二人迷子(ふたりまいご) (7) 小太郎が庭を駆け抜ける。 十分な広さを持つ葛木家の屋敷だが、試合開始の刻限が迫っているためか、どこもかしこも人がいる。試合に出るのであろう若者達の上気した姿もあれば、それを見物しようと遊興気分で茶や菓子を持って集まった里の老若男女の姿もある。隣の里や山向こうから、試合の噂を聞いてやって来たらしい見慣れない者達もいれば、正月くらいにしか顔を見ない、里外に住まう上忍たちもいた。――秋津の件もあっての事だろうが、予想外に人が多い。 屋敷の裏を抜け、山の方か川へ行こうかと向きを変えかけ……それでは試合に間に合わなくなると小太郎は考え直す。 猛烈な勢いで敷地内を駆けてきた小太郎に、何だどうしたと幾人かが寄ってくる中、小太郎は暫し足を止めて辺りを見渡した。顎を伝う汗を手の甲で拭い捨て、呼吸を大きく整えながら周囲を探るが菊はいない。何とか振り切ったのだろうと、小太郎はようやく安堵の息を吐いた。 「何でこんなことになってんだよ……」 試合が始まれば菊も手出しして来ない筈だ。それまでどこに身を潜めていようか。 ――植木の陰か屋根の上か、いっそ厠(かわや)か。 庭をぐるりと見渡した先、池の向こう、道場の軒先にて何やら指示を出している高次の姿が見えた。あの傍に居れば、例え菊に見つかっても先程のような乱闘にはならないだろう。 そう思いつき、小太郎が大きく一歩を踏み出しかけた時、 「――……見つけた」 中空から声がした。 小太郎が振り仰ぐと同時、薄青の影が屋根の上から降って来る。突如現れた影に周囲から驚愕の声が上がった。しかし、小太郎だけは驚かない。渋面を作りながら、菊、と音は出さずに影の名を呟く。 「私から逃げられると思うなよ」 「……人が見てるぞ」 「だったら何だ」 屋根の上から勢いよく飛び降りて地に立った菊が、大きく乱れた小袖の裾を優雅な所作で払って直す。そんな格好でよくも屋根に登って降りたものだと内心で小太郎は呆れたが、その菊の右手に握られているものに気が付いて絶句した。 「武器持ってきやがった……!」 「刃(やいば)が無いだけ有難く思え」 小太郎に向けた視線と竹刀の切っ先には、未だ十分な怒りが満ちている。その光景を見、周囲が一気に騒がしくなった。集まって来た人垣はさっきよりも断然多い。それを見、小太郎が苦々しい溜息混じりに口を開く。 「俺が悪かった」 「何だいきなり」 「謝れってさっき言ってただろ」 「そうだったな」 「許してくれ」 「ああそうか」 黒髪を風に揺らしながら菊が笑む。優雅に、艶やかに。――だが、それだけだった。 「……今更遅いわ愚か者が!」 一声が大きく響き、菊の身がぐんと沈む。深く沈むと同時に鋭く伸びた竹刀の剣先が、威嚇では無い強さと軌跡で小太郎の喉を狙って迫る。殺気が、深く刺さる。 「……っ!」 衆人環視があれば大丈夫だと、一瞬でも思っていた自分の愚かさを小太郎は身を以って知った。 風を薙いで迫り来た竹刀に刃が付いていない事が、唯一の幸いだった。武具を以って肌を掠めた一撃は先程の小競り合いの時とは段違いで、菊の本気を知らしめて余りある物だった。周りに居た男達のどよめきが湧き立ち、女達の甲高い悲鳴がそこに混じる。 一太刀を避けたそこへ間髪入れずに次の攻撃が来た。小太郎が避ける端から更に薙ぎ、払い、間断のない剣戟を繰り出していく菊の動きに迷いはない。 (本気だ) 口答えへの粛清に武器を持ちだす辺り、菊の怒りの本気さを物語っている。 手加減の気配は無い。