二人迷子
(ふたりまいご) (9)



 目が覚めて一番に小太郎の目に入ったのは、見慣れた天井だった。
 見慣れたと言っても実際に目にしたのは随分久方ぶりになる。ここ数年は、足を踏み入れる事が殆ど無かった場所だからだ。
 色んな人間に怒られながらも、子供の頃は毎晩この天井を眺めながら眠りに就いた。天井の染みの場所まで克明に覚えている。なかなか眠れない時は、隣に寝転んだ子と一緒に夜目を鍛える練習だと言って、月明かりのみの薄暗い中で板目の数をひいふうみいと数えたりもした。
 最も、天井を眺める間もなく、布団に入った瞬間に眠り込んでしまう事も多々だったが。

(――……ああ、そうだ)
 寝かされた布団の上、ぼやけた意識で小太郎は二度三度と目を瞬く。
(ここは菊の部屋だ……)
 あちこち痛む身体を動かさないようにゆっくりと息を吐き、そして大きく吸い込む。ふと香ったのは、懐かしいようにも記憶に無いようにも思える、菊の匂いだ。
 菊の布団に寝かされているのだと気づき、何故こんな所にと思いながらも、小太郎は重い動きで身を動かす。

 菊との大喧嘩は、見事なまでに小太郎の負けだった。
 返しの一撃が小太郎の腹に深く決まった瞬間、屋根から落とされた瞬間、小太郎が目にしたのは、子供の頃と同じように鮮やかに笑んだ菊の顔だった。
 池に落とされた所までは覚えているが、それ以降は記憶が無い。落ちた場所が火災などの際に用いる為の溜池だった事が幸いしたのか、強打された腹と落ちた時にぶつけたのだろう肩と腕はひどく痛んだが、動かせないほど酷く骨が痛むような箇所は、幸いにして無いようだ。
 腕を持ち上げて手のひらをぼんやり眺めていると、庭先の遠くから人々の歓声が聞こえてきた。大きくざわめき、それに被る様に割れんばかりの拍手も聞こえてくる。そして暫し治まったかと思ったと同時、先程よりも尚大きな歓声がわっと湧いた。その歓声は、止む事無く長く長く続いている。
 ――……きっと、一番隊を決める試合が、たった今終わったのだろう。
 小太郎はそう思い、布団の上にゆっくりと身を起こした。
 全ての事が、遠くの世界の事のように思える。音も光もきちんと伝わっては来るが、夢の中の出来事のようにどこか遠い。
 歓声は未だ続いている。熱を孕んだ空気が、こちらにまで伝わってくる。だが、小太郎にはもう関係が無い。そう思い、息を吐いてふと部屋を見渡す。……そこには人影があった。
 部屋の片隅、小太郎に背を向けた形で、この部屋の主――菊が座っていた。
「……」
 小太郎が目覚めた事に気が付いているだろうに、菊は背を向けてただ無言で座っている。しかしその膝には見覚えのある着物が広げられていて、ゆっくりと手指が動いている所から察するに、大乱闘の所為で破れた小太郎の着物を繕っている所らしい。先程の乱戦時に見せた勇ましい装束では無く、今度はきちんとした通常の女物を身に付けている所からして、もう喧嘩をするような意志は無さそうではある。だが、それでもその背中はまだ怒っているように見えた。

 何も言わず、小太郎は布団から抜け出て膝を進める。その物音に明らかに菊は反応を示したが、気が付かない振りを通すのか、小太郎の方を振り返る事は無い。
 小太郎はそのまま更に膝を進める。菊の背後すぐ側まで来たが、菊はこちらを向こうとはしない。ただ黙々と、時折ぎこちなく手元を動かしている。
 それを肩越しにぼんやり見ていると、菊がようやく口を開いた。
「…………謝らないからな」
 独り言のように前を向いたまま、更に続ける。
「私は、絶対に謝らないからな」
 未だこちらを向こうとはしない菊の背は、まだ怒っているのだろう事が問うまでも無く明白だ。寄るな触るなと小太郎を背中で突っぱねる素振りからは、頑なな意思がありありと感じられる。
 ――……しかしそれでも、今はその温もりに触れたかった。
 正座した菊の背に身を預け、小太郎は額を菊の肩に擦り付ける。
「――!」
 途端に菊の身がびくりと揺れたが、それでも小太郎は離れない。菊の後ろから肩口に額を乗せたまま、ただ無言でそうしている。
「……何なんだ」
 固い声で菊が問うてきたが、小太郎は答えない。菊の背に身を預け、肩口に額を乗せ――……何を言うでもなく、小太郎は菊に身を寄せたそのままで、じっと佇んでいる。

