が一気に変わり、棒を飲んだ様に立ち尽くす。その様子を見た菊の機嫌が更に一層悪くなるが、舌鋒鋭いはずの元吉翁がそれ以上の言葉を言う事は無かった。

「――御見苦しい所を! 失礼しました!」
 小太郎が、舌戦に割って入ってそれ以上を言わせなかったからだ。
「長居をする訳にもいかないので、そろそろお暇致します」
 ひときわ強く、わざと大きな声を張り上げて元吉翁の口から溢れる毒を止めると、傍に立っていた菊を左腕一本で軽々とすくって抱き上げる。
 左右の腕に姉弟をそれぞれ抱き上げ、背に大量の土産を背負い、それでも平然としながら小太郎は続けた。
「御頭様から連れて帰れと言われておりました。無理でも俺がやらねばならぬ事でした」
 元吉翁、香羽、弥三郎、弥平、そして多聞たちを順番にしっかり見渡し、深々と頭を下げて礼を示し、そして小太郎は毅然として顔を上げた。
「これも修行と思って担いで帰ります。実際に持ち上げてみたら、そこまで重くなかったですし」
 抱き上げ、顔が近くなった菊と目を合わせて、小太郎は大きく笑う。

「菊くらい、軽いものです」






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