応戦しようにも武器は無い。それ以前に、これだけ多くの人間が見ている前で主家の一人娘である菊に手を上げる訳には到底いかない。……幼い頃ならただの喧嘩で見逃してもらえもしただろうが、今となっては無理な話だ。 (……ちくしょう) 腹の中に重い不満が満たされていく。口を開けたら真っ黒い物が今にも零れ落ちてくるような気がして、小太郎は歯を食いしばりながら、目の前の相手から繰り出される剣戟をひたすら避ける。小太郎が出来る事は、ただひたすら避けて躱す事だけだった。 収まらない騒ぎに、試合の準備で忙しい筈の者達までが集まり始めた。しかし菊の気迫に気圧されてか、はたまた上意討ちとでも判断されたのか、止めに入る者は誰もいない。 「どうしてやり返して来ない」 剣戟の狭間、菊が低く呟く。 「出来る訳ないだろ」 繰り出された竹刀を掴み上げて動きを封じ、同じように小太郎も小さく返す。 「出来るって、本当に思ってんのか」 自分を睨んだ視線の強さに菊の表情が強張ったが、その強張りは一瞬の事だった。 「どういう事だ」 「自分で考えろよ」 眼を逸らして小太郎が吐き捨てた次の瞬間、小袖の裾を大きく翻した菊の蹴りが小太郎の胸を勢いよく突き飛ばした。 菊の着物の裾が派手に翻った瞬間、周囲の人垣から多大な歓声が巻き起こる。それは主に男衆が上げた期待混じりの声だったが、沸き起こった露骨な歓喜はすぐに低いざわめきに変わった。代わりに女達の小さいが甲高い、黄色い声がさわさわとあちこちから聞こえ始める。若い娘たちが互いに袖を引き合い、菊を指差す。 だが菊たち当事者には周囲のそんな声も喧噪も届かない。蹴った拍子に緩んだ小太郎の手から、掴まれていた竹刀を無理矢理引き抜いて菊はすかさず下段から斜めに切っ先を跳ね上げる。 だが、鋭角に襲い来たそれを小太郎が鈍い痛みに堪えて身を捩って躱した瞬間、高次の怒号がその場に響いた。 「――何をしている!」 岩を穿つ落雷の如き大音声が、辺りの空気を震わせる。 「小太郎! これはどういう事だ!」 厳しい顔つきの高次が道場側から大股でこちらへやって来るのを見、小太郎の動きが止まった。同時に菊の動きも止まる。 「皆何をしている! 持ち場へ戻れ! 散れ!」 周囲の人垣を気迫で散らす、威圧感をみなぎらせた高次が近付いてきた。ただでさえ忙しい最中での騒ぎに怒り心頭なのだろう。捕まれば只では済まないだろう事が安易に予測できた。 周囲には、多少散ったが人垣が依然ある。 目の前には菊が未だ収まらない怒りと共に立っている。 高次がこちらへ駆けてくる。 行き場が無い。 小太郎は自分の頭上を見た。そこは、さっき菊が降って来た場所だ。 周囲を見渡す。在るのは中庭と建物、庭の植木と季節の花々、縁側沿いの庭石、そしてそこに集まった人々。 「小太郎!」 高次の、正に咆哮と言った態の叱責が近付く。 「――……試合までに治まらないと、困るんだけどな」 誰に言うでもなく囁くように呟き、小太郎は、背後の庭石をとんと踏んでそのまま屋根に駆け上がった。 大股の数歩で駆けのぼった屋根は、葛木屋敷の母屋の端だ。眼下では人々が屋根に消えた小太郎の方を指差し、未だ止まない歓声を上げている。高次の落雷の如き怒鳴り声がそれに混じって聞こえてきたが、素早く死角の位置に身を翻し、小太郎は一息つく。 屋根上にそのまま座ってやろうかとも思ったが、高次の事だ、自身も駆け昇って来ても不思議では無い。いつでもどちらへでも逃げられるよう、小太郎は屋根の傾斜の高い方、棟(むね)へと瓦を軽く踏み鳴らしながら走り寄る。 ――その時、歓声が一層大きくなった。 目立つのは男の声だが、若い娘たちの物なのだろう甲高い歓声の方が大きかったかもしれない。 里に住まう殆どの民にとって、屋根に登るくらいは何と言う事も無い芸当だ。何をそんなに、と小太郎は振り返り、そして内心では半ば予測していた姿に歯噛みする。 「だから……!」 「ここなら邪魔は入らない」 その声は未だ止まない歓声にも消される事無く、屋根上の空に澄んで響く。 「さっきの続きと行こうじゃないか。――四の五の言わずにかかって来い!」 屋根の端でそう叫んだ菊の手が、自らの纏う薄青の着衣を乱雑に剥いだ。 「一体これは何なんだ!」 屋根上に逃げた二人の背に向かい、高次が轟音を吠え猛る。寸の間も開けず、周囲の人垣をぐるりと睨み付けて更に吠えた。 「誰か事情を説明せんか!」 「こ、ここに居た……!」 「小太郎どこー!」 「もう試合始まっちゃってるんですか? まだお酒の準備できてないですけ……あれ、菊さま?」 「父上ー」 「ちちうえー」 「何なんだよこの騒ぎは、うるっせえな」 「はい、ごめんよ、退いとくれ。あー高次いたいた、ちょっと相談があるんだけど」 怒髪天の高次を余所に、人垣を割って葛木家の面々と真島家の妻子とが集まってきた。 その中、息を切らした菜津が――全力で駆けて行った娘たちを追い、急いでやって来たのだろう――嫁いで来て十数年ですっかり慣れたのか、怒り狂う高次をものともせずに近寄って、喘ぐ息を抑えて口を開いた。 「高次どの大変です……! 菊と小太郎が、よく分からない理由で、いさかい始めて」 「けんかしてた!」 母の腰にくっついた藤千代が、補足のつもりか小さく叫ぶ。 「私の言う事なんか聞かないんです、高次どのから、とめ、止めて」 「菜津さま、しっかり!」 ふはっと息を吐いてよろけた菜津に、前掛けにたすき掛け姿の小春が慌てて駆け寄る。 「なんだよあいつら、いい年して殴り合いの喧嘩かよ」 屋根を見上げて手をかざした小六が楽しそうにつぶやくが、怒り心頭の高次の耳にはもう入らない。菜津の言を受けて自らも屋根に上がるべく、無言のまま、踏み砕く勢いで庭石に足をかける。――ちなみに葛木家の庭石は、屋根に駆け上がるための踏み台代わりに配置されている代物ばかりだ。 その場の全員で見上げた屋根の上は、菊が背を向けているのだけが見える。 何事かを言っているのは確かだが、内容までは聞こえてこない。きっとその視線の先には小太郎が居るのだろう。 騒ぎを聞きつけてか、里中の人間がここに集まって来ているのではないかという程の人だかりが出来はじめている。戦に乱れた一昔前までは一ヶ谷の里は民すべてが完全な忍衆だったが、徳川の御世となってからは、田を作り土を耕しながら半忍半農として葛木家に仕えている者の方が多い。暇な者など決していないはずだったが、塀の上や庭木の上に登っている野次馬までいた。……騒ぎはますます大きくなるばかりだ。 ――そしてその時、菊が己の着衣を突然剥いだ。 脱ぎ捨てられた瓶覗(かめのぞき)の薄青が中空を舞う。 今まで一番の大歓声が場を揺るがした。空気が震え、男衆は身を乗り出し、女衆は顔を手で覆う。 突然何を、と皆が思った。菊の正気をその場に居た全員が疑った。 沸き起こった歓声へ被せるように舞い広がった小袖が、鮮やかな曲線を描いて屋根から落ちる。 だが、次の瞬間皆の目に映ったのは、薄青の小袖の下にきっちりと忍装束を着込んでいた、菊の姿だった。 「……通りで着付け方が変だと思ったのよ……!」 