 額で触れた肩口から伝わるのは、懐かしい菊の体温だ。幼い頃は何かがある度にこの温もりに縋り、離れなかった。
 長くずっと荒んでいた身体の中身が、ささくれて刺々しくもなっていた心の奥底が、菊の体温が伝わった箇所からじわりと柔らかくほぐれていくのがよく分かる。
 身体はあちこち痛んだが、小太郎は大きく息を吸い、そして吐きだした。身体中に溜まった毒が、全部抜けていくかのようだった。
「謝らないって言ってるだろ……」
 針を動かす手を止め、菊が小さく呟く。その呟きに、顔を伏せたままで小太郎は黙って首を振った。自分も謝る気は毛頭無かったし、今更謝ってもらった所で何かがどうにかなる訳でもない。菊の肩口に額を乗せた格好のままで、小太郎は目を閉じる。
 ――……そしてそのまま、息を再度吸って、吐いて……

「……まさか本人から邪魔されるとは思ってなかった……」
「は?」
「本人が……思いっきり邪魔してくるとか……」
「え、何」
「さすがに想定外すぎるだろこれは……」
「何、ちょ、小太郎? はっ? やっ? えっお前泣くなよ! 泣いてる?! うわっ泣くなよ!」
「普通泣くわ……!」

 自分の肩口でさめざめと泣き出した小太郎に、菊が恐慌を来した。
「ちょっ、ええっ」
 小太郎は声を上げて泣いている訳では無い。顔を上げる気力も無いとばかりに、しみじみとした風情でもたれかかり、菊の肩口に涙を浸み込ませている。
「な、ちょっと、小太郎、うわ」
 手にしていた縫物を放り出し、先程までの意地はどこへやらで、菊は心底困った顔を見せた。
「――……ごめんってば……」
 謝らないと豪語していたはずが、久々に見た小太郎の涙に、前言を撤回したらしい。
「いや、あの、泣くほどの事じゃないだろ……?」
 デカい図体で静かに涙をこぼす小太郎に向けた菊のその声は、狼狽の色が濃い。
「泣きたくもなる……」
 鼻を啜り上げ、小太郎が顔を上げた。

「菊」
 間近で目が合う。先だっての喧嘩の際ですら、こんなに近くで視線が絡むような事は無かった。
 肩越しの小太郎を、涙に濡れた小太郎の目を、菊は見つめる。次の言葉が来るのを待つ。
「……菊」
 小太郎の声は熱を孕んで熱い。
「――…………今までありがとう、俺の事、忘れないでいてくれると、本当に嬉ひぁ」
 語尾は、情けない響きの嗚咽で掻き消えた。

「はぁ?!」
「うぁぁ」
 ズバッとひときわ大きな啜り上げをし、小太郎は耐え切れなくなったのか菊の膝に突っ伏した。
「嫁に行っても俺の事忘れないでえええ」
 そして急に子供返りしたかの如く、よく育った大きい図体でわんわんと声を上げて泣き始めた。
「嫁? 誰が?」
「菊しかいないだろ」
「いつ?」
「いつって」
 一瞬、嗚咽が止む。泣き濡れた顔を上げ、背の半ばまで達した菊の黒髪に視線を揺らし、複雑な色を浮かべた菊の目を再度小太郎は見つめる。
 そして再度、菊の膝に突っ伏した。
「何で菊は俺より年上なんだよ……!」

