二人迷子
(ふたりまいご) (5)





 夕暮れ時、煮える鍋の暖かな湯気と燃える薪の香りが満ちた、葛木家の厨房。
 そこへ続く土間に、一日の仕事を終えた人々が続々と集まって来ている。葛木家の使用人や子飼いの下忍達が、ささやかな夕餉を摂りに来ているのだ。
 厨房へ続くその部屋の一角は薪置き場になっており、床は土をただ平らかにしてそこに古びた机と椅子をいくつか置いただけの場所だ。広いとも言い難いそんな中に、親を忍仕事で亡くした子が椀で食事を与えられている姿もあれば、遠くから戻ったばかりの旅姿でひとまずの補給をかき込んでいる姿もある。一日の仕事を終えての帰宅途中で、知り合いと話すために立ち寄っただけの様な者もいれば、部屋の角で何やら神妙な顔付きでボソボソと密談している者達もいる。
 小太郎も、そんな雑然とした中に居た。誰と喋るでもなくただ黙々と、具沢山で重い雑炊と、山菜の味噌汁とを交互に口元へ運んでいる。
「――だからさあ! 俺ァ明日こそこやに言うんだよ! 嫁に来てくれって!」
 湯気と談笑とが溢れる中、一際大きな声がして、小太郎は思わずそちらを振り返った。
「何言ってんだ彦左、おめえ一回振られてんじゃねえか」
 部屋の端から青年に向けて野太い野次が飛び、どっと笑いが起きる。名を呼ばれた青年がうるさいと叫び返す。
「あ、あん時は俺が金が無いとかまだ早いとか、そんな事言っちまったから……、意気地無しとか根性無しとかものすっごい罵られて……。でもな、明日のな、試合? うん、試合でな、頑張って一番隊に入って、そしたら俺、今度こそあいつにちゃんと言うんだよ、子連れでいいから俺の所に来てくれって」
「そんな酔っ払いの所に誰が嫁に行きたいかよ」
「ピーピーうるさいのは笛だけにしとけや。お前ホントにめんどくさいな」
「ちっがう! これぁ景気付けだっつってんだろ!」
 手にした杯で顔を真っ赤にし、周囲にからかわれながら叫んでいるのは、小太郎も時折見かけて知っている顔だ。父親が葛木家の門番を長く務めており、自身は高次の直下の下忍として従事している青年。何度か話をした事もある。
菊の側仕えをしていた女(ひと)の幼馴染で、そのひとと子供の頃から仲が良くて、ずっと一緒に居て、これから先も長くそうなのだろうと思っていたら、いつの間にか離れ離れになってしまっていた青年。
 雑炊の中でとろりと溶けた大きな芋を運んでいた箸を止め、小太郎はその喧噪を見やる。
「俺は今度こそ言うんだ」
 ほろ酔いの顔は赤かったが、正直な気持ちを叫ぶその声は真っ直ぐだった。
「俺の側にずっと居てくれって、ちゃんと言うんだ」
 告白を周囲が囃し立てる声が、小太郎の耳に虚ろに響いてくる。

「……あんたはいいよな」
 それを受け、口の中で小太郎は小さく呟いた。周囲の喧騒に掻き消され、その声は誰にも届かない。
「俺は」
 知らぬ間に握り締めた手の中で、割って削っただけの粗末な竹の箸が軋みを立てる。酒精に顔を赤くして笑うその青年が、囃し立てる周囲が、何故だか酷く疎ましく思えた。皆が能天気に笑っている、ただそれだけの事が無性に憎い。喉の辺りが妙に苦しかった。
「俺は、今のままじゃ言う事だって出来ないのに」
 呟きは小さく、その声に気付く者は一人もいない。
「だから早く大人にならないといけないのに」
 焦っていると言われた。だったらどうしろと言うのか。皆否定するばかりで、生産的な話は何一つない。
 明日の選抜試合には小太郎も勿論参加する気でいたが、参加するのは尻の青い若者たちばかりではない筈だ。手練れ揃いと呼ばれる一ヶ谷衆の、さらに一番隊へ志願するような腕自慢達の中を勝ち抜く事はあの時よりも更に難しく、もし勝ち抜いたとしても、先日の様な納得出来ない否定を受けてそこで終わりになるかもしれない。
 小太郎には時間が無い。一刻も早く、早く、早く、何かしらの形を成して皆に自分を認めさせないといけない。それが非常に困難だという事は、小太郎も身に染みてよく分かっている。しかしどんなに難しくても、今は身を立てて周囲に自分を認めさせる事が何よりも先決なのだ。
 そうでなければ大事なものが指からすり抜けて行ってしまう。そんな未来がすぐそこに迫っている。

