二人迷子
(ふたりまいご) (4)



 小太郎が激昂を見せた日から暫くのち、一ヶ谷の里の葛木屋敷を一人の老爺が訪れた。
 額から頬にかけてを大きく彩る古い刀傷、その傷に削ぎ取られて欠けた片耳――……一ヶ谷衆一番隊筆頭、秋津だ。亡き先代頭目の、側役でもあった男である。

「秋津!」
「やあやあ菊様、これは見違えました。母君のお若い頃そっくりになられて、大層な別嬪ぶりですなあ」
 姿を見つけて駆け寄った菊に対し、片手を上げて鷹揚に笑って明るさを見せるその表情は、菊の記憶の中の秋津そのものだ。巌(いわお)の様な体躯を持ち、戦忍のくせに明るく大きな声で笑って元気が良く、子供が大好きで、強面ではあるが、身分の貴賤関係無く大勢の子供達から大層好かれたじいや。
 だが、
「――……痩せたな」
「いやはや面目次第も無い。寄る年波にはどうも勝てませなんだようで」
 笑ったその顔は、どことなく色が薄い。


 秋津が倒れたとの報せが入ったのは、半月ほど前の話だ。
 一ヶ谷の里の中では無く、都と一ヶ谷の里とのちょうど半ばに位置する場所に住まいを構える秋津は、各地に放った伏手(ふせて)達と一ヶ谷の里とを繋ぐ中継ぎの様な役割を果たしている。下忍を率いて前線に自ら赴くような事は、菊が生まれる前にあった戦を最後にそれ以降は殆ど無かったようだが、それでも年齢を感じさせるような衰えも無く、今までは至極精力的に忍衆の要役を秋津は担って来ていた。往年の勢いを色濃く残したままの頑強な体躯も、丈高い背も、先代頭目からも皆からも好かれた朗らかな性格も、何もかも変わる事無く。
 ……だがそれは、単に周囲を欺き続けていただけだったのかもしれない。

「厠から出た折に、ちょっとつまずいて転んだだけだったんですがな。それをまあ周囲がえらく心配してくれまして」
 平素使わぬ杖を持ち、ついて歩いているのはその為だと、座敷に居並んだ葛木家の人間に向かって秋津は笑う。
 だが菊を始め、その場にいる皆が知っていた。その『ちょっとつまずいて転んだだけ』で、秋津は暫し意識が戻らず、昏倒していたと。その一報を受け、京の加後院家に赴いていた九郎と高次は、任を他の者に預けてまでして、馬を飛ばし駆け戻ってきたのだと。
 ――頭目がそこまでするような、それ程までの容体だったのだと。
「大将まで見舞いに来て下さって、儂はもう肝が冷える思いでした」
 機嫌よく笑う秋津と裏腹に、皆の居並ぶ座敷の上座に坐する九郎も、その側近くに置物の様に控える高次も、押し黙ったまま何を言うでもない。今座敷に居るのは、九郎を始めとした葛木本家の人間全員――菊だけではなく、菜津やシエも呼ばれていた――と、そして一ヶ谷の里内に住まいを構える九郎の弟の二人とその妻や家族達。それらの息子である、菊と喧嘩ばかりしていた従兄弟の鉄馬や弥平の姿も中にはあった。いつもは誰に対してでも傲岸で不遜な態度を崩さない鉄馬も、秋津を前に今日ばかりはそわそわとして落ち着かない。
 (そう言えば……)
 私たち従兄弟の中では鉄馬が一番秋津に懐いていたなと、菊はふと思い出す。今は亡き先代頭目の側役で、自分が生まれた頃から身近な存在だった秋津は、菊から見ても実の祖父に等しい存在だ。今この場に居る誰もが秋津の事を親しい存在として見、そして心配をしていることだろう。
 男衆だけならばともかく、男女の区別なくこの様に葛木の一族が集まる事など、そうそうある事ではない。『元』とはいえ跡取筆頭の格を持っていた者として、上座の九郎にほど近い場所に坐する菊は、唇を噛み締めながら秋津の顔を注意深く見つめている。
 秋津本人は何事も無かったかのように言葉を紡いでいるが、本当に何事も無いのなら、今ここに秋津は来ていなかっただろう。そして、女達までがこのような場に呼ばれる事は無かった筈だ。
 病み上がりの――しかしきっと上がりきってはいないのであろう身体に障らぬよう、菜津やシエ達女衆が丁寧に暖かく整えた座敷で、今までならば九郎たち主家の者の前では決して使う事が無かった脇息に深く身を預けながら、秋津は居並んだ皆に向かって、それでも笑んで言葉を紡いだ。
「今日儂が一ヶ谷へやって来たのは他でもない。葛木の皆々様の御顔が拝見したかったのと、先代に会いに行く事になる前に、後の道筋を整えておこうかと思いましてな」
 その言葉に、座敷に居た一同が目線を上げた。呟いた秋津がゆったりと笑む。
「一ヶ谷に新しい風をば吹かせようかと。若い者達が、皆が、己が力を存分に振るえるように」
 そして九郎の方を見た。その視線を受け、言葉尻を引き継いで、九郎が大きく声を出す。
「――里中に触れを出せ」
 その声は強く、皆を見据える視線は真っ直ぐだ。
「身分の上下は問わん。……明日の正午、我こそはと思う者を集わせろ」
 忍軍一ヶ谷衆、その頭目の名の元に、九郎が高らかに宣言する。
「一ヶ谷衆筆頭部隊、一番隊を組み直す」



