雪中二花取
(せっちゅうにかどり) (3)



「だぁーからぁー、菊殿はうちの子になるんじゃろ? 昨夜そう言ったじゃろ儂そう聞いたぞ」
「ならないし絶対言ってない。大じじ様よ、とうとうボケたか?」
「なんと可愛げの無い……そんなんでは嫁の貰い手が無いぞ、ウチ以外にな!」
「そんな事は断じて無い」
「ねー姉上見てー! お手したー!」
「おうおうそうか藤千代殿は可愛いのう、なーもう二人ともうちの子になればいいんじゃないかの」
「ならないし、あと大じじ様が隠した履物も出しといてもらわないと困る」
「だってそんなの出しといたら帰っちゃうじゃろ」
「だったら下駄でもなんでも借りて帰るだけだから」

 正月から何度繰り返したか分からないやり取りを、菊と爺様が続けている。


 雪に帰り道を封じられ、軽い気持ちで遊びに行った親戚の家に菊と藤千代の姉弟が閉じ込められて早四日経つ。
 晴れ着を見せれば親戚の皆も喜ぶだろうと、菊が珍しく仏心を出したのが仇
(あだ)となった。叔母と弟と共に萩生(はぎう)の家へ行き、やれ珍しい菓子だ、やれ高い肴だ、西国の新しい酒だと至れり尽くせりの歓待を受けるうち、気が付けば外は猛吹雪で。
 ごめんね、早く帰してあげれば良かったと悔やむ叔母を他所に、雪が止むまで泊まっていけばいいとほくそ笑む萩生家当主の顔は、やけに満足気で――……
 急遽泊まる事になったはずなのに、菊と藤千代二人分の着替えや寝泊まり部屋の用意が充分に成されていたり、もう飽きたおうちに帰ると藤千代がぐずり出したら何処からか子犬を連れてきたりと、老いてなお萩生当主の奸智は健在であると知らしめていた。


「……っと、弥三郎叔父上、帳簿のここの見方を教えて欲しい」
 上質な畳の敷き詰められた立派な座敷に、これまた立派な炬燵と大きな火鉢とを贅沢に据え、過剰なほど暖かく整えられた部屋で、幼い弟が萩生家で飼っている子犬とじゃれているのを横目で見ながら、菊はたくさんの帳簿と向き合っていた。
 艶やかな打掛や豪華な小袖で美しく着飾って萩生家を訪れたはずだったが、元旦から既に暫し経つからか、叔母である香羽が若い時分に着ていた――という名目で可愛い姪のために新たに縫い上げた、娘らしく華やかな色合いの小袖と綿入り羽織を身に纏い、帳簿の文字や数字を辿っている。
「うーん……、まあ、うーんそうだね、菊が手伝ってくれて助かるからいいかな……。正月から済まないねえ」
「いや、私も筆方
(事務)を色々学べて興味深い」
「えっ何それ、うちの仕事に興味あるんか? うち継いじゃうか? ん?」
「大じじ様は黙っててくれ」
「義父上、仕事終わってからだったら菊に構ってもいいですから」

