二人迷子
(ふたりまいご) (8)



 その瞬間――頭目たる九郎の命
(めい)が下った瞬間、耳が音を拾った瞬間、小太郎の眼は色を変えた。
 菊に向けて剥いた牙は明らかな害意を含み、殺気にも似た気迫が瞬時に膨れ上がって場を満たす。
「――う」
 唸る。噛み締めた歯が、軋みを見せる。
「あぁぁあああああああアッ!」
 そして今までの鬱屈を晴らすかのように、小太郎は猛々しく高く吠え上げた。
 それは、犬の子が狼に変貌を遂げた瞬間だった。戦いを生業とするべく育てられ、その身を鍛えられた者が発する獰猛な殺気が、幼さの抜けた小太郎の両肩に瞬時に満ちる。
 その殺気を受けて弾かれたように反応した菊が、屋根を駆けて間合いを一気に詰めた。先手を取るべく屋根の傾斜を駆け下り、一声の気合と共に横薙ぎに竹刀を振るう。
「小太郎!」
 その直前、眼下から名を呼ばれるのと同時、屋根上に飛来した影があった。それは高次が鋭く投げ上げた竹刀だった。
 小太郎は今、名実ともに反逆と武器とを許された。
 片手で受け取った竹刀を逆手に構え、受け取った勢いのままに小太郎は菊を迎え撃つ。
 刃の無い刀同士が、撃音と激しい軋みと共に交差する。

 武器と視線が交差したのは一瞬だった。踏み込んで鍔迫り合った次の瞬間、小太郎は合わせた竹刀ごと勢いよく菊を押し返す。菊の態勢が揺らいだその隙を突き、小太郎の身体が深く沈む。
 だが、足を払おうとしたその動きは菊に読まれていた。小太郎がしゃがんで素早く放った蹴りは、菊の足を払う直前で、屋根瓦の隙間に菊が突き立てた竹刀によって阻まれた。
 間を置かず、蹴撃を止めた竹刀は瓦へそのままに、固く握られた菊の拳が未だ低い位置の小太郎の顔面に迫る。体重を乗せ、下方から上方へ捻りを加えながら繰り出されたそれは、菊の細腕からの一撃であってもまともに喰らえば歯の一本二本は持っていかれる攻撃だ。その重い一撃を、小太郎は屋根の傾斜に身を転がす事で何とか避けきった。
 その攻防も束の間、即座に爪を揃えて薙ぎながら、菊の手刀が小太郎を追う。しかしそれを即座に態勢を整えて立ち上がった小太郎が、今度は遠慮も躊躇も無く己の拳で叩き落とした。そしてそのまま、伸びた菊の腕を掴んで後ろ手に捩じり上げ、小太郎は菊の背後に回り込む。
「降参は?」
 菊の動きを封じて耳元で囁く。目一杯の強さで捩じり上げられた腕に、短い苦悶を漏らした菊からの返事は無い。――代わりに、容赦の無い頭突きが小太郎の顎を直撃した。
 たまらず緩んだ小太郎の拘束から黒髪を揺らしてするりと抜けて、竹刀を構え直した菊が再度迫る。
 不意打ちで小太郎の足元は大きく揺れたが、それでも眼前に迫った菊に対して瞬時に構える反応を見せた。視界に星の散る中、素早く着物の胸元に仕込んだ大針を片手で即座に数本抜き出し、後ろへ跳ね飛びながら菊の足元へと鋭く投げ付ける。長さは子供の掌、太さは小枝ほどもあるその大針が、鈍色の残像を尾引きながら菊に向かう。しかし容赦なく飛んだ凶器を菊は難なく打ち払い、小太郎に再度の斬撃を繰り出した。
 多彩な角度から繰り出される剣戟が、間断無く続く。二人は屋根の上で戦い続ける。

「は」
 竹刀の木っ端が散るほど荒々しく打ち交わし、互いに再び鍔迫り合いになった瞬間、菊の口元から息が漏れた。
 笑みにも似た吐息だった。
「何がおかしいんだよ」
「おかしいんじゃない」
 攻撃の合間、眉を逆立てて荒い息と共に吐き捨てた小太郎の声に、菊は更に笑う。その笑みはどこか甘く、深く、しかし好戦的な色を含んでいる。
 小太郎とこんなにもしっかりを視線を合わせて対峙したのは、一体いつ以来だろうか。――菊の身の裡にそんな思いが去来する。
 幼い頃は互いに誘い合ってよくこうして稽古に励んだものだが、成長して身体に男女の性差が大きくなってからはそれも少なくなり、菊が道場に行かなくなったくらいの頃からは、会話すらも減っていた。

