なつあさぎり(4)



 結論として案の定と言うべきか、九郎はその日、昼過ぎまで起きて来なかった。
 部屋に起こしに行くべきか、それより寝かせてあげるべきかどうしようかと菜津がそわそわとしている内に邸内が騒がしくなり、シエに呼ばれ、気が付いた時にはいつの間にか起きて支度を終えていた九郎の出立)を見送っていた。

 隣り合って一緒に食事をしたのはそれから随分と経ってからだ。心配していたような事は何も無く、その時はまだぎこちなかったが、菜津は少しずつ少しずつ九郎との距離を埋めてゆき、そうしていつしか、本当の夫婦になった。
 その間、騙されて攫われたり怖い目に遭ったりと色々があったが、昔の事も含め、今では時折夢に見る程度の遠い出来事へと変わっていった。その悪夢も、九郎に触れながら共に眠るようになってからは殆ど見ない。
 だが、仕事で留守がちの九郎が家を空けている間、時折揺り返しのように深夜悪夢にうなされる事がある。そんな時はお守り代わりに九郎の着物を抱いて寝る。
 一番最初に会った時に借りて以来、ずっと返しそびれていた上着の羽織を夜具にかけて寝てみたら、随分と夢見が良かった事から始めたまじないのようなものだったが、効果のほどは抜群だ。
 借りっぱなしだった羽織をかける所から、九郎が脱ぎ捨てていった寝間着を抱いて寝るようになるまで時間はかからず、今では九郎不在の夜はそれが当たり前になっていた。

 しかし、人間の欲求は留まる所を知らないもので――……

 九郎の不在が幾月かを越えた今、菜津は九郎の部屋で、九郎の布団で寝起きしている。


 夜明け前に、目が覚めた。
 部屋の中はまだ薄暗く、そして肌寒い。
 嫁いで来てもう大分経ち、警戒心の塊だった菜津の気も随分と緩んだ。この里と屋敷の中ならばという絶対の信頼もある。背中に感じる風とこの肌寒さからすると、きっと廊下の障子戸を開けっぱなしのままで寝入ってしまったのだろう。
 そろそろ霧が出て来る時間だ、起き上がって障子を閉めた方がいい。――しかし眠くて、億劫だった。
(寒い……)
 九郎の布団に丸まり、九郎の夜具を肩までしっかり引き上げて、菜津は柔らかで暖かなその中へ潜りこむ。そして胸に抱いていた九郎の寝間着に顔を埋
(うず)めた。
(もう全然匂いがしない……)
 半分以上寝呆けた頭でそれでも強く思うのは、帰郷の近い夫の事だ。ここしばらくずっと別居状態だったが、早馬の知らせでは明後日の夜に戻るらしい。だが、そういった予定は期待を他所にいつもいつも延びていく。
 今回は予定から何日延びるだろうか。期待させるだけさせておいて、悪びれた様子も無くケロリとした顔で遅れて帰って来るのはいつもの事だ。
し かしそれでも、もうすぐの帰郷に浮足立つ心は抑えられない。抱きしめた寝間着に頬をすり寄せ、深く吸い込むように呼吸する。

 少しでも日の高い内に帰って来てくれればいい。そして皆で一緒にご飯を食べて、色んな話をして、聞いて、労ってあげたい。今日は晴れるだろうか。もし晴れたなら今日のうちに布団を干しておいてあげよう。下着や寝間着も新しいものを用意しておきたい。九郎は甘い菓子の類を好まないが、果物は喜んで食べる。何が用意できるか、厨房で相談をしておかないと。
 取り留めなくこんな事を考えていられる自分を、心底幸せだと菜津は思った。
 しかしそれと同時、心配でもあった。必ず帰って来ると言う保証などどこにも無いのが忍(しのび)という稼業の常だ。生死は常に隣り合わせで、見送りの時には居た顔が、出迎えでは居なくなっている事も幾度となくあった。九郎の顔を見るまでは、到底安心できない。
「九郎様」
 名を呟く。
 早く帰って来て欲しい。寝間着だけではなく中身を抱きたい。
 男の手が怖いものでなくなったのは、九郎の手が優しい事を知った時からだ。感情が起伏しない顔や素っ気ない口調とは裏腹に、九郎は実に細やかな視線で物事を見ている。あの優しい手に早く触れたい。触れられたい。こんな風に頭と髪とを撫でてもらって、そのお返しに菜津は九郎を膝枕して、離れていた分の埋め合わせのように耳掃除をしてやって――……

