なつあさぎり(1)



 まだかすかな朝の光の中で思うのは、夜の変わらぬ長さと闇の暗さだ。
風で障子や襖(ふすま)が鳴る音に怯
(おび)えては目が覚め、ぎしりと廊下の板間が軋(きし)む音にさえ怯えて目が覚める。暗闇の中をいつあの男が現れるかと思うと、それだけで眠気も安眠も霧散する。
 ――遠く離れた、ここ一ヶ谷の里に於
いてでも。
「……やっと朝になった」
 ごく薄っすらと明るさを映し始めた障子を見、眠れぬまま横たえていた身体を起こして、菜津がかすれた喉で小さく呟く。
 しかしそうやって朝日が昇り始めていても、山々に囲まれたこの里の地に日の光が明るく差し込むまでには、まだ暫く時間がかかる。
「暗い」
 厚着に思える程きっちり着込んだ寝間着の袷
(あわせ)を更に掻き寄せ、消え入りそうな呟きを漏らす菜津の声を拾う者は誰もいない。
「怖い」
 山の稜線が白み始めた程度の光では、部屋の中はまだ暗い。ここは深い山の中だ、朝霧が深く立ち込め、朝と言えども薄暗い。
 早く明るくなって欲しい。ごく最近まで、檻
(おり)で飼う様に囚われていたあの屋敷では、たとえ日が昇っても安心など何も出来なかった。だがここでは違う。
 早く日の光が見たい。明るさに包まれたい。震えないで済むだけの温かさが欲しい。――それだけでいい。
「……怖い」
 己の肩を抱きながら繰り返される声は、誰の耳に届くでもなく、まだ暗い部屋の床へと落ちていくばかりだ。


 菜津がこの一ヶ谷の里、葛木家へ嫁いで来て一月ほどが経った。
 一ヶ谷の里は葛木家率いる忍軍一ヶ谷衆の本拠地、根城であると道中で聞かされ、訳も分からぬまま恐々とした気持ちで里に足を踏み入れた菜津だったが、自分でも存外にと思う程度にはこの山里にも馴染んできた。
 頭目の正妻として屋敷の奥まった箇所にある菜津の部屋にも、どこかで遊んでいる子供達の声が風に乗って届く。人々が話す声、作業の物音、馬のいななき、何かしらの賑やかさがここにはある。人が多く居てもどこかしんと静かなあの屋敷とは違い、ここには生きるための活気がある。何よりも、閉じ込められていたあの頃とは違い、今の菜津は散歩でも何でもどこへでも自由に動きまわる事が出来た。

「お方さま」
「若奥様」
「お菜津さま」
 鄙
(ひな)の山里で娯楽や刺激に飢えているせいか、みな概ね菜津に優しい。
 日の光の中を屋敷から出てみると、里人や子供達から笑顔を向けられる。最初の頃は随分と遠巻きにされていたが、『若き頭目が迎えた美しい妻』という肩書は何とも絶大で、大抵の者からは好意的に見て貰えているらしい。行く先々で声を掛けられ頭を下げられ、葛木の親戚の子供たちがちょこちょこと走り寄って来ては得意顔でお供をしてくれ、そして屋敷に戻れば、家族として菜津を迎え入れてくれた人々が笑顔を向けてくれる。
 嬉しかった。
 今までの辛い日々で冷たく凍えていた心が、ゆっくりと溶かされていくようだった。
 忍の里らしく、血生臭さが時折鼻先を通り過ぎていく事は何度かあったが、その程度、あの屋敷での辛かった出来事とは比べようも無い。
 こんなにも自分が笑える事を、久々に思い出した心持ちだった。