 思えば、道場で菊に対していつも本気で向かって来ていたのは、小太郎くらいではなかったか。
 小太郎は泣き虫で気弱なところの多い子供だったが、菊に対する態度を大人の顔色で変えたりは決してしなかった。頭目の一人娘である菊に怪我をさせる事を恐れ、なかなか本気を出さない――出しても勝てないとなると、菊と試合をする者自体が少なかったが――子供たちが多い中、手を抜いたりわざと負けるような真似を菊が嫌う事をよく分かっていたからこそ、小太郎は幼く拙いながらも精いっぱいの本気でいつも菊に挑んできた。
 勝って喜び、負けて悔しがり……  その小太郎と今、菊は幼い頃のように本気で打ち合っている。
「――……楽しいんだよ!」
 笑んでつり上がった唇は、紅は無くとも蠱惑の朱色だ。鮮やかに高々と宣言された一言に、眼下の野次馬からは一斉に喝采が飛んだ。
 ……小太郎がはっと一瞬身を固くしたことには、誰も気が付かない。

 賭け開始直後は菊ばかりに賭け金が集中していたが、小太郎が反撃を開始してからは両者の賭け具合は均衡している。
 忍軍を率いるべく幼い頃から厳しく鍛えられ、躾けられ、あらゆる教育を施されてきたはずの菊と互角に戦う小太郎の姿は、里の下忍達からしてみれば小気味良くも見えるのだろう。小太郎の名と共に預けられる小銭も、相当な額になりつつある。
 小太郎は幼い頃に菊に拾われて以降、その殆どの時間を菊と共に過ごしてきた。それは、菊がやっている事、やらされている事を、少なからず共有してきたという事でもある。小太郎が菊の教育係である高次を師匠と呼ぶ事も、そこに起因している。
 菊の側に居る為に、小太郎は菊と同じような努力をしてきた。幼い手で竹刀を握って道場に通う菊の側に長く居ようと思うなら、己も同じく竹刀を握って隣に立つのが何より手っ取り早かった。菊と同じように修行をしてさえいれば、誰に咎められる事なく菊の側に好きなだけ居られた。
 菊が部屋で座って戦術だの何だのの講義を受けている時は、小太郎はその部屋に間近い庭先で一人座り込んで講義の終わりを待っていた。聞くとはなしに耳にしていた講義の大半は、小太郎の頭にはさほど印象深くは残らなかったが、それでも次代の忍軍を率いるべき者が受ける教育を共に受けた事には間違いない。先生役の者が庭先の小太郎の存在に気付き、部屋に入れ、菊の隣に座らせてくれた事も何度かあった。読み書きが一切できない下忍も多い中、小太郎は、菊が年上ぶって教えてくれることも相俟ってか、過不足ない程度には習得している。
 ――泣き虫で気弱で甘えたがりだった少年は、菊と同じ目線で立てる男に、いつの間にかなっていた。

 刃の無い刀を変則的な動きで激しく撃ち合わせながらの攻防は、互いに一進一退だ。幼い頃から共に居たせいで、互いの癖を知り尽くしている事も大きい。
 膂力(りょりょく)はあるものの根が単純な小太郎は、菊が仕掛ける罠――狙いたい方向へ誘導するべく流した目線や向けた足先にひどく容易くひっかかるが、それでも動物的な勘を以ってして、菊のその罠を見事に凌いでいく。
 剣術だけでは無い多彩な攻撃を持つ菊は、手数の多さと相手を翻弄するに足るだけの技量を持つが、その一撃一撃にはどうしても重さが欠ける。更には一撃必殺を狙うための容赦無い初撃からしばらくを耐えきりさえすれば、体力切れを誘う事も出来た。
 知略智謀と戦術とを尽くして早々に討ち取ろうとする菊と、それを腕ずく力押しで退けようとする小太郎。
 屋根の上を瓦を散らしながら駆けあがり、棟の上という不安定な場所で菊と小太郎は、更なる剣戟を打ち交わし合う。