薄々気づいていながらもやはり隠せない男達の落胆と、若い娘たちが上げる大歓喜の嬌声の中、青ざめた菜津がついにその場にへたり込んだ。周囲の下女たちが一瞬遅れたのちに慌てて支える。 「あっ菊さま私が作った早着替え用の衣装着てくれてる! わーやっぱり格好いいです!」 「小春! あれはお前の仕業か!!」 「えへへ、菊さま最近なんだか元気無かったんで、こういうのどうですかって作ってみました!」 「……お前は要らん所で要らん気を回しくさって……!」 「菊ねえさまおとこまえー」 「おっとこまえー!」 「黙ってなさい!」 高次が嫁と娘に怒鳴る。 「えっらい景気良く大股開いてんなと思ったら、なんだ、そりゃ大盤振舞いするはずだわ」 小六が口を曲げる。 「しかし恐ろしいくらい色気ねえな……」 「こ、こら小六! そういう問題じゃないよ!」 姪の蛮行に呆然としていた弥三郎がようやく我に返り、眩暈を起こして頭を押さえる義姉を横目に、小声で弟をたしなめる。 周囲の若い娘たちは、近頃すっかり大人しく女らしくなったと思われていた菊が見せた久方ぶりの若様然とした姿に、興奮を隠しきれない様だった。やかましくさえずって沸き立つ歓声は同じ年頃の娘へと向ける声音では決してなく、甲高くそして真っ黄色い。菊さま菊さまとあたかも舞台に立つ役者へ贈るように名を呼び、手を振り、興奮を抑えきれずに小さく飛び跳ねて地面を踏み鳴らす。 反対に男達からは一斉に、見えなかった事に対する落胆の不平が漏らされたが、次の瞬間それはすぐに収まった。 「……何事だ、やかましいぞ」 「皆が集まってますなあ」 九郎と秋津が、現れたからだ。 秋津はきちんと着込んでいたが、縁側の奥からのっそりと現れた九郎は未だに寝間着姿だった。 二人で庭に集まった皆の顔を眺め、小六が指差した屋根上を縁側から身を乗り出してのんびり見上げ、 「おお、もう試合開始とは気が早い」 「ゆっくり朝寝も出来ん」 と、片や破顔し、片や無表情でぼそりと呟き顎をさすった。 秋津は周囲の子供たちから菊が早着替えをやったと早速教えられて呵呵大笑だ。いそいそと杖をつき、庭に出て楽しそうに屋根を見上げる。途端に子供たちが秋津に群がり、口々にこれまでの経緯を報告し始めた。 一方の九郎は縁側に立ったままだ。よろけながらも菜津が叫ぶ。 「あなた! まだ寝てたんですかこんなに騒ぎになってるのに!」 「いや、昨夜久々に頑張ったから」 途端に飛んで来た菜津の草履を首の動きだけでひょいと避け、九郎は屋根上の騒ぎをもう一度見上げる。 「屋根瓦が台無しだな……」 断続的に激しく聞こえてくるのは、菊と小太郎が瓦を踏み荒らしている音だ。 高次が急ぎ頭を下げた。 「申し訳ございません、即刻やめさせます」 「そう言えば道場の茅葺(かやぶき/屋根の種類)も傷んできていたな」 九郎の声音は淡々としている。一層激しくなった屋根上での小競り合いとは裏腹に、その声に感情の起伏は無い。つまらなさそうな顔で屋根上の騒動をしばらく眺めていたが、不意に、ああそうだと呟いた。 「あれはどうしようもないあばら屋だったのを、お前があの時の賭けで得た金で新しく建て直したんだったな。あれからもう随分と経った」 高次に向けてあくび混じりに呟かれた声に、庭に集まった皆が顔を見合わせる。あの時の賭け、と言われて親しい身内の幾人かがそう言えばと思い至った顔をしたが、里人の大半や若者は何の話か分からない。声を掛けられた高次も、一体何を急にと疑問だけが先に立つ。 