 ――だが、それは日の光が差している間だけだ。
 日が落ちれば、菜津は途端に過去の恐怖に囚われる。

 夜は長い。
 日の光の無い時間はこんなにも長いものだったろうかと、しんと静かな暗闇の寝室で、柔らかいが冷たい布団の上で、菜津は独りきりの身を震わせる。
 この里にあの男が来る事は決して無いだろう。夜の暗闇の中から、わざと下卑た足音を響かせて菜津の部屋を訪れる事など、もう二度と無い筈だ。
 部屋に向かってやってくる足音に怯え、身を硬くして震える菜津の表情を、か弱く愛らしいことよとあの男は笑み崩れながらそう評した。わざとそうやって怯えて見せて、男を煽
(あお)っているのだろうと楽しげに言った事すらある。
 育ての親の出世の道具として、生贄のように男に差し出された身である菜津にとって、逃げ帰ることが出来る家も無ければ、庇
(かば)いだてをしてくれる者も無かった。嫌ですやめてと必死に抵抗してみても、その涙すら下卑た悦びの一端にされてしまう。
 泣いて泣いてただひたすらに泣き続け、嫌だ嫌だと頭
(かぶり)を振り続けていれば、何ともつまらない女だと早々に飽いてくれるのではと期待した事もあった。抱いた所で面白味のない女だと、泣いてばかりで興が醒めると思ってくれないだろうかと願ってもみた。
 だが実際はどうだ。その男は泣き喚くばかりの菜津に期待通り辟易しつつも、あろう事か夜盗上がりの怪しげな集団に働きかけ、大層怪しげな薬を酒に混ぜ込み偽って菜津に盛り――……結果、よりいっそう嗜虐的な愉しみ方をもってして、菜津は身も心も苛まれた。
「……っ」
 男は来ないと分かっていても、夜の暗闇は菜津にとって何よりも恐ろしい。思い出したがゆえに背筋を走った怖気に身を激しく震わせて、叫び声が漏れないようにきつく唇を噛み締める。
 日中は偽り無く笑う事が出来たが、毎夜やって来る宵闇は未だ怖い。部屋の片隅の暗闇が怖い。その暗がりから、あの晩のように今にも男の手が伸びてきそうで身が震
(ふる)う程恐ろしい。
だが、夜の暗闇を明るく照らしてくれるはずの月の光も同様に恐ろしい。あの青い光に照らされる度、あの夜の絶望と恐怖とを強く深く思い出す。
「もう嫌……」
 嫁入りという形であるとは言え、あの男の指から遠く離れたこの里へ逃げられた事は、それ自体が代えがたい僥倖(ぎょうこう)というものだろう。それ以上を望むなどは願い過ぎなのかもしれない。だがそれでも、菜津の口からは力無い嗚咽が漏れる。
 安らかに眠れたのは、一体いつが最後だったろうか。悪夢にうなされず朝まで目が覚めなかったのは、月の光を美しいと思えたのは、一体いつが最後だっただろう。
 夜具に身を横たえ、力無く二度三度と目を瞬き、そして菜津は早く朝が来てくれることを祈りながらゆっくりと目蓋を閉じた。
 どうせ風の音でも目が覚める。いっそ眠れなくてももう構わない。どうか一刻も早く日が昇り――この恐怖から、解放されますように。

 閉じた目蓋裏に浮ぶのは、あの時に神社で見た、かの人の笑顔だった。
 この一月、殆ど顔を合わせていない『夫』。差し出された暖かな手。細身の背中。あまり喋らないがよく通る声。ちっとも屋敷に帰ってこないが、その姿は不思議と鮮やかに思い出せる。
 そうだ、無理強いをさせられそうになっていた時、この人が助けてくれた事があった。
「……九郎、さま……」
 どうしても会いたい訳では無い。この男の為に花嫁衣裳を身にまといはしたが、夫婦と言っても文字通りの名ばかりで実感など何もない。
 しかし九郎も『男』だ。あれと同じ生き物なのだ。無愛想でも優しい人なのだろう事は分かっているが、同じ男だと思うとやはり恐ろしい。
 ――……だが、それでも。

 差し出された手の、あの温もりに縋
(すが)りたいと思ってしまう自分の浅ましさを恥じながら、菜津の意識は束の間の浅い眠りへと落ちて行った。


 





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