 屋根上での攻防が尚続く中、二人の眼下の野次馬たちは、酒も十分入って宴もたけなわに盛り上がっていた。
 菊の従兄である弥平と鉄馬――弥三郎と小六の息子だ――も遅ればせながらやって来ており、眉をしかめながら屋根を見上げている。最も鉄馬に関しては、あれだけ攻めておきながら未だに菊を倒せない小太郎に対する苛立ちが大きい。
「何だよチビ野郎、あいつ相変わらず不甲斐ねえな……。菊なんざさっさと仕留めろよ!」
 そしてその呟きを周囲の娘たちから無言の視線で咎められて、舌打ち混じりに視線を逸らす。
「ああ、伯父上、なんで止めないんですか。菊が怪我するじゃないですか」 
 普段大人しい弥平が、細い声ではあったが、珍しく九郎を責めた。
「なんであんな……、下郎の暴挙を許してるんです、早くやめさせねば」
 心底嫌そうに眉をひそめて非難する弥平は、周囲の賛同を得ようと辺りを見渡すが、そんな声に耳を傾ける者など誰もいない。ぼそぼそとした弥平の声は、周囲の楽しげな歓声に呑まれて九郎にすら届いていない。
 ならば今度は九郎の間近くに腰かける秋津に一言をとその歩みを向けた時、当の秋津が病み上がりとは思えない楽しそうな大声を上げた。
「――菊様ぁ!」
 腹に深く轟く、しかし心地良い大音声だ。
「そんなにも真上では、こちらからは見えませんぞ! もそっと儂らのことを考えて下さらんと!」
 満面の笑みをたたえたその声に、周囲の人垣がどっと沸く。
 途端、やかましい! と屋根上から菊の声がして、一本背負いよろしく襟を掴まれて投げ飛ばされたらしい小太郎が、屋根の端まで勢いよく転がって来た。
 投げられた勢いのままに屋根の端から半身落ちかけた小太郎と同時、屋根瓦が数枚と踏み砕かれたそれの破片がバラバラと落ち飛んで来る。池に派手な水飛沫が立ち、しかし小太郎はしぶとく腕一本で屋根に間一髪ぶら下がり、里人たちがまた一気にわっと歓声を上げた。
 頭上に降り落ちて来た埃に舌打ちし、杯に手で蓋をしながら九郎が言う。
「菊、酒に埃が入る。散らかすのはやめろ」
「だから何でこんな宴会が始まってるんですか父上! おいこらちょっと待て、誰だ賭けてる奴!」
 落ちかけた小太郎が態勢を整え直す間に眼下を見、菊が叫ぶ。屋根から顔を出した菊に対して途端に娘連中からの黄色い声が立ったが、それと同時、違う色合いの歓声も湧いた。落ちかけていた小太郎が片腕一本ながらも反動をつけ、勢いよく屋根上に躍り上がったのだ。
その姿を視認して、小太郎が態勢を整え直す前にと菊がまた一撃を振るい、襲いかかる。
 二撃三撃と互いに打ち合いが続き、刃の無い剣が二人の間で交わされるその度に周囲は沸き、歓声が辺りに響く。

