(11) 「菊様は……」 「ムリヤリ飲ませた薬がまだ効いてます。今はぐっすり眠ってるんですけど……」 「――で、小太郎は」 「それがまだ帰ってこないんです……!」 時は早朝。菊の部屋の前の、庭先。 夜が明けるのを待って早速尋ねてきた老薬師に対し、北の方が溜息を吐く。 「あの子をなだめるのに、本当にどれだけ苦労した事か。挙句、主人も高次殿も昨夜から姿が見えないし、もうどうしたらいいのか……」 実の娘は高熱で伏せり、義理の息子とも呼べる子供は行方不明。その上、頼みの綱であった夫までいつの間にか何も言わずに出かけてしまっている。夫の行動が読めないのはいつもの事だが、何もこんな時にまでと吐息混じりにつぶやく北の方の表情は、疲れの色が濃い。 夏の朝だ。太陽は昇り始めたばかりだが、これから更に暑くなっていくだろう。 こんなに心痛が重なってはこちらが参ってしまうとばかりに、太陽を見上げて北の方が再び大きく溜息を吐いたその時だった。 「御頭がお戻りです――!」 「小太郎もいます!!」 「なっ」 「おお、小太郎、戻ったのか……!」 早朝の屋敷がにわかに慌しくなり、庭先にどやどやと人が入ってきた。 騒々しく庭に入ってきた人々の先頭は北の方が一番探していた御頭その人で、腕にはしっかりと小太郎を抱き上げていた。 その小太郎は泣きそうな――否、さんざん泣いて涙も既に枯れ尽くしたように乾いて強張った顔つきとボロボロの様相で、それでもしっかりと大きなカゴを抱えている。 「小太郎! あなた今まで……!」 「お方様ぁ」 駆け寄って口を開いた北の方に対し、御頭に抱き上げられたままで小太郎がつぶやく。 「俺っ、菊に会いたい、です……っ、菊に会わせて……!」 弱々しい声の最後の方は周囲の喧騒に紛れて聞き取れない。 声を震わせながらも小太郎はカゴを離そうとはせず、言葉に詰まった北の方に、御頭がささやく。 「構わんだろう、会わせてやってくれ。菊は起きているか?」 返事を待たずに縁側に近づき、抱きかかえていた小太郎をカゴごと濡れ縁に下ろす。そして軽く背中を叩いて中へ入るよう促した。 「行け」 その言葉に頷いて、小太郎は、今や随分軽くなってしまった大きなカゴをそれでも引きずる様にして部屋に向かい、障子を開ける。 事情の説明を求める北の方や屋敷の者は総て御頭が引き受け、小太郎は一人菊の部屋へと足を踏み入れた。 早朝の部屋の中は薄暗い。天井から吊るされた蚊帳の中は更に暗いから、菊の姿は外からは見えない。 「…………菊」 障子の横、縁側から呼びかける。――だが、返事は無い。 仕方が無いので蚊帳の側までカゴを引きずって行って、その場から再度呼びかける。 「菊」 「聞こえてる、バカ」 ぼそりと小さい返事。その声に弾かれたように、小太郎は蚊帳をめくり上げて菊の枕元へと進む。 「菊……」 「やっと見舞いに来たか。この、薄情者」 菊はこちらに背中を向けて布団に横たわっている。背を向けたままで小さくつぶやく声からは、表情は読み取れない。 「お前がそんなに薄情だなんて思わなかった。小太郎のバカ、今ごろ来たって遅いんだからな」 心からそんな風に思っている訳ではない事は、不必要に固い声音から安易に知れる。 だが、言い訳をするでもなくその場にただ突っ立っている小太郎の態度は、菊をさらに苛立たせた。 もっといつもみたいに謝ればいいのに、と。 昨夜どこに行っていたのかは結局教えてもらえなかったので知らないが、今まで見舞いに来られなかった理由は菊も分かった。いつものように一生懸命言い訳をして、俺だって来たかったけどと一言いつものように言ってくれれば、菊はそれで充分なのだ。 そうすれば菊も意地を張らずに素直に、私も会いたかったと言える。 ――だが、小太郎は何を言うでもなくただずっと立っている。 立って、黙って菊の背中を見下ろしている。 「用があるならさっさと言え」 そんな風に言うつもりは無かったが、固い声音は薄暗い寝室に冷たく響いた。 嫌な言い方をしてしまったと言った後で後悔しながら、菊は小太郎が口を開くのを待つ。 「ごめん、菊」 ようやく小太郎が口を開いた。聴こえてきたそれは、菊が期待していた通りの謝罪の言葉。 だが、その後に続いた言葉は、菊が予期せぬものだった。 「……ごめん、俺、菊に氷をあげたかったのに……」 間を置かずつぶやく。 「俺、がんばったけどダメだった。すごく頑張ったつもりだったけど、でも全然ダメだった。