「御頭……?」 「高次」 名を呼び、いつもながらの無表情さで高次を指先だけで呼び寄せる。そして、数歩でそこまで素早く近寄った高次の耳元に、何やら数言吹き込んだ。 「……は?」 「いいから」 「何を言って」 「構わん」 「九郎様!?」 「命令だ」 やかましくさんざめく周囲を余所に、主従の間で単語だけの会話が交わされる。 高次はしばらくの間絶句して黙り込んでいたが、すぐに我に返り、己の眉間を指で強引に揉みほぐすと、皆の方を向き直って先程に劣らぬ大音声を張り上げた。 「聞け! 御頭様のお言葉だ!」 その号令に、あれだけやかましかった声がぴたりと止んだ。 訪れた静けさの中、苦々しい顔をした高次が観念したように、九郎の言葉を大きく告げる。 「……賭けを始める。菊様と小太郎、どちらが勝者か思う方に賭けよ!」 わずかの静寂。 次の瞬間、大歓声が巻き起こった。同時に、集まった下忍や里人達からの小銭や財布が庭に飛び交う。 「さて、一体どっちが人気だろうな」 「何がさてですか……!」 苦々しい顔を隠そうともしない高次とは対照的に、九郎の声は穏やかだ。 下男下女たちが緋色の毛氈(もうせん)を敷いた縁台をいくつかと、熱い茶と菓子などを素早く庭に運び来た。庭のあちこち、池の周辺、屋根上の乱闘がよく見えるいくつかの箇所へ手早く場が作られ、葛木家の面々はそこへめいめい腰を掛ける。 集まった里人たちからも、試合を見物しながら食べる為だったであろう芋の煮たものや、炙ってしょうゆを絡めた串団子、蒸かしたての饅頭、竹筒に入れられた熱い甘酒などが、御頭様へ、若様へ、お方様へ、秋津様へなどと言われながら次々と差し入れされ、周囲は途端に宴会の様相となった。 寝間着のまま庭へ出て、そのままさっさと縁台に腰かけて芋の煮たのに手を付けた九郎は、相も変わらずの無表情だ。その肩へ上着を掛ける高次の顔は心の底から渋かったが、別の縁台に子供たちにまみれながら腰かけた秋津の表情は殊の外明るい。穏やかに笑み、屋根を見上げる。 「そうそう」 小さく呟いた声には、秋津の膝周りに群がった子供たちだけが反応した。 「……気に入らない時は大暴れしてやればいいんですよ、菊様」 悪戯っぽく笑い、肩を揺らす秋津に、子供たちも互いに顔を見合わせて大きく笑う。 「……そう来たかよ……!」 屋根下で沸き起こった大歓声の中、薄青の小袖を勢いよく脱ぎ捨てた菊に、小太郎が絶句ながらも声を絞り出した。 瓶覗色の小袖の下に菊が着込んでいたのは、忍装束ではあったが軽装備だった。真新しそうな白木綿の上着に濃紺色の筒袴のみである。動きやすさを考慮してか――大方外から見えなくする為の小細工なのだろうが――上着の袖は肘すぎまで、筒袴の裾は膝の関節のすぐ下辺りで切られている。袴の両の裾元は同色の紐で絞って巻き結んであり、脛(すね)部分は剥き出しだ。小袖の下に着込む為か、上着も袴も常より身頃にぴったりと沿い、強調するまでは行かずとも、女らしい身体の線はすらりと出ている。 高く繰り出された足首を掴み上げた際、脛は見えたがその奥が見えていなかった訳を、小太郎はここへ来てようやく理解した。 「……別に見たかった訳じゃないけどな」 「何を言ってる、聞こえんぞ!」 女物の小袖を脱ぎ捨てた菊が、屋根上で再度身を躍らせる。今まで纏っていた着物が枷であったかのように、身軽になったその動きは先程とは段違いだ。不安定な足場を物ともせず、傾斜した屋根を駆けて、そして叫んだ。 「言いたい事があるならはっきり言え!」 