 狭い屋根の上で、争いは続く。





 ふと九郎が横を見ると、同じ縁台に座る幼い息子は、口をぽかんと開けて屋根上の戦いに見入っていた。
 誰かから貰ったのだろう好物のはずの饅頭は、一口二口かじられただけで小さな手に握られたまま、一顧だにされていない。周囲の大人たちが楽しそうに口々に野次を飛ばす中、藤千代は常にない強さで瞳をきらきらと輝かせながら、大きな目でじっと戦いを見つめている。
「――……見えるか藤千代」
 九郎もまた屋根上を見つめたまま、口を開く。
「あれがお前の姉だ」
 二人の視線上には、狭い屋根上でも縦横無尽に戦い回る菊の姿があった。
「姉上……かっこいい……」
 藤千代がぽつりとつぶやく。
「姉上すごい、小太郎もすごい。ぼくもあんなふうになりたい」
 そして、顔を輝かせて父の方を向いた。
「父上! ぼくも姉上たちみたいになりたい! 二人ともすごい!」
 手にした菓子を放り出し、父親の寝間着の膝にじゃれてしがみつこうと身を投げ出しかけたが、思い留まって九郎の左腕に抱き付き、興奮した面持ちで藤千代は叫んだ。
「凄いか」
「はいっ!」
 九郎の手が、藤千代の髪を柔らかく撫でる。
「お前は男として生まれてきた。――……ただそれだけの事で、お前にはあれを超える義務が生じたぞ」
 囁くような声は、真っ直ぐだ。
「それは姉がしてきた努力を、それ以上に重ねて超えねばならんという事だ。……お前の姉は相当な努力家だぞ、お前のような甘えたがりにそれが出来るのか?」
「できる!」
 語尾に笑みを乗せた九郎の声には、すぐに駄々をこねる幼い息子への揶揄が含まれていたが、それを敏感に感じ取った藤千代は、頬を膨らませて即答した。
「ぼくも姉上みたいにがんばって、それで強くなる!」
「お前の姉は学問もよく出来る」
「がくもんもするー!」
「口で言うだけならなあ、誰でもなあ」
「ちゃんとやれる!」
「――……よくぞ言われました藤千代様……!」
 と、その時、二人の背後にずっと控えていた高次が、言質を取ったとばかりに声を出した。
「素晴らしい。それでは早速後程から始めましょう。なに、菊様も藤千代様ぐらいの御齢から色々と始めておられます。早過ぎるという事は全くもってございません。乱闘が始まった時はどうなる事かと思いましたが、今日は藤千代様に立派な思いの目覚めた大変良き日でございますな。ああ、これは本当に素晴らしい。早速それぞれの道の手練れをご用意致します。今日は里に多くの者が集まっております故、すぐにでもすべて集まりますぞ!」
 一息で言い述べ、高次が、輝くような満面の笑みを見せた。――椿事である。
「………?!」
「こうなったらもう無理だ。逃げられんぞ、諦めろ」
 若干青くなった息子の頭をポンと撫で、九郎が呟く。

 屋根の上の乱闘は依然続いている。身体ばかり大きくなってもまだ子供だと思っていた二人が見せるその戦いは、忍軍一ヶ谷衆の名を冠しても遜色無い激しさと質だ。
 それは、幼い頃から自らを鍛えて律した者だけが得うる物なのだろう。
「全てを手に入れる事は難しいが」
 誰に言うでもなく不意に呟いた九郎のその声は、穏やかではあったが強かった。
「望むものがあるなら、諦めずに足掻きぬけ」
 そして、己の右膝に頭を預けたまま未だに青い顔でうんうん唸っている菜津の髪を、指先でそっと梳く。……自ら望み、自ら一軍を率いて腕ずく力ずくで手に入れてきた、妻の髪を。

「――……まずは自分の思う通りにしてみればいい」
 子達を見るその瞳は、優しい。







「ちくしょう」
 菊からの一撃を凌ぐたび、菊に対して一撃を振るうたび、小太郎の唇からは唸りが漏れた。腹に溜まった黒いものを少しずつ吐き出すように、唸りは漏れる。
「ちくしょう……ちくしょう!」
 何故自分は菊に対してこんな黒い感情をぶつけているのか。
 小太郎は、自分を認めてくれない大人達への不満と鬱屈とを、幼子が母親に駄々をこねるように菊へぶつけている。腹の底に溜まっていたものを吐き出すきっかけを作ったのは紛れも無く菊だったが、己の持つどす黒い塊をぶつけても許されると小太郎が無意識で選んだのも、菊だった。
 溜まったものでどろどろと濁り、掻き混ざって熱く煮えた頭で、小太郎はただひたすら目の前の相手に刃の無い剣を振るっていた。何でも許し、受け入れてくれる母親に、幼子が行き場の無い不満をぶつけるかのように。
「……ちくしょう……!」
 しかし唸りながら剣を振るうたび、腹の黒いものを一息ごとに吐き出していくうち、怒りと憤りに熱く濁っていた意識が少しずつ明瞭になっていく。視界が晴れるにつれ、目の前にいるのが誰だったかを強く再認識していく。
 この目の前の少女の為に、自分は一番隊に入りたかったのだと……皆に認められる大人に一刻も早くなりたかったのだという事を、最も大切であった筈の事を、ようやく思い出す。
 そして結論に至った。――おのれはやはり、未だに幼いと。
「ちくしょう!」
 喉から洩れる声は掠れ、乾いている。


