二人迷子
(ふたりまいご) (10)



 宴はまだ、続いている。
 結果として前座状態となった菊対小太郎戦で場が万全以上に暖まり、最高潮になっていた事もあってか、あの後の一番隊選抜本試合は大いに盛り上がった。

 ――……とは、近頃よく眠れていなかった小太郎が菊の膝枕で安眠を貪りきった頃、日がゆるやかに沈み始めた頃、部屋に食事を持ってやってきた小春が語った言である。
 そして、試合の勝者はまさかの彦左――試合前夜にクダを巻いていたあの若者――になったらしい。決勝戦は両者とも引かぬ大接戦の上に混戦を極め、しかも何度負けそうになってもしつこく立ち上がる彦左の所為で結局最後はグダグダの泥仕合だったそうだが、何よりも最高潮の盛り上がりを見せたのは、試合決着直後だったという。

「こやぁあっ!」
 何が始まるかと固唾を呑んで見守る観衆の中、両者相討ちから満身創痍で立ち上がった彦左は、忍軍一ヶ谷衆一番隊の誉れを勝ち取った勝利の雄叫びの代わりにこう叫んだ。
「……子連れでいいから! 俺のところに! 嫁に来てくれぇえええ!」
 途端、場が静まり返る。里人皆の視線が、叫ばれた相手であるこやを一斉に探す。
 皆の視線が自分に集まったのを感じてか、庭の一角で皆と同じように弁当などを食べていたこやが立ち上がった。その腰には、嫁ぎ先から連れてきた幼い娘が、ぴったりと張り付いている。
 勝者である彦左を含め、葛木家の面々やその場にいた全員に一斉に注視される中、こやは、ほんの少しだけ頬を染めて口を開く。
「……どんだけ馬鹿なの……」
 だが次の瞬間、こやは顔を大きく歪め、チッと舌を鳴らして吐き捨てた。

「こんな所でこんな勢いがないと言えないとかバッカじゃないの! 一番隊の名前に泥塗ってんじゃないよ! 出直してきな!」

 ――絶句し脱力し、その場に呆然と立ち尽くすしかない彦左を余所に、場は菊が着物を脱ぎ捨てた時と同様の大盛り上がりを見せたそうだ。
「凄かったです……! こやさんって、うちの娘たちくらいのちっちゃい頃から御頭さまや小六さま、うちの人のご用をこなしてたそうですね。もうね、周りからはすっごい拍手でしたよ! かっこよかったですー!」
 高次さまはものすっごい溜息ついてましたけど! ――とは、これもまた小春の言である。
 明るく可愛らしい見た目で結構な毒を吐く、そして割と攻撃手段がえげつないこやをよく知っているが為に、菊と小太郎は箸を口にしたまま互いに目を逸らし、何も言えない。
 菊が、声を絞り出す。
「……まあ、何だ、こやらしいと言えば、あれだ、こやらしい。……なあ?」
「……あー、うん、そうだな、……こやねえちゃん一ヶ谷衆命だから、まあ、うん」
 きっと今頃もっと酷い事をボロクソ言われているに違いない彦左を思い浮かべ、菊と小太郎が言葉を濁した。

「あ、でも、菊さまも格好良かったですよー! もちろん小太郎ちゃんも!」
 茶のお代わりを二人の湯飲みに注ぎながら、小春が、あそこが良かった、ここにビックリしたと、表情をくるくる変えながら明るく笑う。
 そして、ふと言葉を切った。
「小春どの?」
「小春さん?」
「……でも、よかった」
 顔を見合わせ、同じ動きで小春を覗き込んできた二人を見、小春が微笑む。
「最近、二人の様子が変だったんで、心配してたんです。……だけど今は元通りですよね、だから」
 穏やかに告げる声は、初めて出会った時の夢見るだけの少女では無く、この忍里に嫁いで母となった女が持つ、しなやかな強さと暖かな響きがあった。
「だから……良かった」