一息で距離を詰め、菊は逆手で構えた竹刀の切っ先を下段から跳ね上げる。小太郎は数歩を飛び避けて、しばらくは先程のような防戦一方の応酬を繰り返していたが、屋根の上ではそうそう逃げ回る訳にもいかず、すぐに行き場を失くして立ち往生となった。 野次馬たちの勝手な歓声が、足元から沸き立つように聞こえてくる。一瞬すべての音がぴたりと止んだ時があったが、その直後にさっきまで以上の大歓声が鳴り響き、それは延々と止む事が無い。 「……っ」 小太郎が素早く視線を走らせたそこには、高次はおろか葛木家の主だった面々殆どがいつの間にか揃っていた。 葛木本家の親族一同―― 一ヶ谷衆の上忍の殆どと女子供とが縁台を並べて茶や菓子を広げ、小太郎が思ってもいなかったような光景になっていたが、その中の一人と小太郎の視線ががちりと合う。 それは、一ヶ谷衆頭目である九郎だった。 「……」 未だ寝間着姿で腕を組みながら、縁台に腰かけて屋根を見上げる九郎が、小太郎をじっと見ている。投げつけられている視線は強く、しかし相変わらずその感情は読めない。何か言葉を発する訳でも無い。 小太郎が立つのは屋根の端だ。竹刀を構えた菊がじりじりと間合いを詰めてきているものの、武器も無ければ逃げ場も無く、小太郎にはどうしようもない。 加えてこの場を九郎が見ているとなれば、これは最早詰んだも同然だ。これだけ人が見ている前で、しかも頭目の目の前で、その一人娘に対して下忍の小太郎風情がどうこう出来よう筈も無い。 「ちくしょう……」 菊を再度見やる。……何故ここまで執拗に争いを吹っかけて来るのか。 怒らせた分、皆の前で叩きのめしたいとそう思っているのだろうか。……それにしては反撃を促してきたりと理解できない部分も多い。不可解だった。 小太郎の腹の底を、ちりちりと熱い何かが焼いていく。 瓦をかすかに鳴らしながら間合いを詰める菊に対し、重く黒い感情が鎌首をもたげてくる。疼く熱は、ここ最近ずっと小太郎の腹の中でくすぶっていたものと同じ色だ。 不満、鬱屈、焦り、苛立ち。 そして、目の前の少女を痛めつけ、存分に仕返してやりたいと思う黒い欲求――……そんなものが、小太郎の身の裡(うち)で熱く重く渦を巻く。 音が鳴るほど歯噛みする。強く、歯が軋む。 人々の勝手な歓声は依然止まない。 菊はずっとこちらを睨んでいる。――それはきっと、小太郎も同じように菊を睨んでいるからだろう。 「ちくしょう」 再度、小太郎は小さく呟く。声は低い。 「……ふむ」 屋根の上の様子を見、周囲の里人の小銭の飛び交い具合を見、縁台の九郎が一つ吐息を漏らした。 隣に立つ高次を再度指の動きだけで呼び、その耳元で何事か告げる。――その顔は、微かにだが不敵に笑んでいる。 その囁きを聞いた途端、高次はまた大きなため息を吐き出したが、何を言っても無駄だと理解したのか止め立ては一切せずに頷いて、屋根上に向かって声を張り上げた。 「小太郎!」 屋根の端に立つ小太郎が、その声に反応して振り返る。それに合わせ、暫し菊も挙動が止まる。 渦中の二人だけでなく、その場の全員がしんと静まり返るのを待ち、高次が口を開いた。 「聞け、御頭様から直々にお言葉がある」 「――……小太郎」 決して大きい声では無かったが、九郎のその声は不思議と深く良く通った。 九郎が口の端を上げて緩く笑みを作る。 それは、娘の父親としてでは無く、忍軍を率いる男の笑みだった。 続く命令は簡潔だ。 「遠慮は要らんぞ。――全力を見せろ」 開戦を告げる声が、高らかに響く。 |