 楽しい。――この立ち回りを、菊はそう感じていた。
 睨んでくる小太郎の眼からは本気の怒りを感じていたが、会話らしい会話も無く、真意を問うても返事すらされない状態よりも、今のこの方が菊にとってよっぽど小気味よかった。
 久々の立ち回り――……しかも相手が小太郎であるなら、相手にとって不足は無い。
 そもそも菊の怒りの発端は小太郎の生意気だったが、喧嘩の原因も忘れる程、この真剣勝負が菊にとっては心地の良いものだった。体技を駆使し、目の前の相手に挑む。久しく動かしていない身体は幾分重く、腕は振り回す武器に少々悲鳴を上げかけていたが、そんな無理にも心は湧き立った。足を捌くたび、剣を振るうたびに、幼い頃から積み上げた経験の勘が戻ってくる感触が心地良かった。楽しかった。――しかし、小太郎は決してそうではないらしい。
 互いに竹刀を打ち交わすたび、小太郎の口からは低い唸りが漏れている。皆の前で喧嘩をふっかけて来た自分への怨嗟かと菊は最初思っていたが、どうもそうでは無さそうだ。ちくしょうちくしょうと漏らす声は、自分では無く違う所――どこか違う方向へ向けられているように、菊には感じられた。
 喧嘩の始まった当初はしっかり絡んでいた視線が、鍔迫り合っていても合わない事が多くなった。
 そして小太郎の攻撃に粗が目立ち始めた。がむしゃらと言っていい、無駄な攻撃が多くなってきた。後退する素振りも増えてきた。
 打ち込ませようと菊から水を向けても乗って来ない。わざと隙を見せても気が付かない。
 長引く争いにそろそろ菊の体力も限界が来ている。菊としてはここらで決着を付けたい所ではあったが、小太郎は、また菊から目を逸らし始めた。
「……何でだ」
 菊もまた、呟く。
「私を見ろ」
 呟き、歯噛みする。声は十分小太郎に聞こえているはずだったが、小太郎からの反応は無い。菊から繰り出される剣戟を受け流し、躱(かわ)し、時折雑な攻撃を仕掛けてくるだけだ。……早く終わらせたいと、終わらせてくれと、そう思っているような太刀筋で。
「何か言え」
 小太郎からの返事は無い。口の動きだけで、何を、と一言あったのみだ。視線すらもう合わない。
「……お前はこの間からずっとそんな風に、何も言わないで」
 屋根の上、棟までを竹刀を打ち交わしながら駆けあがり、菊が吐き捨てる。その間も互いの剣撃が止まる事は無かったが、菊のその声は微かに震えていた。
「たまに口を開いたかと思えば、ほっとけだの自分で考えろだの、自分勝手な事を言うなだの」
 ――だが、その震えは怒りから来るものだ。
「何が自分勝手だ! お前が何も言わないのが悪いんだろうが!!」
 菊が、吠えた。

「小太郎の馬鹿!」
 小太郎の喉に向けて竹刀を突き上げる。構えた竹刀では受けきれないと咄嗟に判断した小太郎が、その一撃に己の裏拳をぶつける事で見事に捌いた。真剣相手では無いからこそ出来た芸当だが、小太郎の鮮やかな返しに観客からはやんやの拍手が飛んだ。
 その間も菊の猛攻は続く。
「言いたい事があったら言えばいいだろう! 私が気に入らないんならどこが嫌なのか言えばいいんだ!」
 太刀の連打に続き、黒髪を俊敏に揺らしながらの蹴撃を小太郎に見舞う。菊の猛攻に舌打ちした小太郎が繰り出した大構えの強打を巧みに流し、くるりと身を翻して更に一太刀、鋭く浴びせる。
「何も言わないくせに! 言わなかったら分かる訳ないだろ馬鹿ぁっ!」
 菊の語尾が揺れた。その揺れに、間近で切っ先を重ねた小太郎が目を見開く。小太郎を強く睨みつける菊の目は、かすかに赤く潤んでいた。
 だが目元を潤ませていようと何だろうと、菊の急所狙いの猛攻と怒りは治まらない。その怒りを小太郎にぶつけるように、一撃必殺の容赦の無さで更なる剣戟を重ねていく。
 そんな菊に比べ、生じ始めたためらいを滲ませながらも反撃する小太郎だったが、徐々に押されてじりじりと後退していく。棟上(むねうえ)で繰り広げられていた乱戦は、再び屋根の端へと舞い戻って来た。
 軋みを上げ、木っ端を散らしながら竹刀を打ち付け合い、剣戟の間隙に徒手空拳での攻撃をぶつけ合う。踏み砕かれた瓦が耳障りな音を立て、土と砂の埃を巻き上げて次々と落ちていく。観客たちは変わらぬ歓声を上げ続けていたが、その声は菊と小太郎のどちらにも届かない。