 そして笑う。
「でもホント良かったですよねー小太郎ちゃんの怪我が大した事なくて。ね、菊さま」
 小春の笑みは意味有り気だ。
「ねー菊さま」
「……小春どの、二回も言わなくていい」
「何? 何かあったの?」
 小春が持ってきた、宴会用のいつもより豪華なお菜を間断無く口に運びながら、小太郎が問う。
「何って、小太郎ちゃんが屋根から落ちた後」
「小春どのっ!」
 菊の必死の制止を難なくかわし、小春が満面の笑みで更に続ける。
「菊さまが大勝利で高笑いしたまでは良かったですけど、小太郎ちゃんが池に浮かんだままピクリとも動かないから皆さんザワザワしてきて。菊さまもそれに気が付いて」
 言葉では止められないと悟った菊が、箸を捨てて小春に向かって手を伸ばして更に制止を図ったが、小春の口が最後まで告げる方がそれよりも数段早かった。
「薬師を呼べー! って。顔真っ青にして、誰か早く薬師をって、大丈夫か小太郎! って」
 その言葉で、小太郎の視線がゆっくりと菊に向く。
「……お前がやったんだろって言われなかった?」
「……色んな人から言われたよ……!」
 小太郎からの当たりがいつになく厳しいのは、気のせいでも何でないだろう。
 絶妙な居心地の悪さと小太郎の視線の痛さを感じながら、菊が続ける。
「でも、だからこう、悪いと思ってるからこうやって、わざわざ私の布団を貸したんだぞ?! お前の部屋はしばらく見ない内に本当に汚くて足の踏み場も無かったし! 布団だって敷きっぱなしでなんかすっぱい臭いがしてたし、脱いだものも着るものも床にそのままで」
「あざます」
「気ィ無いな!」
「そんなことないよ」
「棒読みで言うな棒読みで……!」
 目を合わせずに飯をかき込む小太郎は無表情だ。機嫌取りのつもりか、ぶつくさ言いながらも自分の皿から小太郎の皿へ小太郎の好物を移動させ、横から口にも運んでやる菊を眺め、小春は再度笑う。

「さあさあ二人とも、たくさん食べといてくださいね。今の内ですからね」
 そんな、柔らかな湯気を立てるお茶のお代わりを注ぎながら言われた小春の言葉には、菊が先に反応した。
「……今の内?」
「そうですよ?」
 小春の朗らかで柔らかい笑顔に悪意は無い。

