二人迷子
(ふたりまいご) (3)



 子供は娘一人だけだった葛木夫妻に、待望の二人目が生まれて早数年。
 二人目の子は、周囲の期待通りに今度こそ男だった。一ヶ谷の里中が待ち望んだ、正真正銘の後継ぎたる子――……れっきとした男児。
 しかしその事は、今まで跡取りとして育てられていた菊の立場を、ひどく不確かで微妙なものへと変化させた。

「あーねうえっ」
 小太郎が振り向かずに立ち去って暫く、半ば呆然とその場に立っていた菊の膝裏に何か柔らかいものが抱き付いた。何事かと菊が視線を下げると、そこには見慣れた笑顔がくっついていた。
「姉上ー」
 まだうまく回らない幼い舌で、上機嫌に菊を呼びながら抱き上げろと催促するのは、最近ますますやんちゃに磨きのかかった実弟だ。
「藤千代……」
「はいっ!」
 ようやく生え揃った小さな歯を見せて笑うその顔は、菊同様母親の面差しを色濃く継いでいるように見える。しかし同じ母親似であっても、気前良く笑顔を見せる藤千代と、そうそう愛想が良い訳では無い自分とでは、あまり似ている様には見えない姉弟だと菊は思っていた。
 似ているようで似ていない小さな弟を見下ろし、菊が呟く。
「何だお前……屋敷の中ならいざ知らず、どうしてこんな外れの所に居るんだ。まさか一人で来たんじゃないだろうな?」
「抱っこ!」
「……一人で来たか」
 言いながら辺りを見回すが、案の定乳母や子守役の姿どころか誰の姿も無い。屋敷の部屋を抜け出して来たのだろうその足は、裸足のままで土まみれだ。ため息をつきながらも、菊は求めに応じて藤千代をそのまま抱き上げてやり、小さな足の裏を手のひらで払ってやる。
「こら動くな、大人しくしろ」
 払われた足がくすぐったいのか、藤千代がきゃっきゃと笑って身を捩る。落ちそうになる小さな身体を抱え上げ直し、菊は思わず再度のため息をついた。
「お前は呑気そうでいいなあ」
「ねー小太郎はー?」
「本当に呑気だな。……小太郎はどこかに行っちゃったよ」

 最近は二人で会話する事が減っていた。
 弟が生まれ、後継者候補筆頭から外れたが故に、菊があまり道場に行かなくなってからはなかなか顔を合わせる機会も無かった。時々邸内や庭で見かけても菊から話しかける事が殆どで、小太郎からの声かけ呼びかけはもう滅多に無い。
 暇さえあれば甘えて大騒ぎでくっついてきていた時分が嘘のように、最近の小太郎は落ち着きが増した。随分と高い位置に移動してしまったその顔からは子供っぽさが徐々に抜けて、鍛えて整った肉がきちんと付き始めた身体は、大人の男と呼んでも遜色無くなりつつある。
 ……それでも。

(放っといてくれって言ってるだろ!)

「中身はまだ子供だと思ってたのに……」
 身体ばかり大人でも中身はまだまだ幼くて、自分がいなければ何も出来ないのだと。世話を焼いてやらなければいけないのにと。
 そう呟きかけて、菊の言葉は舌上で乾いて止まる。
「……そう思ってたのは私だけ、か……」
 掠れた様な姉の言葉に、藤千代が抱かれて見上げた姿で首を傾げる。向けられた無邪気な視線に何でもないと呟いて、菊は弟の髪に頬を寄せた。
 頬をくすぐる弟の髪は柔らかく、温かい。指の間からすり抜ける様に失われた懐かしい感触を思い出し、菊はゆっくり目を伏せる。
「あいつも……私が跡継ぎじゃなかったら用なんて無いって事か」 
 そんな筈は無いと思いつつ、それでも言わずにはいられない。どうしたのと胸元から問いかけてくる舌足らずの弟の声も、どこか遠く響く。


