二人迷子(ふたりまいご) (1) 夕方になると寂しくなる。 それは、一緒に道場で竹刀を振っていたり与えられた雑用を片付けていたりした仲間達を、その母親が迎えに来るのをどうしても見てしまうからかもしれないし、純粋に日が落ちかけて暗くなってくるのを薄ら怖く感じるからかもしれない。 理由は判然としない。しかし確実に言えるのは、夕方になり、辺りが薄暗くなり始めると小太郎は、菊の顔を見ずにはいられなくなると言う事だった。 「おいチビ。お前、今日はもう帰っていいぞ」 頭目の一人娘に拾われて養われているとは言え、皆からの小太郎の扱いは屋敷の下働きと大差無い。修行を課せられていない時は周囲の大人達に指示されて、こまごまとした雑用をあてがわれている。 辺りが暗くなりかけ、あちこちから立ち上った夕飯を作る煙の香りが鼻をくすぐり始めた頃、小太郎はようやく本日の御役御免を言い渡された。小さな肩に担いでいた薪束をよいしょと下ろし、かけられた声にこくりと大きく頷く。 そして、今日の飯はどこそこで貰え、という大人達の言葉も半分聞きで猛然と駆け出していった。菊の顔が見たかったからだ。 夕暮れ時、大抵の場合の菊は、道場に最後まで残って鍛錬に励んでいるか、葛木屋敷の奥向きで日が落ちるまで読書や座学に勤しんでいるかのどちらかである。小走りで確認しに行った道場に菊の姿は無かった。ならば屋敷の中だと、小太郎は再度駆け出した。 屋敷の中を走ると怒られるので、目指す場所へは庭を突っ切ってゆく。垣根をくぐり抜け、庭石を踏み越え、葛木屋敷の最深部を小太郎は目指す。 走る。 小太郎に母は居らず、父も居ない。菊に拾われる前は確かに両親や家族と暮らしていたが、今となってはその顔すら思い出せない。思い出そうともしなくなったのは、もう随分と前の話だ。元気で暮らしているのか、死んでいるのか生きているのか、それすらも分からない。 更に走る。 小太郎が今住んでいる場所は忍の里だ。大人の誰かに頼めば家族の安否くらいはひょっとしたら分かるのかもしれなかったが、今更知ってどうするという気持ちもあった。 自分は要らなくなって捨てられた子供だ。会いに行って喜ばれるような事は、きっと無いだろうと小太郎は幼心に理解している。 捨てられる前、まだ実の家族と共にいた頃――その頃は今とは違う名前であった自分を、日々慈しんでくれていた母の手の温もりが恋しくないと言えば嘘になる。会いたくない訳ではない。 ――……だけども。 走り、そして立ち止まる。 傾いた西日が差し込む部屋の中、読書なのか端然と机に向かう菊の背が見えた。いつもの道着姿で机に向かっている所から見て、稽古の後にそのまま座学に入ったのだろう。 二度三度と大きく息を吸って吐き、整え、大きく開かれた障子の元へと駆け寄って行く。庭から縁側へよじ登り、同時に草履を脱ぎ捨てて部屋に上がる。菊、と声は出さずに口を動かす。 それに合わせ、菊の背中が小さく動いた。 「……今は筆持ってないから」 殊更に振り返ったりはしない。少女の落ち着いた声が夕暮れ時の部屋にさらりと響く。 「構わないぞ」 その言葉が終わるか終わらないか。小太郎は、菊の背中に抱きついた。 「甘ったれ」 「うん」 正座した菊の背にべたりと張り付き、小太郎は額を菊の背中に擦り付ける。一度その現場を見た菊の母親は、まるで猿の親子のようだと笑ったが、正にその通りの様相だ。 ただ、猿の親子とは決定的に違う事がある。 この親子は、どちらもが子供だった。 「仕事は終わったのか」 「うん」 「夕飯は」 「今日はお屋敷の台所でもらえるって、さっき確か」 「じゃあまだ食べてないのか」 早く行かないと食いっぱぐれるぞ、と呟いた菊の視線は未だに机上に釘付けで、読書に夢中でどこか上の空だ。そんな菊の温かな背に再度額を擦り付けて、小太郎はうんと小さく声を返す。 目を閉じると、菊の心音が微かに伝わってくる。 どうしようもなく充足した安堵を感じ、小太郎は大きく息を吐いた。 「小太郎の、甘えん坊」 囁くような菊の声は、微かな笑みを含んでいる。 「甘えん坊でいいよ」 「よくないだろ」 菊の背が揺れる。赤ん坊をあやしつける時のように、ゆったりと左右に揺れる。 「いいんだ」 その揺れに身を任せながら、小太郎が呟く。 「甘えん坊の方が、菊とずっと一緒にいられるだろ……」 そうかあ? と返って来た菊の声は、穏やかな響きだった。小太郎は菊の身体に回した腕に力を込める。 「そうだよ」 白木綿の道着のざらついた感触に頬を当てて甘えつきながら、小太郎は息を吐く。 これから先も変わる事無くずっと一緒なのだと、根拠も無いのに信じていたこの頃が、二人にとってはきっと一番幸せだった。 「……ずっとこのままがいい」 それが不可能な事だと小太郎が気付くのは、この幸せな午後から何年も経ってからだ。 菊よりうんと背が伸び、足や掌が大きくなって腕の力もずっと強くなり、いつの間にか声も低くなって、顔付きも大人の容貌に近くなって、幾許かの知識を身に付け――そして小太郎はようやく理解した。 いつでも傍に居てくれた幼馴染が、本当は最初からずっと、自分の手の届かない所に居た事に。 |