 菊からしてみれば、本当に訳が分からない。小太郎が言っている事の意味さえ危うい。
 屋根から殴り落とした時の打ち所が悪かったのかと、膝で泣く小太郎の髪をまさぐってタンコブの有無を丁寧に調べるが、それらしいものは見つからない。
「いや……そう言えばタンコブが無い時の方が危ないと前に高次が言っていた……」
 嗚咽する頭を子犬にするように撫でながらの独り言に、小太郎からの返事は無い。時折肩を大きく震わせながら、屋根の上で見せていた勢いも威勢も全て取っ払ったさんざんな態で情けなく泣いている。
 今までは小太郎が泣く度に、泣くな喚くな鬱陶しいと時に怒りながらも菊は制止していた。だが、ここ最近のようにやけに他人行儀であったり会話すらも無い状況よりも、こうして間近で触れていられるなら泣かれている方がよっぽどマシだと、菊は自らに言い聞かせながら怪我の有無を探る。
「と言うか」
 頭を撫でていた手を止め、菊が呟いた。
「私が年上で何がいけないんだ、今更じゃないか」
「いつまでも追いつけない」
 菊の膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で小太郎が返した。
「歳がか? まあそりゃそうだ。しかし追い付けないとどうなる」
「菊が俺より先に大人になる」
 その言葉に眉根を寄せた菊を余所に、小太郎は続ける。
「俺を置いて大人になる」
 小太郎は未だ菊の膝に突っ伏し、顔を伏せたままだ。しかし呟いた言葉の語尾は強い。菊の袖の袂を掴んだ指に、力がこもる。
「大人になって、遠くに……、嫁に、行って」
「私が嫁に行くとは初耳だな。誰から聞いた」
 対する菊の問いは呆れを大きく含んでいる。みんなが言ってる、と小さく呟いた小太郎に、溜息しか出てこない。
「そんなのただの流言だろうが! そりゃあ見合い話はわんさか来てるが、まだ一つも決まってないぞ。……お前の話は何が何やらさっぱり分からん……」
 菊との喧嘩の所為で、確かに小太郎は一番隊選抜の試合に参加し損ねた。だがそれと菊の嫁入りと、何がどう関係するのか。
 相変わらず自分の膝に突っ伏したままの小太郎の頭を再度撫で、菊が呟く。
「私に……嫁に行って欲しくないんなら……」
 小太郎の後ろ髪を玩びながら口を開いた菊の視線が、所在無くゆるゆるとあちこちを巡るが、小太郎はそれに気付く由も無い。
「その……なんだ、お前が自分で、私を娶れば、いいだろうに」
 だが、そう言う努力をしろよと口を尖らせた菊の言葉に、小太郎ががばりと勢いよく身を起こす。その顔は痛々しいとも言えた。
「……菊、俺を子供扱いするのは、本当にやめてくれ」
「別に子供扱いなんか」
「してる。俺はもう子供じゃない、いい加減分かる」
 真剣な顔付きの小太郎はそれでも一瞬言いよどみ、しかし一呼吸の間をおいて、俯きながら再度口を開いた。
「菊には、俺がどうやったって手が届かないんだって事ぐらい、もう分かってる」


 言われた言葉に固まった菊の、袖を強く掴んだままで小太郎は続ける。
「俺は、少しでも菊に近づきたかった」
 光のそそぐ庭から聞こえる賑やかな声は、未だ絶える事が無い。明るい外と薄暗い部屋の中では感じる温度すら違う。同じ空気に浸っているように見えても本当は違う。……違うのだ。
「菊が大人になる前に、少しでも」
 喉から振り絞った小太郎の声は、ほんの少しだけ掠れている。
「だから――……一番隊に入って、立派な忍になって、一人前だってみんなに認めてもらって、……それで、菊が嫁に行く時に」
 声は一瞬だけ途切れ、しかしすぐに紡がれた。
「……嫁入り道具として、連れて行ってもらえるように」
 小太郎の、強く真摯な視線がいつの間にか菊を貫いている。菊はそんな小太郎から目を逸らす事が出来ない。
「菊の側に、ずっと居られるように」

 一ヶ谷の上忍――特に葛木家に連なる一門から他所へ娘を嫁がせる場合、それは嫁入りする本人では無く、その背景である忍軍一ヶ谷衆とのつながりを求められたが故に、嫁いでいく事が多い。
 そう言った際は『嫁入り道具の一つ』として、幾人かの下忍を花嫁の供に連れて行く。ここ近年の例で言えば、当代当主である九郎の妹が室津の商人家――米でも材木でも御禁制の品でも何でも扱う、と密かに名を馳せた商人家だった――に嫁ぐ事が決まった際、幾人かを嫁ぎ先へ連れて行っている。
 それらの下忍は嫁ぎ先の家と一ヶ谷の里との連絡役となるだけでなく、連れて行かれた先でも忍としての仕事をこなす。花嫁にだけでなく、嫁いだ先の夫も新たな主とし、両方から使われる事になるのだ。