 早く。
 一刻も早く。
 本当なら今すぐにでも、小太郎は大人になりたい。
 身体だけは大きくなったが、肝心の部分は未だに誰からも認めてもらえていない。腕も技も努力すらも、どれだけやってもまだだと言われてしまう。掌に作った血豆を全部潰し、胃液どころか血反吐を吐くまで鍛錬してもまだ届かない。これ以上何をしたらいいのか分からないのに、それでも全く足りていないと言われてしまう。
「くそ……!」
 小さく吐き捨て、箸を乱暴に置いて小太郎が席を立つ。周囲は皆わいわいと楽しそうに騒ぎ立て、小太郎の様子を気に留める者など誰もいない。雑に木椀を流しへ返し、小太郎は喧噪に背を向けてその場を後にする。
 無性に菊に会いたかった。
 顔を見て、昔のように背に頬をつけ、何でもいいから話がしたかった。――しかしその一方で、そんな甘えた事を一瞬でも思った自分自身に歯噛みし、小太郎は日の落ちかけた夜道を人のいない方へと駆け出していく。
 暖かなざわめきから、今は、少しでも遠ざかりたかった。





「――やあ菊様、まだ起きていらっしゃったか」
 ゆっくりと声をかけられ、月明かりのみの暗い廊下で菊が振り向く。菊と視線を合わせ、声の主が微笑んだ。
「相変わらず宵っ張りでいらっしゃる。勉学ですかな? それとも道場での稽古の帰りか」
「道場へはもう行っていないよ、秋津」
 皺と髭に埋もれた秋津の笑みにつられる様に菊も笑み、そして言う。
「秋津こそこんな所で何をしている。食事は済んだのか? 体が冷えるぞ、早く部屋へ」
「大将と――菊様の御父上と話をしてきたのですよ。……ああ、折角だから菊様ともお話させていただきたくござるな」
 杖を付いてはいたが、存外にしっかりとした足取りで歩み来る秋津の姿に心底ほっとしながらも、秋津の言に菊は首を傾げた。
「それは構わないが……」
「おや良かった。こんな時間ですから、別嬪さんには断られるかと思いましたよ」
 大人扱いした口調とは裏腹に、秋津の大きな手が子供にするのと寸分違わずわしわしと菊の頭を大きく撫でた。お互いに声を上げて笑う。
 そして菊は自室へと秋津を招き入れようとしたが、
「枯れても痩せても秋津は男ですぞ」
 と頑として譲らない老爺に結局は根負けし、下女に熱い蕎麦茶と季節的にはまだ少し早い温石(おんじゃく)とを持って来させた上で、菊は秋津と並んで縁側の分厚い座布団に腰を下ろした。

 遠くから、屋敷の下忍や使用人達の喧噪が聞こえてくる。薄っすらと届いてくるそれを聞くでもなく聞きながら、菊が口を開いた。
「で、話は何だ?」
「特にこれと言ったものがある訳ではないですが」
 言いながら薄茶色の湯を啜った秋津の声は、何やら深さを持っている。
「何となく元気が無い様に感じたもので」
「……お前よりは元気だよ。それよりも心配するなら自分の身体を」
「そうではなく」
 湯呑を大きな掌で包み持ち、秋津が菊の顔を覗き込む。しばらくじっと目を見つめ、そして秋津は前を向いた。香ばしく熱い茶を啜り、息と共に声を吐く。
「儂の思い過ごしならば、別に構わんのですがな」
「そんな事は……」
 身体の不調はどこにも無い。だが、元気が無いと言われて菊の胸に去来したのは、仲違いしたまま未だに口をきいていない幼馴染の顔や、言い様の無い気鬱の濁りだった。
 語尾が揺れた菊に気付いたか否か、秋津が続けて口を開く。
「道場へはもう行っていないと仰られておりましたな。何故?」
「藤千代がいるからな、私が自分を鍛えないといけない必要が無くなった」
「剣術の稽古も体術の稽古も、兵法も、あんなに楽しそうにやっておられたではないですか。儂は元気に走り回っておる菊様を眺めるのが好きでしたよ。辞めずとも良いのでは」
「仕方が無いさ。だって」
 優しい声につられてそのまま言いかけて、それでも菊の声は緩く止まる。
「……だって?」
「いや、何でもない」
「今は儂しか居りませんぞ。儂はこう見えて口が堅い、言ってみなさい」
 秋津の目は前を向いている。夜の庭の、何も無い静かな暗がりに視線を向けて茶を啜る秋津の声は穏やかだ。その落ち着いた声に促されるように、菊の喉から小さな声が零れ出る。
「だって……皆が言うから」
「何を?」
「もういいと」
「何が?」
「私が、今までしてきた事を」
 今まで積み上げてきた努力を。
「もう、しなくていいと」
 一度声にしてしまえば、続く言葉は喉から酷く滑らかに出た。
「――男の真似はもうしなくていい、これからは女らしく静かに生きろと」