「もうすぐ高次さまが、ここに来ますからね」







 菊と小太郎に賭けられた里人たちの小銭は、大方の予想通りに菊の勝ちとなったため、それぞれにそれなりに分けられていった。

「胴元として稼いだ金で道場の屋根を葺き替えて、高次に恩を――……いや、喜ばせてやるつもりだったんだがなあ。母屋分の修理だけで全部吹っ飛ぶな、何も残らん」
 旅装姿の九郎が、顎をさすりながら呟く。
「そうだ、あいつらにもう一回、今度は地面の上で喧嘩させるか」
「九郎様!」
「あなた!」
 名案とばかりに出された言葉に、九郎同様旅装姿の高次と見送りの菜津が、眉と目尻を吊り上げて口を挟む。
「冗談だ」
 しかし真顔で呟く九郎の声は、相も変わらず肚の内が何とも読めない。
「何にせよ、さっさと直さん事にはな。雨が降ったら俺の部屋が大惨事だ」
 頭目の出立を知った屋敷の使用人達、周辺に居た里人、その他諸々が小走りで寄り集まってくる。
 秋津の件で戻って来てはいたが、他の者に任をいつまでも預けておく訳にもいかず、そろそろ戻ると昨夜の内に決めたらしい。愛馬の手綱を引いた九郎が、里の皆に見送られながら葛木家の屋根を見上げる。
「そう言う訳で、だ」
 九郎の視線が一転して鋭くなった。
「…………いいか、今日の内に直しておけよ二人とも。くれぐれも怠るな」
「返事!」
 その語尾に高次の鋭い一声が被る。
「うわぁはいッ!」
「はいはい」
「菊様ッ!」
「はぁい心得ましたあー」
 屋根の上、工具を手に直立不動で応えを返した小太郎の横、声だけは愛らしく言葉を返した菊が、顔を歪めてチッと舌を鳴らす。小太郎が屋根修理のためにたすき掛けまでしているのに対し、菊は辛うじて袴姿で色柄簡素な男物を着ているくらいで、手ぶらな上に目立った装備は何も無い。
「昨夜あれっっだけ説教しておいて朝っぱらから屋根修理だとか、なんで私まで」
 その言葉が聞こえたらしい高次が、眉をさらに吊り上げて口を開くより早く、菊は素早く屋根から頭を引っ込める。
「菊さ……っ! ……ああ全く……!」
「まあいい、行くぞ」
 里人の笑い声が上がる中、皆に見送られ、九郎が高次や数人の部下を連れて門をくぐって行く。
 門を出てすぐに騎乗して大駆けに駆け始めた父親たちの後塵と、それを見送り三々五々散っていく里人たちの頭を屋根の上から眺め、菊が呟いた。
「眠い」
「……あれから朝まで説教だったからな……」
 だが、同様に呟く小太郎の顔はどこか晴れ晴れしい。眠たそうに眼下を眺める菊を眺め、笑う。
「何がおかしい」
「別に」
 昨日自分達が踏み荒らした瓦の破片を手際よく丁寧に拾い集め、素っ気ない風に小太郎が返すが、その声音は穏やかで、昨日までのものとは確実に違っている。何よりも子供の頃のように容易く視線が絡む。
 目と目を合わせ、歯を見せて小太郎が笑んだ。
「菊、あの早着替えの着物はもう着ないの? それともその下にでもまた着てる?」
「あれか」
 菊が言いよどむ。しばらく中空を眺めた後で、ぼそりと呟いた。
「……あれを着て歩くのはな、自分がまだまだ足りてない未熟者だと喧伝しながら歩いてるのと、変わらんような気がして」
 小太郎を池に落として狼狽する菊に、秋津が苦笑交じりに笑いながら教えてくれたのだ。
 瓶覗の空を切り取ったような薄青は、今でこそ一ヶ谷の里の若衆がこぞって身に付ける誉れの薄青であるが、元々は秋津と先代の頭目――菊の祖父にあたる――がまだ若かりし頃、親戚や周囲の爺どもに尻が青い未熟者である事を揶揄された際、それを逆手にとって面白半分で着物に仕立てて身に付け始めたのが、知らぬ間に里で大いに流行ったものだったらしい。
「いやはや、まこと懐かしゅうござる。先代と二人、紺に足らないその色を着ている内は、無理無茶も悪戯も未熟者ゆえ仕方が無いから諦めろと言って、相当色々やってまわりました」
 嬉しそうに笑う秋津の顔を見て、菊はあの着物を箪笥の奥に封印する事を決めた。

「なんでもいいけど、菊もちゃんと手伝ってくれよ。無理はしなくていいけど」
「……善処してやる。でも無理って何だ」
 会話は何でもない事のように軽やかで、小太郎の笑顔も昔と変わらない。――その事を内心嬉しく思いながら、菊はそれでも素っ気ない風を装いながら言葉を返す。


 割れたり砕けたりしてもう使えない瓦を二人で手分けして集め、菊が桶に入れて小太郎が屋根から庭へ下ろす。これは通りがかった下忍の幾人かが、菊さまに昨日の賭けでいくらか儲けさせてもらったのでと言って快く手伝ってくれた。
 屋根上に残った瓦に、ヒビや欠けが無いかを一枚一枚検分し、同時に屋根板に傷んだ箇所が無いかも一緒に見ていく。穴や割れ目があれば漆喰で丁寧に塞ぎ、板をあてがい、そして藁を混ぜて練り込んだ葺き土を盛っていくのだ。
 本格的な瓦敷きは流石に職人に任せるらしいので、職人たちがやって来るまでにと二人はせっせと補修の下準備を進めていく。