 一ヶ谷の総蔵管理の帳簿を炬燵周りに幾冊も積み広げ、ほっそりとした綺麗な指で文字を追っているのは、菊の叔父である弥三郎だ。かれこれ二十年近く前、萩生元吉の策略によって捉
(とら)われた身であるが、何やかや萩生家にすっかり馴染んで久しい。
「一年分の試算を早いうちに出しときたかったんだ。ほんとは年末前までに終わらせておきたかったんだけど、大雪の所為で通いの使用人たちがなかなか集まらないし、弥平と二人じゃ大変だったんだよ」
 栗色のなめらかな長髪を肩口へさらりと流し、穏やかな笑みを浮かべた叔父の横顔は、年経た今でも性別行方不明の美しさだ。菊の好みからは外れているので菊自身は特に何とも思わないが、未だに里の女衆からは絶大な人気があるし、何なら男衆からの受けもやたら良い。
 葛木本家との密な繋がりを欲していたからだけではなく、弥三郎自身を気に入っていたからこそ、元吉翁は一連を企てたともまことしやかに囁かれている程だ。
「ああそうじゃ、儂、婿殿に見せたいものがあるんじゃったわぁ。帳簿の事はウチの弥平もよく分かっておるし、ちょっとしばらく二人でやっといてくれんかの」
 元吉翁が言って立ち上がる。えっ今? ときょとんとした婿の腕を取って立たせ、ついでに子犬と一緒にじゃれて畳に転がっていた藤千代を抱き上げた。
 そして、菊達と同じ炬燵に入って同じように帳簿をめくって同じように算盤を弾いていたのに、あまりにも影が薄すぎて殆ど顧みられていなかった内孫の弥平に向けて、かなり強めの視線を送る。
「あとは、若い者同士で、ごゆっくりじゃぞ……!」
 よく分かっていない叔父と子犬に夢中の藤千代を連れて元吉翁が部屋を出て、座敷の襖はするすると閉まっていく。
 後の座敷には乾いた沈黙と、火鉢の中で五徳に乗って湯気を立てる鉄瓶のかすかな音だけが漂っていた。
「な、なんか言ってたな」
「大じじ様は本当にクソな事しか言わんな」
 ようやく口を開いた従兄に返す菊の言葉は、雑としか言いようがない。
 

 弥平は菊の従兄弟連中では一番の年上だが、父に似て流されやすく覇気の無い性格と、父に全く似ていない凡庸な顔付きとで、従兄弟の中でも家格の割に立ち位置が悪い。だが、その影の薄さが幸いしてか、他の従兄と違ってこれと言って菊と不仲になるような事も無く、割と平和な関係ではある。
 ――……ただし、それは菊の眼中に弥平の姿は一切無い、という事でもあった。
「すっ……少し休憩するか、疲れたろ?」
「いや大丈夫、もうそろそろ終わらせたいし、あと少しだし」
 高価そうな炬燵に仲良く向かい合わせで足を入れ、しかし視線は一切絡ませないまま菊が答える。そして炬燵布団の下辺りから出した帳簿をめくり、時折袖口から出した帳面に何事かを書き付ける。算盤を弾き、また他の帳簿と見比べて、後で見せたい部分には栞として短冊状に細く切った紙片を挟み、それを幾度か繰り返していく。――そんな菊を、弥平は向かい側からこっそり見つめた。

「……鉄馬がさ、祝言上げるだろ」
「ああそうらしいな。……まあ相手はうちの侍女なんだがな!」
 鉄馬とは菊と最も仲の悪い従兄だ。九郎の末弟・小六の長男でもある。
 大昔に小太郎を虐めていた事もあり、菊とは正に不倶戴天、犬猿の仲と言っても良い。そうやって長らく菊といがみ合っていた鉄馬だったが、この度めでたく祝言を上げる事に相成ったと菊は年末に聞かされていた。
 当の本人たちから。
「鉄馬め、よりによって私の側仕えに手を出すとは、心の底から命が惜しくないようだ……しかも知らなかったのは私だけだったみたいだし、挙句に小太郎が文の取り持ちをしてやってたみたいだし、どういう事だ!」
 鉄馬の猛烈な攻勢に花嫁が根負けしての身分差嫁入りらしいが、その恋の成就に小太郎が一枚噛んでいたと聞かされた菊は、大層面白くない。
「他人の世話を焼く前に! 自分の事を! どうにかしろ!」
 手にした帳簿を引き裂きかねない勢いの菊に弥平がぴゃっと首をすくめるが、暫くしてぽつりと口を開いた。
「九郎伯父上は、菊を里から出す気は無いって……里の外に嫁がせる気は無いって言ってたんだ。だからてっきり菊は鉄馬に嫁ぐものだと思ってたんだけど」
「それは断じて無い!」
 重ねて言うが、菊と鉄馬は幼い頃から今の今まで大の不仲である。
 だがしかし鉄馬の父親である小六がその縁談を強く望んでいた事と、家柄、続柄、年頃から見て、鉄馬は長らく里内での菊の許嫁候補筆頭であった。――……筆頭だっただけで、具体的な話が進んだ事や進ませた事は一度たりとも無いのだが。
「そうだよな」
 心なしか嬉しそうに弥平が呟く。
「……でもじゃあ、そしたら次は俺の番かな……」
「何が」
 菊の真顔の問いに対し、困ったような、はにかんだような笑顔を頬に浮かべて弥平は続ける。
「皆が色々噂して言ってるのは俺の耳にも入ってるけど、まさかお前、下忍風情と本気でどうこうなるなんて思ってないだろ?」
 自分で言った言葉が面白かったのか、少し肩をすくめて軽く笑う。
「俺ならとりあえずは気にしないでおいてやれるし、お爺様も仰ってたじゃないか、葛木本家から嫁がせるに値する御家格はうちぐらいしか」
「その前に弥平兄者」
 笑んで明るく語り出した従兄を、菊が遮った。
「……さっきから足が私の膝に触ってるが、わざとか?」
 その眼はひどく冷えている。
「あとな、ついでだから今言おうか。――……今度私の風呂を覗いたら、次は殺すぞ」