 待望の男子――藤千代が生まれ、里中は喜びに沸いた。だがそれと同時、藤千代が生まれた時から今の今まで、陰で囁かれ続ける言葉があった。
「私はもう、必要無い」
 紛い物では無く、正真正銘の男子を葛木家は漸く得た。男のような女子ではなく、当代当主の血を引いた真っ当な男子を、一ヶ谷の里は後継として漸く得たのだ。
「私の役目が終わった事は理解出来る。不在の時間を埋めたのだと納得もいく。……葛木の利権が欲しい訳じゃない。当主の座が惜しいのでもない。別に良いんだ。そんなのはどうだっていいんだ」
 物心ついた時から、菊の一日の大半は己を磨き、鍛え、伸ばす事に費やされた。
 当代頭首たる九郎の血を引く唯一の者として、少女の身ながらも菊は必死に己を律してきた。それが全てで、それしか無かった。気が付けば友人らしい友人も居らず、周囲の大人達は機嫌取りに躍起になるか、遠巻きになって自分を見るばかり。それでもごく一部とは言え十分な理解があったからこそ、今まではそれで良かった。友だと心から呼べる者は結局一人しか出来なかったが、それで満足だった。不満は無かった。不足も無かった。
 ――無かったのに。
「……けど、もうどうでもいい」
 菊が呟く。
「終わった事だ。だから、もうどうだっていいんだ」
 そして秋津の方を向いて笑ってみせた。
「元気が無い訳では無いぞ。何をしたらいいのかよく分からないから、ぼんやりとして見えるんだろう」
 すっかり女らしくなってしまった手の平で包んだ湯呑の茶は、冷めかけて生温い。秋津は何を言うでもなく、ただ静寂のみが場に満ちた。
 涼しいというには冷え過ぎた空気が菊の頬を撫でていく。会話は無く、先程まではあった遠くの喧騒も、今はもうすっかり消えた。
「……さて秋津、これ以上は身体に障る。頼むから言う事を聞いてくれないか」
 秋津の手を取り、立ち上がるように促して菊が笑う。上手く笑えるか少々不安だったが、これまでの人生で鍛えた面の皮はこんな時でもきちんと役目を果たしてくれた。殊更に明るく笑って見せて、菊は秋津に手を貸そうと肩を寄せる。
「……菊様」
「何だ」
 立ち上がる時に少々揺れたが、それでもしっかり立ち上がった秋津の視線は、しっかりと菊を見据えていた。
「……何だ、どうした」
「何をしたら良いのかが分からないと、仰いましたな」
「……ああ」
「簡単な事ですよ。簡単です」
 大きな手の平が菊の頬に触れた。脂気の無い、かさついた暖かな手が、見上げる菊の両頬を柔らかく挟んで包む。
「好きなようにしたらいい。深く考える事は何も無い。……菊様は今まで本当によくやって来られた。自分が良いと思う事を、真にやりたい事を、これから先はやればよろしい。文句を言う者がもしも居るなら、この秋津めが怒鳴って差し上げる」
 間近で合わせた視線の先、秋津の目は真摯だ。暫しの後に子供にするような手付きで両頬を撫で回され、菊は苦笑した。
「そうは言っても、簡単にはいかないだろうに」
「そうかもしれませんが、そこを無理矢理押し通すのが葛木の血筋です」
 ぐしゃぐしゃと菊の頭を掻きまぜて秋津が笑う。
「今の御頭も、先代の御頭も、皆そりゃあもう力任せでわがままでした。菊様にだって出来るはずですぞ」
 悪戯っぽい笑みを含みながら告げられたそれに、菊も笑う。――今度は本心からの笑顔だった。
「そうだな、考えておこう」
「考える、などと言っている内はまだまだ。先代も当代も息をするように無理無茶ばかり。そこのところを菊様も少し見習うと宜しかろう」
 秋津が片目をつぶって見せる。
「ただし、そこそこで手を打って下され。……でないと高次の胃の腑に穴が開く」

 二人が笑う夜の庭を、澄んだ風が吹いてゆく。
 山々に囲まれた中に見える空には、星がいくつも浮かんでいる。
「やあ、こりゃあ明日も晴れますぞ」
「そうだな、きっと快晴だ。……そう願いたい」

 濃紺の夜空に、二人の声がゆっくりと沁みていく。






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