 作業の途中、昨日の勝者である彦左が、こやとその娘と連れ立って葛木家にやってきたのが屋根から見えた。彦左がこやの娘を実の子のように抱きかかえているのを見、何事かを門番である自分の父に話しているのを見、小太郎が緩く笑う。
「……俺も頑張ろ」
「ん? 何を?」
「色々だよ」
 額に流れた汗を腕で拭い、小太郎は菊を見返す。昨日の乱闘の最中に見せたような焦りや苛立ち、そういった類の感情が払拭された小太郎の目は、穏やかに澄んでどこか深い。ふうん、と呟きで返した菊の声も軽やかだ。
 昨日の乱闘の所為で荒れ返った屋根の上、二人の間に気持ちの良い風が吹く。

「おーい」
 そんな空気の中、眼下から声がした。聞き慣れた声に菊が屋根から下をのぞくと、そこには杖をついた老爺が一人、笑みを見せながら立っていた。
「やあ菊様、ご精が出ますな」
 穏やかな声が、落ち着いた調子で投げかけられる。――秋津だった。
「ちょっとよろしいですかな?」
 声を張り上げ続けるのは少々堪えると苦笑を少しだけ浮かべた秋津を見、小太郎は、無造作に傍らにいた菊を抱き上げた。
 そしてそのまま、菊の反応を待たずに屋根下へ一息に飛び降りる。
「がっ」
 しかし、昨日の乱闘での負傷が少なからず響いている小太郎は、着地の途端に顔を大きくしかめて呻きを上げた。
 その腕からするりと降り、別に一人で降りられたのにと菊がすかさず物申す。
「あ……っ、痛たたた」
「ほら見ろ、カッコつけるからだ」
 しかしそう言った菊の顔付きも、昨日とは比べるべくもない。小太郎の傍らに甲斐甲斐しく立ち、背や腰をさすってやる菊のその姿に、秋津が大きく破顔した。
「お前さん、小太郎だったな。随分と大きくなったなあ、見違えた。……昨日打ち込まれた腹が痛むかね」
「無理すると痛むけど、大丈夫です。幸い骨は狙われませんでした」
「幸いって、ちょ、狙うって何だ! 人聞きの悪い!」
 吠えた菊を片手で制し、小太郎が秋津に向けて更に口を開く。
「でも菊は足首を傷めたみたいで」
 続ける。
「あとやっぱり腕も傷めてるみたいで。この人意地っ張りなんで、そういう肝心な事を言わないんですけど」
「やあ菊様、それはそれは」
「……っ」
 どこか嬉しそうな秋津と、しれっとした顔の小太郎を交互に睨んで歯噛みする菊に、秋津が腕を伸ばす。そのまま黒髪ごと頭を大きく撫でた。
「……何にせよ、気鬱の元は晴れたようですな」
 安心しました、と続けた秋津の声はしっかりと太く、心なしか往年の張りを取り戻したかのようだった。
「儂も、良いものを見せていただいて」
 秋津の笑みは深い。その眼は真摯な光に満ちている。
 だが、言葉を紡ぐその頬は、何故か小刻みに揺れて――……
「――寿命が延びた、心もちで、もうブバッ」

