(9)


 走り出して暫く後。今まで順調に走り続けていたトラの様子が、急に変わった。
「…………トラ?」
 騎乗したまま小さく首を傾げ、小太郎がかすれた声でつぶやく。

 氷室を出て大分経った。
 丈夫なトラとは言え、そろそろ息が上がってくる頃だというのは分かる。だが、疲れで足が鈍るならばともかく、何故か速度が増したのだ。
 足が速まり、そしてどことなく落ち着きがないトラを御しつつ、手綱の握りすぎで擦り切れて血のにじむ手の平でトラの首を撫でてなだめてやって、小太郎は首を傾げる。
 周囲に何かあるのかと走らせたまま見渡すが、この周辺に丈高く生い茂る木立のため、月明かりからも遮断された山道は一層暗くて、夜目はかなり利くはずの小太郎でさえ見え難い。
 トラの前方に掲げた灯が無ければ何も見えないだろう。周囲は未だ荒れた岩肌ばかりで、民家のある気配すら無い。

 道程の半ば過ぎほどは来たのだろうか。月は氷室を出た時よりもかなり傾き、もう数刻もすれば東の空がほのかにでも白く色づいてくるだろう。騎乗し、手綱を握るだけとは言え、乗馬はかなり体力を使う。まだまだ子供の小太郎の疲れはそろそろ耐え難いものになっている。出発時よりも溶け出しているとは言え、多くの氷を荷駄として乗せられ、小太郎さえも乗せて走るトラは、訓練された馬であるとは言え疲労もさらに大きいだろう。

 だが、それでもトラはますます速度を速めていく。
 何かがおかしい。
 訝しみ、何かあるのかと再度入念に周囲を探り――そして、小太郎は気が付いた。
「―――臭う……?」
 微かに漂う異臭。血生臭さとは一線を画すが、それでも不快に鼻につく臭い。ぬるい風に乗って鼻腔に届いてきたそれに、小太郎はトラを走らせながら神経を研ぎ澄ます。

 日頃から鍛錬されている感覚に届くのは、規則正しく駆けるトラの足音に周囲から混ざる雑音。 意識して捉え、今度はしっかりと感覚に残った先程の臭い。
 加えて――――獣の唸り声。

「狼……?!」
 気づいたが為に一層濃く感じられる獣臭に、背中を伝う汗が一気に冷たくなった。
 跳ね上がった心臓を何とかなだめすかせ、息を吐き、更に感覚を澄ます。突然の恐怖に歯の根が合わなくなって落ち着くのにかなり手間を食ったが、それでも何とか周辺を背だけで探る。

 山道を駆けるトラを追い、付かず離れずで並走する足音は複数。それも音の乱れ具合からしてかなり多そうだ。
 どこから後を付けて来ていたかは定かではないが、隠れていたものがトラが疲れて足が鈍ってきた頃合を見計らって姿を現したのだろう。
(……どうしよう……!)
 小太郎の額を、冷たい嫌な汗が流れ落ちた。
 狼に気が付いたトラが速度を上げたため、今は狼達とはある程度距離がある。だが、次に速度が落ちた時、また引き離せるかどうかは分からない。
 小太郎の手持ちの武器は懐中の苦無一本。たったそれだけのもので、群れで追って来る狼を退ける事など不可能だ。追ってきている狼が例え一匹であったとしても、小太郎の手には余りあると言うのに。
(どうしようどうしようどうしよう――!!)
 手綱を握る手に力がこもる。目尻にも涙がにじみ始めた。

 菊に氷を届けねばならない。だが、里まではまだ遠い。
 頼れる大人はいない。自分でどうにかしなくてはいけない。
 幸い狼たちとは距離がある。上手く行けはこのまま逃げ切れるだろうか。……一瞬考える。
 ――否、トラの足にも限界はある。次に速度が鈍った時、狼たちは容赦無く襲い掛かってくるだろう。

 どうしようもない。
 だが、悩む暇も、怖がって泣く暇も、立ち止まる暇すらない。
 無事に戻って菊に氷を渡さなければならないのだ。その為には自分一人で考えて、自分で何とか切り抜けなければ―――

「…………怖い、けど!」
 そして決める。
 トラに余力があるのなら、今のうちに一気に引き離す――!
「――――行け!!」
 鐙を踏み、立ち上がって勢いよく手綱を鳴らした。
 小さな主と重い荷駄を乗せ、それでもトラは声に応えて、山道を踏み抜く勢いで猛然と勢いを増す。

 だが、遅かった。


「うわぁっ!」
 ガクンと身体が傾ぎ、馬上から落ちかけて小太郎はトラの首に抱きつく。振り落とされないようしばらく必死に抱きついて、それでもやはり地に転げ落ちて、二転三転した後に何とか体制を立て直した頃には、荒れた山道に無残に倒れたトラの足はすっかり止まっていた。
「トラ………!」
 ――流石のトラも、既に限界だったらしい。
 再度の加速に無理が来たのだ。がくりと足を地に折って、泡混じりの荒い息を吐くトラの姿を見、小太郎は絶句した。
 トラの吐く息に混ざり、狼たちの足音が耳に届く。駆け寄り、手綱を引いて何とか先へ進ませようとするが、疲労からかトラは既に立ち上がる事も出来ない。
 蹄鉄で何度か地面を削り、トラ自身も立ち上がろうと身体を浮かすが、どうしてもそれ以上は持ち上がらない。
 
 不意に狼たちの足音が止んだ。
 こちらの様子を伺っているのだろう。暗闇の中、狭い山道の周囲に自分たちを囲むように広がっていく獣の気配を感じながら、小太郎は今の自分が意外に冷静な事に気が付いた。
 ――死ぬ気になれば何でも出来ると菊が言っていたなと、今更のように思い出す。

 武器になるようなものは懐中の苦無一本。
 トラを守り自分を守り、そして野生の獣を撃退するなど到底無理だ。
 狼が数匹唸りを上げる。
 最悪の状況として考えていたより頭数は少ないようだがそれでも多い。暗闇にまぎれて定かではないが、なかなか近寄ってこないところを見ると、数にあかせて狩りをするような群れではないらしい。
 だが、どっちにしろ小太郎にとって狼は、一匹であっても強敵だ。これは戦おうなどと考える以前の問題であって、この状況においての小太郎は、ただ捕食される側でしかない。 
 
 ――――ここで喰われるのかと思い至った時、不思議に心は穏やかだった。


「菊、ごめんな……」
 菊にどうしても氷をあげたかったんだと、誰に言うでもなく小さくつぶやく。
 怒る時は怖くて厳しくても、普段の菊は小太郎にとって充分に優しい。
 菊は、小太郎が帰って来ない事を悲しむだろう。むしろ獣に負けた不甲斐なさを怒るのかもしれないが、ひょっとしたら泣くかもしれない。
 こんな事で泣かせたくないなあと頭の片隅で考えて、それでも身体は狼たちの攻撃に備えて構えを取った。
 苦無を握り、立ち上がれないトラを背に庇って、暗闇の狼を見据える。
 
 ……もしも菊がこの場に居たならば、最後まで諦めるなと小太郎を叱咤しただろうから。
 易々と屈するな、抗えと、菊ならば言うはずだから。
 

 闇にはたくさんの眼が光っている。
 冷たく粘りつく汗が、震える背を伝うのを感じながら、小太郎は自身の心音を数えていた。



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