二人迷子
(ふたりまいご) (2)



「次」

 冷淡とも思える響きの声が続きを促す。
 その声を受けて、葛木家の敷地の外れや道場脇、庭木の植え込みの開けた場所で、一際大きな歓声が上がった。
 まるで祭りでも行っているかのように愉しげに沸き立つのは、その場所へ見物に来ている里人達だ。そして、人垣を作って歓声を上げるそれらの人々の足元近く、上げる声すら無く座り込み、疲労に肩を激しく上下させて汗だくで敗北に喘いでいるのは、伸びやかな手足ではあるが、大人の男と呼ぶにはまだ一歩二歩ほど及ばない若者たち。
 そのすぐ近くで何事かを話し交わしつつも、選別の鋭い目を向けながら立っている数名は、忍軍一ヶ谷衆の中でも選り抜きと謳われる一番隊の男たち。
 そして――……
「それとももう止めておくか?」
「……まだ、やれます……!」
 問いかけに応える為、大きく上下する肩と激しい呼吸の合間から何とか吐き出した声に、観衆がさらに沸き立つ。
 その中心にいるのは、土と汗まみれの薄汚れた道着に身を包んで木刀を逆手に構えた、小太郎だった。

 行われているのは実戦さながらを模した試合。
忍見習いの若者たちを乱闘乱戦で戦わせ、最後まで立っていた者を良しとする形の荒々しい修行である。
「ならば次だ。まだやれる者が居るならば往け」
 何事かを手元の帳面に書き付けながら冷淡に号令を発するのは、当代頭目の側役でありながら若手の育成も担っている高次だ。
「おらぁッ」
 高次が発した令を受け、人垣の一端から若者が一人木刀を構えて勢い良く走り出た。死屍累々の態で周囲にへたり込んでいる者達とは違い、一旦倒れはしたものの、この若者にはある程度の余力があったのだろう。そしてこの状況でまだ余力があるという事は、この若者はそれなりの腕の持ち主という事だ。駆け出した勢いそのまま、息の荒い小太郎目掛けて速く鋭く木刀を打ち込んだ。
 それを受け、疲労困憊ながらも小太郎も応戦して木刀を振るう。足元で砂利と土埃が派手に舞って汗が散る。牙を食いしばって迎えた初太刀をかろうじて流し、二撃目を真っ向から受け止め、そして応戦する。息を詰める猛烈な速さで連撃が重なって腕の骨が軋みを上げるが、真っ直ぐな視線の強さだけは揺るぐ事が無い。

 どんなに若かろうとも、今この場に居る者は全てが全て忍である。
 挨拶代わりに丁寧に構えて切っ先同士を合わせ、黙して開始の合図を待つような、お稽古事じみた悠長なやりとりは存在しない。通常の刀よりも短い造りの忍刀に合わせて長さを詰めた木刀を、侍達が知るどこの流派にも無いような変則的な形で構え持って迎え撃つその姿は、鋭利でざらついた殺気に満ち満ちている。
 実戦さながらの殺気と気迫を乗せて、使い込まれた木刀の黒ずんだ軌跡が小太郎の喉をめがけて中空を薙いだ。まともに当たれば骨ごと首が吹っ飛ぶ一撃が襲い来る。
「……ッ」
 その一太刀をかわさず受け流そうと構えた小太郎の木刀が、衝撃に耐え切れず木っ端を散らしながら弾け飛んだ。
 観衆が息を飲む音が一斉に響いた中、武器が飛んで空手になった小太郎を好機と捉えた若者が、目を輝かせながら木刀を大きく振りかぶり――……
「――ガラ空きだ」


「勝負あり、そこまで! 勝者小太郎!」
 重く鈍い打撃音が響き、つかの間の沈黙の後に今までで一番大きな歓声が沸く。
 沸き立つ歓声の中、低いがよく通る高次の声が終了を告げた。同時に身体をくの字に折り曲げながら、若者が小太郎の足元へ崩れ落ちる。
「……武器にばかり気を取られるなと、常日頃からあれだけ言っている意味が分かっただろう。そんな大構えでは腹を狙ってくれと言っているようなものだ」
 重い蹴りの一撃を喰らって胃液を吐き散らしながら悶絶する敗者に、審判役の高次が総評として鋭く言う。そして試合の終了を改めて皆に告げると、脇に佇んでいた一番隊の男達を呼び、何事かを小声で話しながら母屋の方へと歩き始めた。
「何人に勝ち抜いた?」
「すげえな、やるじゃないか」
「あのチビがなあ」
 観衆が思い思いにざわめく中、揺れる荒い息と流れる汗もそのままに、勝った小太郎が高次達を追って人混みをかき分け一歩を踏み出す。追い付かないと知り、疲労に震える足で二歩目からは駆け出した。
「師匠!」
 去りかけた高次に追い縋る。
「何だ」
「俺、一番隊に入れますか」
「……何の話をしている」
 高次の歩みは止まらない。大股で去り行こうとする高次に、肩で息をしながらも小太郎は尚も食い下がる。
「俺を一番隊に入れて下さい」
「私が決める事ではない。……それ以前に己の身の程を知ってから物を言え」
「俺は今、あそこにいた全員に勝ちました」
 濃い疲労に息を酷く荒げてはいたが、高次をまっすぐに見据えて話す小太郎のまなざしに、迷いや恐れは一切無かった。気弱だ泣き虫だと皆から嘲られていた幼少時から比べると、別人の様に成長したと刹那の間に高次は思ったが、それを顔に出す様な男ではない。ちらりと視線を動かしただけで口を開く。
「だからどうした」
「俺は一番隊に入りたいんです!」
 疲労を抑え、荒い息と共に小太郎が吐き出した一言は、必死の響きを帯びていた。

