なつあさぎり(3) 悩んだ挙句に菜津が宴に戻ってみると、そこに九郎達の姿は無かった。長旅で疲れたからと、食べ終わってすぐに席を立ったらしい。 「お菜津さまも、今日はもう休みなさいと九郎さまが」 純粋な気遣いを見せてシエが言う。 「……つもる話もあるでしょうけど、また明日にでもお話させてもらえばいいから」 九郎が席を立つならと側役である高次もすぐ座を辞し、それならばと集まっていた上忍衆たちも三々五々帰って行ったとシエから聞かされ、安堵したような取り返しのつかない事をしてしまったような、複雑な思いが菜津の胸に去来する。 「単にお疲れなだけだから、心配しなくても大丈夫よ」 夫に放っておかれた形の菜津を気遣ったのだろう。シエの細い優しい手が、菜津の背をそっとさすった。 「ね?」 この優しい義母は、菜津が今まで受けて来た仕打ちをきっと知らない。だから菜津が男を恐れ、九郎すら怖がっている事も分からないだろう。 胸の内を全部打ち明けてしまったら、このひとはどんな顔をするだろうか。 同じ女として憐れんでくれるだろうか。それとも、こんな女を娶(めど)った九郎をこそ憐れむだろうか。 「……はい」 色んな感情を胸の裡(うち)に秘め隠し、すっかり板についてきた作り笑いで菜津は頷いた。 葛木家で菜津に与えられた部屋は、屋敷の奥まった箇所に位置し、夫である九郎の部屋から至極近い所にある。すぐ近くに九郎――男が寝ていると思うと、菜津としては複雑な気持ちでしかない。 部屋に来たらどうしようと心配をし、すぐにはたと気がついた。 九郎は菜津をあの地獄から救い出してくれた、云わば恩人である。その恩人に対し、自分は何を思い何をしているのだろうか。いや、何をするべきなのだろう。……好かれる努力でもするべきだろうか。 皆が寝静まった静寂の中、延べられた夜具(やぐ)に形ばかり身を横たえて、菜津はため息をついた。 「……疲れちゃった」 今晩は風のない、静かな夜だ。先程までの宴の喧騒が嘘のような、穏やかな夜だ。 しっかり閉められた障子戸すらも透かして差し込む月の光から逃れるように、くるりと菜津は寝返りを打つ。 「本当に……疲れた……」 もうずっと長い事、穏やかな安眠とは程遠い。寝付きは浅く、寝てもすぐに目が覚めて、眠れたとしても悪夢で飛び起きる。毎日それの繰り返しだ。 そして今日は、九郎がすぐ近くにいる。 恩人だ。優しい人なのだろう。 怖い人ではない。でも恐ろしい。 どうしよう。 眠りたい。 眠れない。 寝ない方がいい。 寝てしまいたい。 忘れたい。 忘れてしまいたい。 すべて。 ああ、この世界の何もかも、いっそ全て無くなってしまえば。 「………」 ひとすじ、涙が頬を伝う。 あの屋敷に居た頃、菜津の身の回りは何でも高価なもので溢(あふ)れ返っていた。金糸銀糸が目に鮮やかな緋の打掛(うちかけ)や、細やかな技法で色とりどりの極彩に染め抜かれた小袖(こそで)、螺鈿細工の施された鏡や高価な化粧道具の一式、京の姫君が使うような華やかな紅などが揃えられ、菜津はそれらで身を飾る事を日々指示されていた。 苛(さいな)まれる為に身を飾り、涙で化粧(けわい)し、蹂躪(じゅうりん)される為だけに部屋で待つ。欲望にまみれた指と舌とで肌の全てを弄(まさぐ)られ、心と身体の深い所を穢される。毎夜毎晩のその行為――それはあっという間に昼夜を問わずになってしまったが――を、菜津はただ耐えるしかなかった。年頃の娘ならば喜ぶだろう煌びやかな着物も紅も、あの男の為のものだと思うと手に取る事すら苦痛だった。 時と共に涙も枯れ果て、それでも唇を噛み締めて耐える菜津を、かの屋敷の女たちは売女だの淫売だのと酷く罵った。