 とんと帳簿を揃え算盤を重ねて腕に抱き、菊が炬燵から立ち上がった。
「弥平兄者よ、大じじ様が何と言っているかは知らんがな、私はお前に嫁ぐ気なぞ一切無い」
「ち、違ッ、昨夜のは、あれは、お爺様が」
「従妹の風呂を覗きに行けとでもけしかけたか? それなら一昨日の夜這いもどきもその一環か? 泊めてもらっている身と思って今まで問わずにおいていたが……」
 一拍切ってすぐに続ける。
「――その粗末な首が未だ無事なこと、有難く思えよ弥平」
 立ち上がり、見下ろす菊の声音は何よりも冷たい。
「そんな、俺は」
「くどい」
 もはや取り付く島もない。先程叔父たちが出て行った襖
(ふすま)を大きく開け放ち、菊は振り返る事一切無く出て行った。残された弥平は狼狽えて青ざめるばかりだ。

「……この愚か者が」
 途端、菊が出て行った方とは反対側の襖が音も無く開いて、溜息と共に元吉翁だけが姿を現す。
「じゃぁあから一昨日でも昨夜でも、一服盛るなり何なりして無理矢理に手籠
(てご)めてしまえば、如何な菊とてどのようにでも出来たものを! ……この意気地なしめ」
「そんな無理だよ、普通の女ならともかく菊が相手じゃ」
「やらん内から無理もへったくれもあるか! ああ我が孫ながらみっともない、あんな小娘に良い様に言われおって」

 だが、そこで元吉翁の口元が笑みの形に釣り上がった。
「……だからこそ我が家に菊を招き入れたい。あの傲慢さに、儂の跡を継がせてみたい」
 下忍どもの命を指先一つの采配で左右してきた軍師の顔で酷薄に笑い、弥平を見下ろし、元吉翁は更に続けた。
「九郎が娘を後継に据えると言い出した時は、情に目が眩んだ愚か者と嗤いもしたが、こうなってみれば先見の明と言うしかないな。……いや、そう育てたからこその結果かの」
 そして笑う。
「余所には出さんと聞いたが、傀儡の婿と娶
(めあ)わせて、女だてらに藤千代の側役にでも据えるつもりか? だったらうちの孫でも充分と思うんじゃがなあ」
 祖父の言外に滲んだ侮蔑に唇を噛み、弥平が小さく唸る。だが、元吉翁はそんな孫など一切気にしない。
「……お前がもっと使える駒なら、葛木本家に入り込む好機だったに口惜しい事よな」

 翁の口からこぼれた毒で、暖かだった筈の部屋が重く暗く、冷えていく。






BACK│ INDEX │NEXT