 あっという間にその真顔は崩れ去る。
 思い出し笑いで語尾をブチ消し、秋津が腹を抱えて笑い出した。
「……駄目ですな! 思い出すと笑えてきて仕方がないと言いますか何をやってらっしゃるんですか菊さま! あんた幾つになったんですか! 別嬪さんのなりであんな容赦無い、酷い事を、しかもやらかした後で大慌てとか、あんたアホの子ですか! ああもう思い出すだけで腹が痛い、昨夜は思い出し笑いで儂はもうずっと笑いっ放しでしたよ? 半人前の薄青を身に付けて、あんな大暴れで」
「笑うな! あとそれは全然知らなかったんだ!」
「そっちの坊主が何をやったか知りませんが、わははははは、お前さん結局一体何をやったのかね」
「生意気な事を言いました」
「そうかそうか、やらかしたな。しかしそれで殺されかけたんじゃあ割が合わんわな!」
 秋津の笑顔は病み明けには不釣り合いに明るい。小太郎の頭もぐしゃぐしゃと撫で、昨夜よりも幾分しっかりしたような足取りで立ち、二人を見やる。
「いやあそれにしても菊様、派手にやりましたな。後半息が上がったのは、道場に稽古へ行けてなかった分の煽りですかね。……そして小太郎、お前さんもなかなかの腕前じゃないか」
 その笑みは、正に慈父のそれだ。しかし、その笑みが消えて不意に真顔を作る。
「だがなあ、あれは太刀筋が随分と荒い。振り抜いた後に隙が多い。動きの最後、シメが甘い。目線が泳ぐ、だから次手が容易く読める。良い所もたくさんあるが……あれじゃあ駄目だ」
 老いたとは言え、歴戦の強者の指摘に小太郎の背筋がびくりと伸びて震えた。言われた言葉に伏せた視線は力なく、強く噛まれた唇からは色が消える。しかしその横、すまし顔で小太郎へちらりと視線を流した菊に対し、秋津が更に続ける。
「次に菊様」
「私もか?!」
「儂は確かに好きなようにしたらいいとは言いましたが、あんた様は何よりも場所を考えるべきでしたな。大将が機転を利かして賭けの対象にしてやらなかったら、理由や喧嘩の勝ち負け以前に、葛木家の人間に歯向かった咎(とが)で今頃この坊主は地下牢行きか追放ですぞ。下忍に喧嘩を売るんなら、そこのところを考慮してやらねば可哀相だ」
「でも」
「でもではない。無礼討ちをしたかったのならともかく、そうじゃないんでしょう。この坊主は菊様の昔っからの友達でしょうに、……里に置いておけなくなったら、どうしますか?」
 落ち着いた声が真っ直ぐに菊を貫いた。図星を突かれ、ぐうの音も出ない菊がしょぼんと肩を落とす。
 理由は違えど同じようにしょんぼりした小太郎と二人して並んで立つ姿は、この二人が幼い頃、高次に怒られていた時によく見かけた光景だ。
 そんな子供たちのやんちゃが愛しいと、秋津は真顔を崩して笑ってみせた。
「まあとにかく、喧嘩は両成敗です。加えて仲直りしたんなら何より。……それでですな」
 笑うその顔は、昨夜の時よりもっとずっと血色が良い。――そして口を開く。
「菊様、ちっとばかり席を外して頂けませんかな。そうだ、屋根の上に戻られるとよい」
「はぁ?!」
 ほらほらと上を指差す秋津に、菊がしょんぼりからあっという間に立ち直った。
「何でだ、私が居たらいけないのか」
「儂は坊主にちょっと話がありまして」
「だから何でだと聞いている! 私が居たっていいじゃないか」
「いやいや、ここから先は男同士の話ですからして」
「秋津!」
「いやいやぁ」
 男同士、と言う単語に反応した菊を制し、秋津が笑う。
「……混ざりたいなら居って頂いても儂は全く構いませんが、菊様的にはあとで坊主から聞く方が多分良かろうと」
 秋津の笑みには、悪戯的な含みがある。
「……?」
菊と小太郎は二人、顔を見合わせて首を傾げた。







「……そう言えば」
 道中の馬上、街道から外れた山深い道を駆けさせる速度を緩めながら、九郎が呟く。
「昨夜、秋津から話があってな」
「秋津様からですか?」
 会話を始めた頭目と側役の主従二人を見、残りの部下たちは軽く会釈をして山道を追い越して行った。山中の一本道である。どうせ先の関所手前で待っているだろうから、その辺りは問題ないだろう。
 部下たちの背を眺めた後で高次は馬上で九郎に向き直り、口を開く。
「それは……どのような」
「皆気を遣ったのか? 別にそうでもないんだが、悪い事をしたな」
 先を行った部下たちを見て九郎が呟いた言葉に、高次は当然の気遣いだと首の動きだけで返す。
 そんな高次に向き直り、九郎が再度口を開いた。
「秋津がな、小太郎を養子にしたいと言ってきた」
「小太郎をですか?!」
 九郎の言葉に、高次の眉が跳ね上がる。
 昨日の乱闘を見たからだろうが、あの喧嘩の一体どこが秋津の琴線に触れたのか――馬を歩ませながら高次が思考するが、深く考えるより早く、九郎が何でもない事のように次の語を告げた。
「将来、菊が小太郎の妻になる事を望んだ時のため、だそうだ」
 九郎の声は相変わらず抑揚が無い。
「まあ、別に今すぐにと言う訳では無いらしいが」
「な、にを」
「もう少し様子を見てからだとも言っていた」
「――………何を馬鹿げた事を! 九郎様、何と返事をなさった!」
「無論、断った」