 藤千代が生まれて数年。菊の身を取り巻く風景は、著しくその色を変えた。
 分かりやすい所では、何かある度に機嫌伺いの様に菊の傍を取り巻いていた大人の数がぐっと減り、今や菊はほとんど見向きされなくなった。一昔前までは大人に囲まれた生活が当たり前だったのが、菊個人を訪ねてくる者など今はもういない。
 皆、菊ではなく、そのすぐ傍の違う者を見ている。
 今まで菊に来ていた縁談は婿取りを勧めるものが主だったが、ここ数年は嫁に行かされる話が主流になった。我が息子を菊の夫にと、子供時分の菊相手に愛想笑いを顔に張り付けながら息巻いていた連中は手のひらを返したようにその笑みを引っ込めて、昨今では自分の娘を藤千代の許嫁に据えようと必死である。嫁行きの話も、菊が頭目にならないのなら一ヶ谷の里や自ら達に有利な縁(えにし)を結ぶ手駒として使おうとの魂胆なのだろう。小藩とは言え家老職の妾だの、どこぞの殿様の武芸指南役の妻だの、どうやって見つけてくるのか、こんな山里の娘が嫁ぐにしてはなかなかの――……一ヶ谷の忍軍とその紹介者にとっては美味い話ばかりだった。
 ――もっとも、選んでいるのか何なのか、菊の父親である九郎がなかなか首を縦に振らない事と、母親である菜津が武家への縁談を嫌がるおかげで、未だに菊は一ヶ谷の里に居る訳だが。

 自分の価値とは何だったのだろう。
 決して頭目になりたかった訳ではない。そのように望まれたから、ただその望みに応えるべく、菊は自らを磨き上げてきた。
 鍛え、学び、日々それらを繰り返し――……幼い手と身体はいつも傷だらけだった。しかしそれが誇りだった。周囲の求めと理想に万全を以って応える事は、それらを成す為の努力を認められる事は、菊にとって大きな喜びだった。
 辛くなかった訳ではない。思う所が無かった訳でもない。しかしそれでも長年に渡って積み重ねてきた努力の日々は、菊にとって誇りであり全てだった。自分という人間を形成する、芯とも骨格とも言えるものだった。
 ――……それが今では、幻の様に。

 男子たる藤千代が普通に真っ当に家督を継ぐ方が、余計な軋轢は少ないだろう。それは、今まで女だからと言うだけで余分な苦労をしてきた菊だからこそ実感できる事柄である。名実共に正統な後継者である弟は、女である自分の様な苦労はしないはずだ。よく懐き、甘え、慕ってくる藤千代の事は、心から可愛いと思っている。この子が余計な苦労をしないで済むのは、素直に嬉しい。
 後継を巡って親族間で言い争いになる事も減るだろう。一ヶ谷の里に在住している者達は、菊の毎日の努力を目の当たりにしているせいか表立って物言いをつけて来る事は少ないが、里外に出ている者達の口からは、跡継ぎに関する九郎の采配を訝しむ声が過去多く上がっていた。これらの不満が無くなるだけでも一ヶ谷衆は盤石になれる筈だ。
 菊自身よく分かっている。女である自分が跡継ぎではない方が、上手くいく事は多いと。

 後継者の地位に未練が無い事を分かりやすく示す為にと――不要の派閥を生まぬためにと、周囲の勧めもあって、菊は道場へ通う事をやめた。毎日朝晩早くから遅くまで行っていた鍛錬も、最近では身体を動かす程度に留めている。修行による竹刀だこやまめで荒れていた指先はすっかり滑らかになって、その事は嬉しいような切ないような複雑な感情を菊にもたらしてくる。
 女らしい習い事を毎日殊更にやってみてはいるが、花も香も琴も、夢中になって没頭できるような熱は感じない。胸の中の隙間を埋めるようなものでは無い。
 言い様の無い空虚さだけが、埋める手段を持たされぬまま日々募っていく。虚ろであるのに、言葉で説明する事の難しい『何か』が菊の内側に降り積もっていく。
「……私には、もう何も無い」
 呟く。
 そんな筈は無いと心の奥で固く信じているからこそ、口からわざと悲嘆の言葉を出してみる。
「残ってない」
 そして先程小太郎が去って行った方を見やる。――急に怒り、振り返りもしないで行ってしまった幼馴染。
 うとうとし始めた弟を抱きしめ、菊は笑う。
「……なんて、な」

 発した言葉のその語尾は、菊自身も気付かぬ内に、ごく微かな震えを帯びていた。






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