 一番隊とは忍軍一ヶ谷衆の中でも更に選り抜きを集めた、云わば精鋭中の精鋭部隊だ。一ヶ谷衆頭目の直属として動く部隊であり、上忍下忍の身分貴賤に関わらず、その腕と能だけが選ばれる基
(もとい)とされる。
  確かに里で育った子供たちからしてみれば、いつかは自分もと憧れる部隊であるし、先程の試合の場にはその一番隊の主だった面々が居た。勝ち抜けば一番隊から声がかかるかもしれないとは、その場にいた男子全員が思っても仕方がないだろう。そして実際に小太郎はその場で見事に勝ち抜いて勝利を得た。期待は、当然の事かもしれなかった。
 ……しかし、ただの期待にしては、
「お願いします! 師匠……!」
 ――全霊を込めて頭を下げた小太郎からは、鬼気とも思える必死さがあった。

「くどい」
 頭を下げた小太郎をそのままに捨て置き、高次が歩き出す。一番隊の男達もそれに次いで歩き行く。
「師匠っ!」
「聞け」
 響いた声は冷たく低い。
「焦りの多い者を、御頭の側へは置けない」
 その一言に息をのんで歩みを止めた小太郎に対し、高次はもう振り返らない。
「……諦めろ」
 そう言い残し、去って行く。

「筋は悪くないと思う」
 高次に引き続き、取り残された小太郎に一番隊の男の一人が小さく呟いて去って行った。もう一人の男は慰めのつもりか、呆然と立ち尽くした小太郎の頭を一つくしゃりと撫でていく。……しかし、それだけだった。
「待って下さい!」
 その感触に我に返ったのか、後を追おうと駆け出しかけた小太郎が再度声を荒げて叫ぶ。
「し……ッ」
「もう黙っとけ」
 そして最後の男は、駆け出そうとしていた小太郎の襟首を掴み上げ、庭の植え込みへと足を払って大きく放り込んだ。
 もう決して小さくはない小太郎の身体が、それでも軽々と宙を舞って柔らかな植え込みへと勢いよく突っ込んでいく。
「側役様が仰っている事は正しい。俺たちはさっきの試合を最初っから見てたが、お前、おかしいぞ」
 投げた男が小太郎に向かって言う。
「俺は、なんにも持ってない水呑み百姓のせがれから、必死で叩き上げて一番隊へ入った。だからお前が一番隊入りを望む気持ちも良く分かるさ。……だが、今のお前は功を求めて焦り過ぎてるのが、傍
(はた)から見てても良く分かる」
 男の声は大きくはなかったが、静かによく響いた。
「何をそんなに急いているのか知らないが、忍仕事ではお前みたいに先走る奴が一人いるだけで、皆の命が危険に晒される。……我々一番隊は御頭様直下の部隊。御頭様の背を守るのが役割。……お前みたいな奴を連れて行く訳には、到底いかない」
 諭すような、呆れたような低い声が、小太郎の頭上に降り注ぐ。
「お前はまだ若い。考え直せ」
 言い残し、その男も高次達を追って歩いて行った。
 小太郎だけが、その場に一人残される。

「……くそっ」
 さっきの男は連戦後の小太郎の事を考えて、投げ込む場所をちゃんと考慮してくれていたらしい。頭から勢いよく突っ込みはしたものの体に痛みは殆ど無い。
「畜生!」
 しかし、相手にされなかった事に加えて手加減された事も相俟って、起き上がる気にもなれずに小太郎は天を見上げたまま、その場で唸りを上げる。
「何でだよ……!」
 勝ったのに。あの場に居た全員に勝ち抜いたのに。
 何がいけなかったのか。何が足りなかったというのか。
  焦っていると言われた。焦っているからこそ一番隊に入りたいのに。それが今一番の望みだというのに、一体何がいけないというのか。身分の貴賤は問われない、その身の強さだけが一番隊への選出基準だと聞いたからこその頑張りだったというのに。
 腹の中でどす黒く蟠る塊を吐き出すように、小太郎は引っくり返ったまま声を吐く。
「何なんだよ畜生ッ!!」
「それはこっちが訊きたい」 
 不意に、声がした。
「楽しそうな格好だな」
 声の主の背後から差す逆光に目を細めながら見上げたそこには、笑みながら小太郎を見下ろす菊がいた。