「……丁度良かったとは申しませんが、先日に若い者を集めて試合をさせておりましたので、ある程度の目星は付いております」
 秋津が退室し、女達も下がり、部屋には葛木の本家に連なる血統の男達のみが残っている。先だっての試合結果や各個人の評を書き付けてあるらしい帳面を、九郎やその弟達に手渡しながら高次は告げる。
「一昔前の様に戦で人死が出る事が随分減りましたので、一番隊の面々はここ数年ほど入れ替わりがほとんどありませんでした」
「確かにあいつらも皆老けた。……という事は、入れ替わる時はほぼ一斉に顔触れが変わるだろうな。秋津の懸念はそこか」
 自らの部下達を思い出しつつ、九郎が顎を擦る。
「我々の次の世代の出来を見定めておきたいって心積もりも、あるんだろうかねえ」
「……秋津の親父らしいな。修羅場を十分潜った奴らが抜けざるを得なくなった時、使えねえ若造ばっかりじゃ一ヶ谷衆一番隊の名が泣くから、今からしっかり見て育てておきたいって所だろ」
 その横から出た声は、二つとも九郎の実弟――弥平の父である弥三郎と、鉄馬の父である小六(ころく)のものだ。一ヶ谷衆の重鎮でもある二人の弟を見、九郎が口を開いた。
「お前らの息子はどうだ、出させるのか」
「いやぁ……うちの弥平は刀より筆だから、無理かなあ」
 弥三郎が柔和な苦笑を浮かべて頭を掻く。
 九郎の兄妹は、周知されている者は全部で四人だが、妹まで含めたその中でも一番の『美人』であると評された弥三郎は、その儚げな色男ぶりが祟ったか、里の有力上忍の娘に押し倒されて既成婚に持ち込まれたという若干苦い過去の持ち主だ。前線に出るというよりは里での後詰めや忍衆の輸送の手配、兵站(へいたん)のやりくりなどの事務方を主に務め、兄である九郎を支えている。
 若い頃そのままの線の細い優しげな笑みを見せながら、茶の入った湯呑を手の平で抱えて弥三郎が弟の方を見やった。
「小六の所は? 鉄馬か正馬か、出させるのかい?」
「俺ん所か。まあそうだな、一番隊は一ヶ谷の誉れだ。出来れば長男も次男も突っ込んでおきたい所だが……もし菊の奴が出るんなら、うちの鉄馬は出ないだろうな」
 高次の生真面目な文字の並ぶ帳面を、熱心に眺めて折り跡を付けていた小六が、弥三郎の言葉に九郎へ視線を上げながら言い捨てた。その言に片眉を上げた九郎に対し、更に小六は吠える。
「どこの誰に似たんだか、あんの小娘は生意気で困る!」
「こら小六、お前はまた……」
「弥三郎は黙ってろ!」
 狼狽えながらもたしなめた次兄をいとも簡単に呼び捨て、小六は尚も続ける。
「だが顔はいい。義姉上にそっくりで非常に良い。おい九郎兄者、早く菊をうちの息子の嫁に寄越せ」
「菊も鉄馬も両方本気で嫌がってるだろうが。諦めろ」
「なら正馬にでも構わんぞ」
「菊に直接言え」
「そうは言っても菊の奴、最近は俺の顔を見るだけで逃げてくからな。ったく、生意気で敵わん」
 だったら尚更諦めろと呆れ顔で言い置いて、九郎は折り跡の付けられた帳面を小六から受け取った。
「……存外多いな」
「どうせそっから削り落としていくんだからな、それくらい見といて丁度良いだろ。あと、最近の小僧どもは見た感じ案外悪くないぜ。実戦さえ経験させりゃあ、使い勝手もありそうだ」
 事務方を務める弥三郎とは違い、小六は忍軍を直接率いて指揮する立場にある。葛木家に連なる上忍であるが故に実働部隊に組み込まれている訳ではないが、頭目の九郎より小六の方が中忍下忍達に間近くあると言える。人の采配においては、全軍皆の上に立つ身である九郎よりも目を行き届かせやすい。九郎に渡した帳面の文字を太い指で示しながら、小六が口を開いた。
「秋津の親父が心配してる通り、今の一番隊は半分以上が棺桶に片足突っ込んだジジイ共だ。だけど総とっかえじゃ当の本人達から反発が起きるだろうし、尻の青いガキどもばっかりの忍軍じゃ一ヶ谷の面目丸潰れで使うに使えねえ。だから二番隊辺りから若くて使えそうなのを幾人か引っこ抜いて、一番隊に補充してくってのが一番現実的だと思うが、どうだよ兄者。そんで尻の青いガキん中から生え抜き一人か二人か選んで入れとけば、秋津の親父の顔も立つし喜ぶだろうし」
「悪くないな。一番隊が若返れば、どれだけ連れ回しても壊れんだろうし」
「目一杯扱き使っても、若造たちだったら俺たち相手じゃ文句なんざ言えねえだろうし」
「ちょっと……二人とも……」
 人の悪い笑みを浮かべ、悪巧みをする兄弟に対して弥三郎が何事かを言いかけた。だが九郎と小六は、弥三郎の気弱な声など一切意に介さない。帳面を捲る手を止め、好き勝手に評をする。
「そう言えば二番隊の、ほら、親子で鳥笛を使う奴がいただろ、あれの息子の方はどうだよ。ここ何年か全く使い物にならんかったくせに、最近急にやる気出してきた奴」
「ひょっとして門番の倅の事か? あれはな、惚れてた女が……ああ、菜津の側仕えをさせていた娘だが、余所に嫁に行ってしまって、どうもそれで自棄になってたらしい。しかしその娘が先月出戻って来たようでな」
「……あ? そりゃひょっとしてこやの事か? あいつ姑とめっちゃくちゃ折り合い悪くてコブくっつけて帰って来たんだろ、こないだ仕事くれって言いながら娘連れてうちに挨拶に来たぞ。相変わらずいい根性……て、何でそれが門番の倅のやる気と繋がんだ?」
「知らん。俺は絶対に首を突っ込むなと菜津から言われているから、よくは知らん」
「ふーん、なんか面白そうなニオイがすんなぁ。おい高次、明日こいつは絶対呼んどけよ」
「ふ、二人とも勝手なことを……。なあ高次、お前からも何とか」
 兄弟を制止出来ない弥三郎が助けを乞うように高次を見やるが、当の高次は黙したまま真顔で首を横に振ったのみだ。無理です、若しくは、放っておきなさい、辺りの意思表示だろう。
 無表情の高次の諦観を見、弥三郎が意を決したように口を開く。
「兄さんも小六も……! 秋津の父さんの最後の頼みになるかもしれないのに、そんな遊び半分みたいなことじゃダメだろう……!」
 弥三郎は真剣だ。しかし、その言葉への返事は簡潔だった。