 花嫁が持ち込んだ、気の利いた嫁入り道具の一つとして。
 花嫁の最も間近に在る、モノとして。


「なのに思いっきり邪魔されたんですけどおおおお!」
 畳を両手で力いっぱい叩いた小太郎が、また絶叫した。
「いや……まあ、その……お前がそこまで考えてくれてるなんて今知ったし、ムシャクシャしてたんで、つい」
「俺は菊に怪我させたらとかこんな喧嘩してていいのかとか結構考えて悩んで迷ってずっと延々グルグルしてたのに、菊は何なの? ムシャクシャしてたら蹴って投げて全撃急所狙いで挙句に相手を屋根から落とすの? それは人としてどうなの?」
「いやな、でもな、お前がちゃんとそう言う事も含めて話してくれてればな?」
「人としてどうなの?」
「二回も言うなよ……」
「菊」
「あ、はい」
 小太郎の声はとても低い。
「もう一回謝りなさい」
「……ごめんな?」
 笑ってごまかす気満々の菊の笑顔に、小太郎の口からとてつもなく重く長いため息が漏れた。
「……なんかもう色々な事がどうでもよくなってきた……」
 がくりと肩を落とし、そして小太郎は再度菊の膝へと頭を落とす。先程の大乱闘の疲労が一気に襲ってきたようだった。先程まで激戦を繰り広げていた相手に身を預け、菊の柔らかな膝に頭を乗せて、小太郎は寝ころぶ。
 歓声は、いつの間にか止んでいた。

「俺、また色々、やり直す。最初から」
 途切れ途切れの素直な声音が、小太郎の口から漏れる。
「大人になるのは、明日からにする」
 額にやんわりと置かれた菊の手の平の、少しだけ指先の冷えたゆるい温もりに、小太郎はゆっくり目を閉じる。膝から伝わる柔らかな熱と、慣れた風に額や頬を撫でる優しい手。離れていた分、一度触れてしまえば、懐かしいその温もりからは何とも離れ難かった。
「……大人になるのと甘えるのは、まだ別だろう」
 小さく告げた菊の声は、憮然とした響きがある。
「むしろ大人の男は女に甘えるものだ」
「何だそれ」
 小太郎が目を瞬く。子供じゃないんだから甘えるな、一人で寝ろ、――それらを幼かった当時の常日頃に言っていたのは、紛れも無く菊だ。一体何を言い出したかと怪訝な顔を見せる小太郎に、菊が真顔で返す。
「父上だってだな、屋敷にいる間は足袋でも母上に履かせてもらってるし、脱ぐ時も母上を呼ぶし、何かあると『おい菜津』だし、そんな感じなんだぞ。高次だってきっとそうだ」
 強く言い切られた菊の言葉に、身近な雲の上の存在の顔を、小太郎は脳裏に思い浮かべる。
「……面倒くさいだけなんじゃ……」
「とにかく!」
 軽く咳払いして菊が続ける。
「さっさと大人になってもらわないと困るけど、甘えるのはやめなくてもいい」
 仰向けに寝転んで凝視してくる小太郎の目を、菊の手の平がゆるりと遮って覆う。
「……お前が側にいないのは、寂しいんだ」


 賑々しい歓声は止んだものの、庭からは人々の笑い声や楽しげな話し声が、時々風に乗って伝わってくる。きっと、試合を終えてそのまま宴会が始まったのだろう。
 勝者は結局誰だったのだろうか。流れてくる夕暮れ時の緩やかな空気に、菊は耳を澄ませる。
 もし何なら決勝戦辺りで乱入し、大暴れでもしてやって、腕っぷしの程を見せつけて、道場へはもう行かない方がいいなどと訳知り顔で注進してきた親戚連中に一泡吹かせてやろうと思っていたが、結局それどころではなくなってしまった。
 だがきっと、それで良かったのだろう。――小太郎にとっては、いい迷惑以外の何物でもなかったろうが。
「お前を拾ったのは、私だ」
 うとうとしだした小太郎の顔を眺めながら、菊は笑う。
「お前をこの稼業に巻き込んだのも、私なんだ。お前が一人前の忍になるまではどこにも行かないし、傍にいる。その責任がある」
 小太郎の頭を膝に乗せたまま囁く声は、軽やかな笑みを含んで、鈴の音の様に部屋に満ちる。
「菊が……待っててくれる、なら、俺も……頑張れる」
 寝息に紛れかけた声を聞き分けながら、菊が微笑む。
「待ってるぞ」
 緩く髪を撫でてやると、小太郎はゆっくり瞳を閉じた。一度大きく息を吐き、その後を規則正しい呼吸が続く。だが、その手は菊の袖を握り締めたままだ。

「だから、お前もどこにも行くなよ……」

 優しく響いたその声に、寝息が小さく揺れて応えた。





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