なつあさぎり(2)



 相変わらず菜津の眠りはひどく浅く、朝の光を待ちわびながら毎晩何とかやり過ごすしかなかったが、それでも日々は平穏に過ぎていく。
 祝言の日に顔をあわせたきり、なかなか会話の出来なかった義妹たち――九郎の弟二人の妻である――とそれなりの交流をしてみたり、姑であるシエの手伝いで豆味噌を作ったり、菜津が幼い頃を過ごした郷里とは違う色と味わいのそれに驚いてみたり……。一ヶ谷の里での新鮮な日々は菜津の心身を緩やかに、しかし確実に癒していく。
 九郎が一ヶ谷の里へ久々に帰郷したのは、そんなある日の事だった。

 里の子供達が一目散に山を下って行く。御頭さまの姿が見えたと『目』の者――里の入口に置いておく見張り番を一ヶ谷ではこう呼ぶ――が告げに来たのを聞いたらしい。
 大人も子供も歓声を上げ、頭目の帰郷を出迎えるべく里中が一斉に騒がしくなった。無論、菜津たちの所にも知らせが来る。
「あらまあ、久し振りだこと」
 九郎と共に実子である高次(たかつぐ)も帰郷したとの報を聞き、シエが頬をほころばせた。
「長旅からのお帰りですからねえ、ちょっと包丁頭
(ほうちょうがしら)に言って、今晩の夕餉は精のつくものにしてもらいましょうか。誰か若い衆にお願いして、雉でも獲ってきてもらうとか」
 ねえ、と菜津に賛同を求めるその笑顔は明るい。シエと九郎に血縁は無いが、それでも実の親子と変わりなく同じようなものだ。息子たちの帰りを喜ぶ姿は微笑ましい。だが、菜津は素直には喜べない。
 一番隊全員の帰郷はまだだが、頭目と側役の二人だけが一旦戻って来たらしいとのシエの声も、菜津の耳を素通りしていくばかりだ。
 九郎が帰って来た。――それはつまり、夫
(おとこ)が妻(おんな)のもとに来たという事だ。
 男が戻って来た。来てしまった。……そう思い、菜津は身を強張らせる。
「……お菜津さま?」
「あ、ああ、そう……そうですね」
 顔色が悪いようだけど、と気遣わしげなシエの声も、菜津の耳にはどこか遠い。
 屋敷の外から歓声が徐々に近づいてくる。出迎えた里人たちを行列のように引き連れた九郎が、こちらへ向かっているのだろう。
 葛木家で働く者達も、屋敷の主の帰還を言祝(ことほ)ぐために一斉に門へ向かう。さあとシエが菜津の手を取った。義母に手を引かれ、皆に背を押され、流されるように菜津も門へ連れられていく。
 出遅れた形で門へ向かった菜津の目に、夕暮れの日の光を背負った九郎が、厩番
(うまやばん)へ愛馬の手綱を渡している姿で映り込む。
「菜津か、今帰ったぞ」
 目元に浮かんだ微かな笑みと共に告げられた言葉に対し、菜津はおかえりなさいの声を何とか絞り出す。
 ――……きちんと笑えていたかは、分からない。