「みんなが騒いでるから何かと思ったら、お前さっき凄かったらしいじゃないか。こういう事がある時は事前に教えろといつも言ってるだろうに、全く」
 植え込みの中にひっくり返ったままの小太郎の傍らにしゃがみ込み、菊が続ける。
「里の若い衆全部集めての、総当たり大乱戦試合だったんだろう? いいなあ、久し振りに私もやりたかった。のんきに座敷で琴とか弾かされてる場合じゃなかったな」
 そう言って小太郎の顔を覗き込んで上機嫌に笑う菊の髪が、風に流されてさらりと揺れた。
 首の後ろで一つに、簡潔にだが丁寧に結われた黒髪は、伸ばす伸ばさないで大喧嘩をしたあの日以来、年々長さを増して今では背の半ば過ぎ程にまで達している。少女から女へと今正に脱皮しかけているその姿は、菊が持つ少年の様な清冽さの中にも確かな色気を感じさせて、どこか艶めかしい。
「……菊」
 しかしその艶やかさを感じる度、小太郎の身体の中で何かが鈍い痛みを起こす。
 それは、女を感じさせるようになった菊に対する照れや、ましてや劣情などでは無い。ざりざりと体内を引っ掻くような、大きく擦り上げるようなその痛みの疼きを感じる度、どうしようもなく強い不快感が小太郎の身の内側に走る。
 そんな言い様のない嫌な疼きを、小太郎は今この瞬間も感じていた。機嫌良く笑む菊から視線を外し、歯噛みする。
「何にせよ良く頑張ったな、偉いぞ! そうだ、今日の夕飯はお前の好きなものを用意させてやろうか。ほら、何が食べたい?」
 小太郎に対する菊のその物言いは、幼い時と寸分も違わない。小太郎が得た勝利を我が事のように喜ぶ姿やその言葉も、姉や母が幼い子の功を褒めて労うのと同じ響きを伴っていた。
「何でもいいぞ、言ってみろ」
 ふてくされたような顔で植え込みに引っくり返ったままの小太郎に、額にかかった前髪を払ってやろうと笑みながら菊が手を伸ばす。慣れた風に無造作に、しかし優しい手付きで伸ばされた指を見て、小太郎はすぐさま顔を背けた。菊の指から素っ気なく逃れ、植え込みから立ち上がる。
「いらない」
 明らかな苛立ちの棘を含んだ小太郎の声に、菊の片眉が上がる。
「……怒ってるのか?」
「怒ってない」
「どうみても怒ってるだろ。何でだ?」
「ほっといてくれよ」
 着衣についた小枝と葉を乱雑に払い落とし、そのままさっさと去ろうとする小太郎の腕を、菊が掴んだ。むっとした口調で、丈高くなった小太郎の顔を見上げて声を出す。
「何だお前、その口のきき方は。誰に向かって物を言っている」
 身分差を本気で責めている訳では勿論ない。生意気を言った弟を叱るような、気安い友人に冗談を言うような、菊としてはそんな些細なだけのつもりだった。
 今までだったら、菊が怒った事に気付いた小太郎が間髪入れずにすぐ謝って、それで終わるような喧嘩のはずだった。菊が形だけ怒ってみせて、小太郎が素直に謝って――
「――うるさいな!」
 しかし、小太郎の舌が発した言葉は、謝罪では無くて激昂だった。
「放っといてくれって言ってるだろ!」
 掴まれたままだった腕を乱雑に振りほどき、更に吐き捨てる。
「何でいちいち菊に言わなきゃいけないんだよ、何でいつまでも子供扱いするんだよ!」
 語気の荒いその言葉は、それでも声高では決して無かったが、周囲に誰もいない場所ではやけに大きく響いて聞こえた。思ってもみなかった言葉と小太郎が初めて見せる表情に、菊の動きがぴたりと止まる。
「どうしてみんな邪魔するんだよ、俺は……っ」
 驚いた色を浮かべて小太郎を見上げる菊の顔は、幼い頃とは最早違って、小太郎の目線よりも随分と下にある。
 もう小太郎は子供ではない。背は伸びた。身体つきも大きくなった。毎日に必死に歯を食いしばって鍛え上げ、力も強くなった。弱虫泣き虫と苛めてくるような相手はもう居らず、身分差や年齢差を盾に突っかかってくるような者が居たとしても、それを上手くかわしていなすだけの処世と知恵も身に付けた。もう決して泣かないし、自分の事は自分で全て出来るようになった。身の回りの世話で誰かの手を煩わせるような事ももう無い。
 子供だったのは以前の事だ。今はもう違う。――……違うのに。

「俺は早く大人にならないといけないのに……!」

 叫んだ声は、低い。



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