共に侍女として同じ部屋で寝起きしていたのに、見初められた途端に姫君のように華やいで着飾らされた菜津に対する、妬み嫉(そね)みが大きかった。 廊下を歩けば、聞こえるように陰口を言われた。 あの男に見つからぬように夜ごと寝る部屋を変えようと試みた事もあったが、主に対する忠義を装った密告に遭い、尚一層、籠の鳥のように囲い込まれた。面と向かえば褒めそやし、陰に回れば貶める。菜津の周囲はそんな人間ばかりで、友と呼べる者はおろか味方すらいない。 風情を凝らした屋敷の造りも、美しい細工を誇る調度も全て、菜津にとっては監獄の檻でしかなかった。 その檻の隙間から、涎を垂らした獣がやって来る。夜の暗闇から、日の陰から、昏(くら)く濁ったあらゆる場所から、その獣は菜津を喰らいにやって来る。 大きな手が伸ばされる。 逃げる菜津の腕を掴み腰を掴み、引き倒して喉元へとその獣は牙を立てる。熱い舌が頬を這う。恐怖で言葉も無い菜津を見下ろし、人の皮を被った獣は毎夜毎晩毎日毎朝、獲物を前に口元を醜く歪めて笑み崩れる。 何度腕を振りほどいて逃げたとしても、気が付けばその身体に抱きすくめられている。やめて離してと叫ぶ声は音にならない。助けて助けてと泣きながら繰り返し、喉を嗄(か)らす叫びは誰の耳にも届かない。世界で一人菜津だけが、黒く深い汚泥の中に捉われている。 「……い」 太い指が暗闇から菜津を追う。 逃げようともがく菜津の髪を鷲掴み、あの時の青い月光と冷たい畳の元へと引き摺っていく。 「――……つ、」 痕が付くほど強く腕を掴まれる。逃げられない。 着物の裾を男の手が乱暴に割り開き、両の足首を掴まれて、そのまま脚を大きく開かれ――…… 「――菜津、起きろ!」 その声で目が覚めた。覚めた筈だが、菜津の意識は夢と現(うつつ)に惑ったままだ。肩を掴んで揺する大きな手に恐慌を来し、惑い、喘いで叫ぶ。 「いや……っ、嫌ぁ、嫌あッ!」 「菜津」 「やめ……、離して! 嫌! 触らないで!」 腕を無茶苦茶に振り回し、息すら乱れてままならない態で寝具の上を逃げようともがく。 「嫌、やめて、もういや」 「……菜津」 肩を掴む男の胸をひたすら叩き、触れたもの全てを泣きながら引っ掻き、刹那の間暴れて――……その男が誰なのかを、菜津の意識はようやく認識した。九郎だ。 声にならない声で、口の動きだけで呆然と、名を呟く。 「そうだ」 音の無い声に返す応えは簡潔だ。その硬い響きで、汚泥のような夢から菜津はようやく抜け出した。 「あ、あ……わた、わたし」 「目が覚めたか」 九郎の手は未だ菜津の肩を離さない。大きく暖かな――……しかし間違いなく男を感じさせる手を知覚し、菜津の肌がぞくりと粟立つ。 「ひ」 嫌悪が先立ち、思わず身を引く。その動きを見、九郎がそっと手を離す。遠ざかった温もりを感じ、菜津はそこで我に返った。 何故九郎がここにいるのか。――何をしに来たのか。 「……ッ」 一瞬の間にあらゆる思考が交差した。 だが、菜津が再度狼狽えて恐慌を来すよりも早く、菜津の目をしっかりと見据えて九郎がぼそりと呟いた。 「うなされていたぞ」 そのまま嫌な汗が伝う菜津の額を前髪ごと二度三度と乱雑に撫でる。子犬を扱うような手付きのその腕には、明らかな爪痕がひどくくっきりと幾筋か、鮮やかに血を滲ませて付いていた。 その原因に思い至り、菜津の頭から一気に血の気が引く。 「わ、私、あの……っ」 「気にするな」 言葉を遮り、九郎が立ち上がる。 「……さっき散々呑み食いしたせいで、珍しく夜中に目が覚めてな」 菜津を見下ろして告げた言葉は、相変わらず抑揚には乏しかったがいくらか軽い。 