 御頭様が戻られたんならと腕によりをかけた包丁頭のおかげで、獲れたての雉肉の炙り、川魚の焼き物、歯応えを残したごぼうの煮付け、焼き豆腐の田楽、ねぎの酢味噌和え、刻んだ青菜の塩漬けを麦飯にざっくりと混ぜ込んだ菜っぱ飯、里芋と大根などの具だくさんの味噌汁と、食膳には九郎達の好物ばかりが乗せられ、そこに酒も供せられ、その日の夕餉は暖かな湯気と共に大層賑やかなものになった。
 一番隊全員での帰郷では無い。九郎も高次も、まだ外に仕事を残してきているらしい。
 それでも久方振りの故郷である。二人とも相変わらず言葉は少なかったが、羽根伸ばし骨休めでよく食べ、そしてよく呑んだ。
 里に居た他の上忍衆も、めいめい酒や肴やお菜を持ち寄って葛木家に集まり、屋敷の中が一気に宴の様相をかもし出す。女たちは甲斐甲斐しく動き回り、強面の爺や男どもがそれに被せるように笑い合う。
「――お菜津さま、あなたもこちらに来て座ったら」
 よく食べる息子たちの近くに座り、おひつ番としてしゃもじを握っていたシエが菜津に笑いかけた。
「せっかく九郎さまが帰って来なすったんですもの、何もあなたがそんなに働かなくてもいいのよ。さあさあ、こちら……」
「いえ、私は」
 シエの言葉を遮り、あいまいな作り笑いで菜津が首を振る。九郎の視線が時折自分に向けられている事には気付いていたが、宴が始まって以降、気が付いていない振りをずっと通していた。
 きっとあそこに座れば、九郎を始めとした上忍衆――妙齢の男達に酌をし、愛想を振りまかねばならなくなる。酔った男達の大きな声に囲まれるなど、想像するだに恐ろしい。
 頭目の新妻に、頭目本人の前で酌を強要してくる無頼の輩はいないだろうが、人懐っこさを笠に着て体を触ってくるような爺様はいるかもしれない。
 ……嫌な事を考え過ぎてぐるぐると目が回る。こんな状況で上手く笑える自信などまったく無い。菜津は、再度首を振った。
「大丈夫です、……大丈夫」
 何が大丈夫なのだろう。自分で言った言葉に自分で問いかけ、強張った作り笑いを顔に張り付けて菜津は身を翻す。どうしたんだ、何かあったのか、久し振りで照れているんじゃないか等々の声が背後から聞こえて来るが、それらも全て気が付かない振りをした。

 祝言の晩、九郎は菜津を抱かなかった。何も、無かった。
 自分には女としての魅力が無いのかと思ったりもしたが、それよりも何よりも、何事も無いのだと言う安堵の方が強く勝
(まさ)った。同じ部屋で布団を並べて床(とこ)に就き、灯りを消してそれから朝が来るまでの長い間、いつ九郎の気が変わるかと菜津は一睡も出来なかったが、それでも九郎は朝まで動かなかった。空が白み始め、逃げるように早々に菜津が床を抜け出た時も、微動だにせずぐっすりと眠っているようだった。
 枕を並べて寝たのは今の所それが最初で最後で、それ以降九郎が菜津の寝所を訪れる事はなく、また、菜津を自分の寝所へ呼ぶ事も無い。夫婦と言っても建前だけの話じゃないかと、複雑な気持ちを持たない訳でも無いが、それ以上に菜津にとっては何も無い事が本当に有難かった。
 ――では、今晩は?
 家に置かれて養われている以上、夫の求めに妻が応じる事は至極当然だ。夫婦であるのだからそれが普通であるとさえ言える。宴の喧騒を背に、半ば逃げるように廊下を進みながら菜津は思う。
 しかし、頭ではそう理解していても怖いのだ。
「……っ」
 人が居ない方へ居ない方へと広い屋敷の中を歩き進み、息が切れる頃になってようやく菜津は足を止める。
 ――九郎は妻としての務めを果たせない女を、怯
(おび)えをもって自分に接する女を、一体いつまでこの屋敷に置いてくれるだろうか。もしそうなってしまったら、行く宛の無い身で何処に行けばいいのだろう。
 少しでも嫌われないよう、無理をしてでもあの場所に留まり、愛想笑いをしておくべきだったろうか。少しでも長くこの家にいる為に、九郎の隣に坐して酌をし、周りに笑顔を振りまいておくべきだったろうか。
 どうするべきだったのだろう。どうしたらよかったのだろう。そもそも何故九郎は祝言の日に何も手出しして来なかったのだろうか。最初から自分は嫌われていたのではないだろうか。嫌われていないにしても、何か理由はあったはずだ。
 怖い。行く先が見えない事が怖い。過去の辛かった出来事に絡む総てが怖い。何をすれば良かったのか。どうするのが良かったのか。分からない事が怖い。震えが止まらない。怖い。どうしたら。
「どうしたらいいの……?!」
 暗い廊下にたった独りうずくまる菜津を他所に、遠くで宴の喧騒は未だ続いている。







BACK│ INDEX │NEXT