(10) 奥深い山道だ。 周辺に民家など無く、鬱蒼と茂った樹木の所為で月明かりもひどく遠い。 辺りを照らすのは、自分が用意した松明から炎を移した提灯のみ。だが、もはやそれも、トラが倒れたときの衝撃で地に落ちて燃え上がり、小さな焚き火と化してしまっている。 狼たちはそんな小さな炎など意にも介さず、じわりじわりと包囲を狭めてくる。 逃げようにも、闇に埋もれる山道では獣相手にどうしようもなく、加えて、トラを置いていく事は小太郎には出来ない。 大きく息を吸う。 粘りつく夜気に乗って獣の臭いが鼻につき、唸り声が心の平静を奪う。 心中で意味もなく数え続ける心音は無駄に大きく、しかし不思議にゆっくりだ。 喰われて死ぬのは痛いだろうか。 せめて一口に食べてくれるなら痛みも少ないだろうが、そういう訳にもいかないだろう。 トラが小さくいなないた。 大丈夫、怖くないよ、とつぶやいて、一番怖がりなのは自分のはずなのにと少し笑う。 口の端だけで笑んで。 狼達に視線を戻して。 菊の名を小さくつぶやいたその時。 ――――それは唐突に、来た。 突如、耳を突き破るような轟砲。 「?!」 落雷にも似たそれは山道に轟いて響き渡り、狼も小太郎も総ての動きが止まる。 驚愕に目を見開く間もなく、小太郎の背後、暗闇の山道から即座に第二砲が来た。 「な………っ?!」 小太郎の目の前で今正に獲物に襲い掛かろうとしていた狼が跳ね飛ぶ。一発目は威嚇で天を撃ったが、二発目は正確に狼の眉間を撃ち抜いたのだ。 驚いて目を凝らす闇の中、ちりちりと小さな灯が揺れながら見える。 ほのかに見えた灯は二つ。それは馬蹄の音を荒々しく響かせてこちらへ疾駆する。 同時に声。 声は、闇を掻き消す勢いで小太郎に向かって雄々しく響く。 「――伏せよ!!」 命じる事に慣れた声音のそれに反射的に応じ、小太郎が頭を抱えて地に這いつくばったと同時。 二匹目の狼が悲鳴と鮮血とを散らして地面に跳ねた。 響いた声、暗闇で正確に獲物を撃ち抜く手腕。そして、悠然とこちらを見据えるその瞳。 「お……おか……っ」 「帰りが遅いと思ったら、こんな所で喰われかけていたか。危なかったな」 間違いなかった。 「―――御頭さま………っ!」 菊の父親であり、屋敷の現当主であり、一ヶ谷衆を束ねる御頭だ。 そして一歩遅れてもう一頭、御頭の乗るものと比べても見劣りしない見事な馬が並び立った。と同時に馬上から罵声が響く。 「貴様の馬鹿さ加減には開いた口が塞がらんわこの大馬鹿者! 御頭がどうしても行くと仰らなかったらお前など放っておいたものを! ……このど阿呆が、後で十二分に説教してやるから覚悟しておけよ……!」 「高次、いいから次」 「火縄は予備まで入れて三挺しか持って来ていないと言ったでしょう! もうありません!」 「……そうか」 残念そうな口ぶりとは裏腹に、素早く懐を探って棒手裏剣を二本投げ放つ。揺れる馬上からそれでも正確に狼を二頭同時に仕留めて、未だ倒れ付したままのトラに器用に馬首を巡らし御頭が近づいた。 「これはしばらく動かさん方が良さそうだな」 「虎御前は菊様もご愛用の馬、大事あっては菊様が悲しみます。私が後で責任持って連れて帰りますゆえ、御頭は先に」 狼の臭いに興奮する愛馬を軽くなだめつつ、高次が下馬する。腰に下げた刀を引き抜き、狼を牽制しながら、地面に座り込んだままの小太郎の前に悠然と立つ。 「――たかが犬、物の数ではありません」 「まあ俺の側役なら当たり前だな。よし、では先に戻っている」 二人とも、仲間を殺られてますます殺気立つ狼たちなど気にも留めていない。 御頭が口を開いた。 「面倒な事は高次が片付けてくれるらしい。行くぞ小太郎」 「でも……っ」 「お前の師匠は殺しても死なん男だ、案ずるな。――それより」 御頭が馬から降りる。安堵で腰でも抜かしたのか、へたり込んだままだった小太郎の、その血だらけの手の平に顔をしかめつつも、頭を一つ乱暴に撫でた。 そして伏したトラに付けられた積荷を指し、笑う。 「早くしないと溶けるぞ。……菊にやるのだろう?」 微笑む表情は父親のそれだ。みるみるうちに目に涙を溜めながら大きく頷く小太郎に、満足げに笑いかけて氷入りの籠をトラから外し、自分の乗ってきた馬に手早く括りつける。 そして小太郎を自分の座する鞍の前に抱きかかえると、一声大きく高次に叫んだ。 「ではな高次、お前もさっさと戻れよ。間違っても狼になぞ喰われてやるな」 「御意」 高次は振り返らない。唸り声を上げて自分を狙う狼達を見据え、不敵に薄く笑むばかりだ。御頭もそれ以上は特に何も言わず、来た方向へと黙って馬首を反して走り出した。 抱きかえられ、安心と疲れとで眩む眼で高次を振り返って見やり、小太郎が叫ぶ。 「師匠……っ!」 「戻ったら説教だ、逃げるなよ」 こちらを見もしないで吐かれた台詞だが、どことなく笑みが混じっている気がするのは気のせいか。助けに来てくれた人とトラとを置いていくのがしのびなくて、小太郎は自分を抱える御頭を見上げた。 「お前は氷の心配だけしていればいい。さあしっかりつかまっていろ」 獣の唸り声が遠くなり、暗闇に高次の姿が埋没していく。小太郎たちの後を追おうとする狼を打ち払う音だけが耳に残った。 「ああ見えてもな、高次はお前をずっと心配していた」 御頭の言葉が遠いところで響く。疲れで思考が霞み始めた小太郎は、頷くのが精一杯だ。 「菊も心底心配している。――さあ、早く帰って、娘を安心させてやってくれ」 大きな腕に抱えられ、真夏の氷と小太郎は、夜道をひたすら疾駆する。 |