立ち上がった九郎は菜津から離れ、そのまま部屋の区切りの障子戸をからりと開けて廊下の縁側に腰を下ろした。大きく開かれた障子から涼やかな風が入り、夜明け前の月明かりが薄青く差し込み、呆然と座り込んだままの菜津と部屋とを緩く照らす。 九郎が続ける。 「厠(かわや)へ行って出すもの出してすっきりして、じゃあ呑み直しでもするかと思った矢先に声がした」 月明かりの淡い光に照らされながら、肩越しに菜津を振り返る。 「……助けて、と」 だから来たのだと、何でもない事のように淡々と告げる九郎からは、他意や害意は感じられない。菜津が傷つけた腕の傷をさりげなく袖の奥に隠しながらの言葉は、乾いてはいたが確かな温もりを含んでいる。 「――……はい」 滲んだ涙が零れそうになるのを何とか耐えて、菜津は小さく頷く。 誰にも聞き入れられなかった悲痛な叫びを、この人だけは聞いてくれたのだと、素直に思えた。 「はい……」 小さく返した語尾が、微かに震える。 「菜津、お前は毎日ちゃんと食っているのか?」 降って来た唐突な問いに、菜津は目を瞬いた。 「飯時に見ていて思ったがな、皆が食っている時はお前もきちんと座ってきちんと食え。働き者なのは結構だが、折角飯の美味い所に来たんだから、お前はもっとしっかり食うべきだ」 細身の見かけによらず、九郎は存外に健啖家(けんたんか)である。食べる事にすら興味の無さそうな顔をしているのにと内心こっそり思った菜津を他所に、淡々とした抑揚の無い口ぶりで、しかし九郎は更に続ける。 「美味い物をたくさん食え。良い酒をうんと飲め。食って飲んで、いつも腹から笑っていれば、あっという間に新しい血が出来て新しい肉が出来る。……怪我は何でも、そうやって治す」 菜津の目をしっかり見据え、至極真面目にそう言った。 「すぐに治る」 言葉は少ない。飾り気も無い。 しかし簡潔なその言葉は、だからこそ菜津の胸にすとんと落ちた。 じんわりと暖かな何かが静かに染み渡るような、そんな気がした。 「一ヶ谷はな、山と水の他は何も無いが良い所だぞ」 菜津から離れて腰を下ろしていた縁側から、九郎が静かに立ち上がる。 「お前に一人、側仕(そばづか)えを付けてやろうと思っていたのが昨夜ようやく整った。一ヶ谷生まれの一ヶ谷育ちでこの辺りの事にはめっぽう詳しいから、朝になったら会ってみろ」 とは言ってももう朝だが、と付け加えた九郎の目は、どこか悪戯な色を浮かべてはいたが柔らかく笑んでいる。普段滅多に笑わない分、今の九郎はひどく優しく穏やかに見えた。 薄く儚く白み始めた空の淡さとその笑みに、菜津は束の間見とれて言葉を失う。 そんな菜津をその場に残し、やんわりと漂い始めた朝霧の中を九郎はするりと潜り抜けて去って行った。薄白いような霧の紗(しゃ)の中に、あっという間に背中が消える。 去って行くその背中を目で追いながら、菜津はゆっくりと、先程告げられた言葉を反芻する。 「怪我はなんでも、そうやって、治す……」 口にして声に出すと、その言葉は尚一層温かみを増した気がした。 もうじきに夜が明ける。山の稜線から日の光が大きくこぼれる頃、皆が一斉に起き出すだろう。 菜津のせいで寝損ねた九郎は、今からもう一度寝るのだろうか。それとも、朝食には間に合うようにちゃんと起きて来るだろうか。 もしそうなら、今朝は隣に座ってみよう。 隣が無理でも、出来るだけ近くに。 そうして一緒に食事をしてみようと、菜津は思った。負ってしまったこの怪我が治りきったら、ただ食べるだけでなく笑いながら、皆で楽しく食事ができるようになるかもしれない。 それは、そんなに遠くない未来のような気がした。 庭に漂う朝の霧が、風にゆらりふわりと揺れている。 |