「九郎様」
「何だ」
「いつからいました?」
「大分前からだが」
「うそ」
「嘘を言ってどうする」

 菜津が布団から跳ね起きる。
 肌寒いのも通りの筈で、廊下に面した障子は人ひとり分開いていた。薄紫の朝の庭には霧が立ち込め、しっとりとした寒さがそこから部屋へ這い上っており――……
 そして、九郎本人も部屋の中に上がっていた。
 一切気配を感じさせないまま菜津の枕元付近にしゃがみ込み、子犬にする様に頭を撫でていた手を引っ込めて、じっと強い視線で菜津を見下ろしている。
「いつからですか! いつから! ……何で?!」
「騒がしいぞ、皆が起きる」
「違っ、あのっこれはっ」
「お前は素晴らしいな菜津、それは俺の寝間着か。俺の寝間着と俺の布団でぐっすりか。これはどういう了見だ」
 九郎の口調はいつになく強い。
 帰りたてなのだろう。薄汚れた旅装はいくらか砂埃にまみれ、端正な造りの筈の顔にはみっともなくまばらに髭が伸びている。そして薄暗い部屋の中にいても分かる程、目の下には隈が色濃く出ていた。
 九郎がここまで分かりやすく疲れているのは大変に珍しい。怒っているのか何なのか、常になく口調に強さのある九郎に菜津の目が一気に覚めた。
「ごめんなさい、でも、あの、私」
「俺はお前に会いたかった」
 きつい口調で九郎が言う。そして更に続ける。
「本来なら今日一日かけて宿場で馬と人とを休ませて、それからゆっくり発つ手筈だった。だがな、これだけ近くに戻ってきているのに先に進まないのは勿体無い気がして、俺だけ単身馬を走らせて帰って来たんだ」
 口調は強かったが荒さは無い。それでもいつも感情を見せずに淡々と喋るこの男には珍しく、熱を帯びた声が明け方の部屋の中に静かに響く。
「それがどうだ。疲れ果てて帰って来て、愛しい女房の布団にいざ潜り込もうと思ったら肝心の本人が居ない。影も形も無い。部屋には布団すら敷かれていない。嫁いで来てまだ幾年も経ってないのに俺が居ない内にもう浮気かどう言う事だと悔し涙をこぼしながら疲れた身体と傷心を引きずって」
「ちょっ、ち、違います! わたっ」
「いいから話は最後まで聞け。とにかく仕方がないから俺は自分の部屋で一人寂しく冷たい布団で寝ようと思って来てみたらこれだ」
 真顔の九郎が、びしりと菜津に指を突き付けた。
「何だこれは。何なんだ。こういうのを世間では何というか知っているか」
怒っているのか何なのか。
 謝る隙すら与えられず、どうしようもないまま九郎の寝間着を胸の前で抱きしめて、涙目の菜津はぶんぶんと首を振った。
 それを見、九郎が大きく口を開く。
「――据え膳と言うんだ。素晴らしい。口説く手間なくご馳走にありつけるとは、でかしたぞ菜津」
 そしてそのまま、菜津を布団へ勢いよく押し倒した。

 汗と脂と砂埃とが入り混じった、長旅帰り特有の複雑な臭いが鼻につく。汚れてはいるが愛しい男のざらりとした髭面が頬と首元にこすりつけられて、菜津の喉から変な声が出た。
「ひゃああああ」
「今までも時々、旅先から帰ると布団からいい匂いがすると思っていたんだ」
 がっちりと身体全体で菜津を抱え込みながら九郎が言う。
「ようやく謎が解けた。俺が屋敷にいる時は普通に一緒に寝ているからな、それの残り香なんだろうと思っていたが今回ようやく謎が解けた。……こういう事だったか」
 その語尾は、何とも満足気な深い吐息に紛れて大きく掠れた。

 今までしていた事がバレたのだ。菜津の顔が、耳まで一気に真っ赤に染まり上がる。
「違います! 今日は! えっと、寝てるだけで!」
「今日はって、いつもはもっと凄い事をしているのか」
「してません! してませんよ何ですかその顔は!」
「何だこれは、俺の寝間着か。お前は外側だけで満足できるのか」
 俺は無理だと、むくりと身を起こした九郎が一気に着衣を脱ぎ始めた。バサバサと勢いよく汚れた着物を脱ぎ捨てて、布団の周囲に放り投げる。
 足袋まで放ってあっと言う間に裸身を晒した九郎に、これ以上ないくらい頬を染め上げて狼狽えながらも、菜津が何とか声を絞り出した。
「戸が、開いてます、けど……!」
「一向に構わん」
「構います! いけま……、ダメですって……!」
 覆い被され、組み敷かれながらも、菜津は必死で開けっ放しの箇所を指差し訴える。
「気にするな」
 だが、九郎は悪戯な笑みを浮かべるばかりだ。
「霧が出ている。心配せずとも、隠してくれる」
 見れば柔らかな朝霧がいつの間にか部屋の外にしっかりと立ち込めていた。乳白色の紗幕が二人のいる部屋をふわりと幾重にも包み、外界とすっかり隔てているようだった。
「さあ来い菜津、可愛がってやる」
 九郎が真顔で宣言する。
 イヤです、いいから、イヤですってば、いいから早く、の応酬の後で、菜津は九郎の顔を見上げてなんとも複雑な気持ちで微笑んだ。
「何がおかしい」
「あなたが帰ってきたら、何をしてあげようどうしてあげようってちゃんと考えてたのに……いきなりこんな事になるから」
 大きな手が菜津の頬を撫でる。その優しい手に頬をすり寄せて、観念して菜津が笑う。
「……おかえりなさい、私もずっと会いたかった」
「よし」
 満足気に真顔で頷いた九郎の裸の背に腕を絡め、菜津はゆっくり目を閉じた。無精髭があちこちをくすぐるのがおかしくて、二人で朝を迎える事が何とも幸せで、なぜだか少し涙が滲む。


 涼やかな風が吹き、霧の紗幕が優美に揺れる。
 長かった夜が、ようやく明けた。
 


――『なつあさぎり』 終







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