 何でもない事のように声を出し、さっさと前を向いた九郎に、高次は幾分か気抜けする。
「手塩にかけて育て上げたうちの娘をくれてやるからには、家柄だけでは不足だからな」
「……ごもっともです。ごもっともですとも。ああ、確かに秋津様の御家は葛木家とは縁続きで家柄に何の問題もありませんが、これはそんな問題では。ええ」
 だが、それで当然ですと続けようとした舌は、九郎の次の声であっと言う間に音を失った。
「だから、菊が欲しくば俺を倒せとな。倒せるようになったらまあ考えてやらん事も無いと、そう伝えるよう言っておいた」
「……要らん事を……! 待ちなさい、何故毎度そうやって余計な事を」
「養子云々はその後だ」
「そこじゃないでしょうアンタまた何を」
「ああ、大丈夫だぞ。お前は俺が倒された後に出てくる最後の難関設定だ、安心しろ」
「そうじゃない! 違う! 論点が!」
「あの小僧がどこまで踏ん張れるか楽しみだな」
 吠える高次を置いて、珍しく高らかに笑いながら、九郎が愛馬に勢いよく鞭を入れた。
「娘はやらんぞー」
「待て! アンタそれが言ってみたいだけでしょう!」

 砂塵を巻き上げて駆ける背中を追い、高次も怒鳴りながら手綱を鳴らす。
 婚礼衣装に身を包んだ菊と小太郎の二人の姿を脳裏に浮かべ――……叶うのならば、それが一番良い事だと思ってしまった自分に、舌打ちをしながら。

 静かな山道に、男二人の怒鳴り声と笑い声が木霊していく。







 菊は屋根の傾斜の中腹に座り込み、ぼんやりと眼下を眺めている。何の話をしているのか、秋津は笑顔で小太郎に何事かを告げている。
 ……小太郎は、真面目な顔をして話に聞き入っていた。時折、まさかだのそんなだの、言葉にならないような単語のみを上げている。
「何が男同士の話だ」
 読唇は一ヶ谷の里に住まう者の大半にとって造作も無い事である。それを警戒してか、大きな掌で口元を覆って――しかし隠しきれない笑みを頬に滲ませて小太郎と会話する秋津の姿を屋根から見下ろしつつ、菊は思いっきり舌を突き出してやる。
「どうせ私は女だよ」
 だが、昨日までだったらきっともっと腹立たしく感じたであろう言葉が、何故か今日はそこまで気にならない。まあいいさと、そのまま屋根の傾斜に菊は寝転んだ。太陽を吸って温もった熱が、心地良い。
「女だからこそ出来ることだって、いっぱいあるんだぞ」
 指を折って数えてみる。
 武芸に加え、母である菜津の意向で女らしい手習いもいくつかはこなしてきた。好みの手習いは斬ったり殴ったり蹴ったり射ったり投げたりの荒事が圧倒的に多いが、花や香などの女らしい事も嫌いでは無い。針仕事などは、小太郎がよく着物を破ったそのせいもあって、得意な方である。……と、思っている。
 ――……小春から、「菊様が縫ったものはすぐ分かりますね!」と笑顔で言われた事があるが、深く問うていないので真意の程は分からない。
「出来る事だって……」
 ただ、琴や歌は、菊としては生活の中にその必要性を感じないが故に、どちらかと言うと不得手である。特に正月に親戚の前で弾かされた琴は、結局最後まで誰も聴いていなかった記憶がある。
「できる……こと……」
 炊事洗濯掃除の類は、今までする必要が無かったが故に、経験値が絶対的に不足している。菊が行う掃除と言えば、小太郎の部屋が見かねるくらい危ない時に布団を干して脱ぎ散らかした着物を片付けて板間を掃く程度だ。しかもここ最近は小太郎と疎遠だったので、部屋に入ってもいなかった。自室や他の部屋などは、気付けば下女や下働きの者が行っている。
 洗濯や炊事に至っては、まともにした事など片手どころか三指で足りる。……もっと言ってしまえば、これらの事は下男でもやっている。
 ――菊でなければ、出来ない事は――
「あれ……案外少ない……?」