 動くたび、汗が散る。
 吐く息は既に荒い。互いに肩は激しく上下し、重ねた疲労が両者の動きを徐々に鈍らせていく。
 ――……しかし、それでも。
 一方は真っ直ぐな目で、一方は迷いに揺れ始めた目で、互いを見据えて対峙している。

 菊が動いた。
 身を深く沈め、数歩の距離をたった一息で走り来る。竹で出来た刀身が小太郎目掛けて無慈悲な唸りを上げて急襲する。風を切る鋭く高い音が大気を揺らす。
 だが、その一撃は大振りだった。それは菊の疲労がそうさせたのだろう。一撃の後にも後詰めで手段(て)を残すが菊の常套だったが、その一撃はひどく大振りだった。振りぬいた後、菊の脇は大きく空いた。まぶしい白の道着が、ここを狙えとばかりの無防備さで小太郎の目に映り込んだ。

(いける)
 一呼吸も無い刹那の間で、小太郎は確信する。
 この間隙に一撃を叩き込めばいい。それでこのくだらない喧嘩は終わる。
(やれる)
 竹刀を振りぬききったばかりの菊の態勢が戻る前、次手に移る前に叩きのめせばいい。
 そうすれば、理不尽にふっかけられたこの喧嘩は小太郎の勝利で幕を閉じる。
 終わるのだ。
 がら空きの箇所に全力の一撃を叩き込む。菊の事だ、奇襲にも何らかの反応はするだろうが、反応できた所で真っ向から受け止める事はせずに、無理矢理でも流そうとするだろう。そうやって流した所を仕留めればいい。万一菊が流せず、また、受けられずにこの一撃が当たったとしても、細身の女の身体ではこの衝撃に耐え切れない。それで勝負は終わるのだ。
 菊の息は傍目からでももう上がっている。これで勝負は決まる。――終わる。

(――でも)
 頭で考えるよりも早く身体は動いていた。
 目の前の少女が見せた無防備の場所へ、容赦ない一撃を放とうと瞬時の構えを作る。構え、即座に振り抜く。
 細い身体に、振り被った凶器が迫る。
(――……でも、本当にこれでいいのか)
 小太郎の身体と心が、乖離した瞬間だった。
 幼い頃から繰り返し鍛え上げた身体は修練通りの動きを即座に示したが、その心中には明らかに動揺があった。揺らぎが動きに曇りを生じさせた。
 ――……容赦の無い剣筋が乱れて揺れて、それでもその一撃は菊に向けられ……――

 肉と骨が、激しく軋む音がした。

「――……受けられないとでも思ったか」
 観客の悲鳴と大歓声が交差する中、少女の声は強気と自信に満ちている。
「受けないとでも思ったか! 愚か者め!」
 その声は明るく、そして強い。
 眼を見開いて完全に硬直した小太郎に向け、菊の声が真っ直ぐに響く。
「女だからと容赦でもしたか? 情けをかけたか? 愚かだな! 実に馬鹿馬鹿しい! ……私を誰だと思ってる!」
 小太郎の横からの一撃を、肘と竹刀と全身とで見事受け止めきった菊が、高らかに叫んだ。
「そういう事はなあ!」
 叫び、硬直したままだった小太郎に、下段から腹に向けて強烈な一撃を跳ね上げる。

「十年早いと思い知れ!!」


 空に響いた声と同時、小太郎の身体は屋根上から鮮やかな弧を描いて見事なまでに吹っ飛んだ。
 屋根の端から飛ばされた身体は、真下にいた見物人たちが叫ぶ中、派手な水飛沫と水音とを上げて池へと真っ逆さまに突っ込んでいく。
 暫しの間の後、ぷかりと浮かんできた小太郎を引き上げようと騒ぐ里人たちを見下ろし、これ以上無い呆れ顔で見上げてくる家族と親戚一同を見下ろし、苦笑いで微笑んだ秋津と目を合わせ――
 屋根の高みから鮮やかに笑んで、菊は一声高らかに大きく告げた。

「あースッキリした!」







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