「最後にはさせない」
 九郎が笑んだ声を出す。
「死んだ親父殿への分まで、秋津には親孝行しないとな。まだまだ長生きしてもらって、もっと我儘を言わせねばならん。……これを最後とするつもりは毛頭ない」
 高次も含んだ兄弟たちの顔を見渡し、九郎が告げた言葉は軽やかだ。
「明日の選抜試合は祭りと同義だ。盛大にやって、少々気弱になってる秋津を元気付けてやるぞ。何が先代に会いに行く前にだ、そんな事は十年早いと思い知らせてやる」
「そう言うこった。ここんところ派手な仕事も無くて退屈だったから、丁度いいだろ」
 小六もそう返し、再度帳面に視線を落とす。弥三郎が高次を見やると、高次は相変わらず言葉の無いままだったが、口元には微かに笑みが刻まれていた。
「ああ……、そうだねえ……!」
 せわしなく頷き、弥三郎も満面の笑みを浮かべる。元服した息子がいるとは到底思えない若々しい面貌の弟を見、九郎が口を開く。
「いつ死んでも良い様に生きるのが俺達忍衆の常だが」
 ――その言葉と同時、部屋の襖の前で入室許可を求める声がして、それぞれの妻たちが食事の膳を持って入って来た。
 各人の膳の上には、熱く燗を付けたお銚子、ごま豆腐とねぎと擦った生姜の入ったすまし汁、黒豆と雉肉の煮付けが少々と、大根と椎茸とを味噌で柔らかく煮た物があり、話し合いをしている事を慮ってか麦飯は食べやすい様に握って笹の葉でくるんであった。その横には大根葉の浅漬けが添えてある。酒が供されている事と飯が握ってある事以外は、病み上がりの秋津の膳と同様の内容なのだろう。鄙(ひな)の山里の故に派手さは無かったが、素朴ながらも温かく、滋養溢れるものになっていた。
 暖かな膳から立つ湯気と自分の妻の顔を見やり、そして九郎はゆったりと笑んで言葉を続ける。
「この世界はさっさと死ぬには勿体無い。秋津にも、それをもう一度分からせないとな」

 さあ食うぞ、と大きく手を叩いて宣言した小六の声に続き、女達が甲斐甲斐しく夫へと傍寄っていった。







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