 そうやってむくりと起き上った菊が呆然と呟いたと同時、小太郎が屋根上に顔を出した。秋津との話が済んだらしいその表情は、思いつめたように強張っている。
「小太郎、話は終わったか」
「終わった」
 登った庭石から屋根端に手をかけ、小太郎が一息に身体を屋根まで持ち上げる。
「そうか、話は何だった」
「うん」
 声をかけた菊に向かい、そのまま真っ直ぐ歩み来る。
「話は?」
 だが菊の問いへの返事は無い。荒くはなかったが大股の歩みで小太郎は屋根を歩き、座り込んだままだった菊の傍までやって来る。
「……小太郎?」
 どうしたのかと再三尋ねられて、真顔の小太郎は立ったまま口を開いた。
「――……俺、進む方向っていうか何を目指すべきかっていうのが、今、決まった気がする」
「今の話でか?」
「そう」
 口を一文字に結んだ小太郎が、力強く頷く。――真剣な面持ちで、何度も。
 そして座り込んだままだった菊に目線を合わせてしゃがみ込み、菊の両手をしっかりと取った。
「俺本当に頑張るから! ただ頑張るんじゃなくてなんか道ひらけて来たから! 難しいけどもっと強くなったらいけそうかもしれないから!」
「何が?」
「急に目標がハッキリしたの俺! 何したらいいのか決まったんだと思う! 頑張れる!」
「そうなのか?」
「そう!」
「すまんが分からん」
「今度説明する! 今は上手く話せる自信ない!」
「……確かに何を言ってるか本当に分からん」
「とりあえず!」
 首を傾げた菊に、その手を握ったままの小太郎が力説する。
「俺、自分が出来る事をしっかりやる。まだ本決まりになったわけじゃないし、やっぱりダメだって言われるかもしれないし、そんなの無理かも分からないけど、でも、俺に出来る事はきちんとやるから。……遠い先のいつかじゃなくて、近い内にもっと強くなってみせるから」
 二人しかいない屋根の上に、真摯な声が響く。

「――だから、俺の隣で必ず待ってて」


 菊が頷く間も無く、小太郎は立ち上がる。
「まずは俺は屋根を直すぞおおおぉ――!!!」
 背中にやる気をみなぎらせ、小太郎が吠えた。その笑顔はこれ以上なく輝いている。
「ふーん……」
 対する菊も、数瞬遅れて緩み始めた頬を抑えられない。
「……要はあれか、私は、その、炊事や洗濯や家事なんかを練習しておけと、そういう事だな?」
「あと貧乏にも耐性付けといて! 俺さすがに今と同じ生活はさせてやれないと思う!」
「承知した」
 猛烈な勢いで屋根瓦を片付け始めた小太郎の背中を眺め、菊が頷く。
「……それが、私に出来る事だな」
 唇に上る笑みは甘く、清々しい。


「さぁて、先代にはもう少し待ってていただかねば」
 屋根の下、二人を見上げながら秋津が笑う。
「まだまだ楽しい事が多そうだ。……あと少しだけ、長生きさせてもらおうか」

 緩やかな風に乗って聞こえる二人の声に、秋津は腹の底から微笑んだ。



―― 二人迷子 ・ 終









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