ごめん菊、ごめんな、おれ……っ」 意外にも程があるその言葉に、菊は上半身を起こして急ぎ振り返る。 開けられた障子から差し込む朝日、逆光で小太郎の表情は良く見えない。だが、菊の枕元に立ち尽くし、歯を食いしばって嗚咽を堪える小太郎は―― 「小太郎?! お前、どうしてそんな……!」 菊が息を呑むくらい、酷く酷く傷だらけだった。 小さな手の平は醜く皮が破れ、爪さえも傷んで剥げており、応急処置にと巻かれた布の上にまで血が滲み出している。 着物は肩の辺りが擦り切れて破れ、これも同様に生々しく血の滲んだ肌を露出させていた。 顔は、どこかで転びでもしたのか額や頬があちこち大きく擦りむけて、それがひどく痛々しい。 そんなひどい格好でも小太郎は尚、場違いに大きなカゴをぎゅうっと抱え、突っ立っていた。 「小太郎っ!」 つまらない事で怒っている場合ではない。血の気が一気に引いた菊が思わず叫ぶと、小太郎はぺたりとその場に腰を落とした。 普段はあれほど泣き虫の癖に、その目に涙は浮かんでいない。ただじっと床を見つめて嗚咽を堪え、そしてしばらくの後にようやく菊と目を合わせた。 「菊に早く良くなってもらいたかったんだ」 「な、」 「だから俺、氷を取りに行ってて、いっぱい持って帰ってくるつもりで」 「何を……、小太郎……」 菊が小太郎に手を伸ばす。擦り傷だらけの頬に触れ、ゆっくりと撫でてやると、小太郎もボロボロの手で菊に触れてきた。 自分の頬を撫でる手を取り、それを握る。傷が痛むのか力は入っていなかったが、菊のその手に顔を押し当て、目を閉じて感触を確かめるようにし、そしてつぶやいた。 「――だけど俺、役立たずだった。御頭さまや師匠に助けてもらって迷惑かけたのに、氷なんて全部溶けちゃって、結局なんにも残ってない……!」 菊の目の前、枯れて乾いていたはずの小太郎の瞳に、見る見るうちに涙が満ちる。 堪えきれずにひとつしゃくりあげたのを合図に、ボロボロと涙は頬を滑り落ちて小太郎はとうとう声を上げて泣き出した。 傷だらけの酷い格好のまま、菊の膝にすがるようにして小太郎は嗚咽する。 「……なんで泣くんだ。小太郎は私のために頑張ってくれたんだろう? なら、もう、それだけで私は本当に嬉しい」 自分の膝にすがりつき、痛々しい姿で泣く小太郎に、震える声で菊がつぶやく。 「小太郎。………お願いだから、泣かないで」 小太郎が頭を振る。結局何も出来なかった自分の無力さが悔しくて、どうしても泣き止む事ができない。 いつも菊に何もしてやれないから、今回こそはと思ったのに。 それなのに自分は―― 「邪魔するぞ」 突如、中途半端に開いたままだった障子が大きく開けられ、のっそりと御頭が入ってきた。 泣きじゃくる小太郎と、今にも泣きそうな菊とに目をやり、二人して何をしているのかと首を傾げる。 「早くしないと溶けるだろうが」 言い放ち、膝に小太郎の頭を乗せたままの菊に黒塗りの椀を放り投げた。 「っ?!」 突如投げられたその器を唖然とした顔で受け取り、菊が口を開く。 「…………父上、これは……?」 「持って来てやった。さあ、こぼすなよ」 御頭がおもむろにカゴを掴む。 菊が椀をきちんと持ったのを確認して、カゴを引っくり返した。 「な……っ」 二度三度と振る。 ボタボタと冷たい水がカゴから垂れ落ち、そして、 「あ――!!」 小太郎が叫ぶ中、コロリとぽちゃんと音を立て、子供の拳の大きさにも満たないような小さな氷が椀の中に転げ落ちた。 「………だいぶ溶けたな、残ったのはそれだけか」 勢い余って畳の上にこぼれた水をその辺にあった手ぬぐいで乱暴に拭き、椀の中身を眺めて御頭がつぶやく。 「まあいい。菊、それは小太郎の手柄だぞ。充分に褒めてやれよ」 そして、何事も無かったかのように出て行った。 「……………」 残されたのは、子供が二人。 小太郎はぽかんと口を開けたままだ。 「……ちゃんと残ってたみたいだな」 「うん」 菊が言うと、こくこくと頷いて小太郎が鼻をすすった。 「冷たい。――凄いな、本物だ」 「うん……!」 急いで涙を拭き、満面の笑みを浮かべて菊を見る。 小さな氷は菊が両手に捧げた椀の中で、水に少し浮いている。 小太郎が期待に満ちた目で見つめてくる中、菊はゆっくりと椀に唇を付けた。 周りの水を一口飲み、小さな氷を口に入れる。 口内で充分に転がして冷たさを堪能した後、小太郎にも音が聞こえるように氷を噛み締めた。カリカリと齧り、飲み込んで、――そうして菊は鮮やかに笑う。 「―――ありがとう小太郎。すごく、涼しくなった」 その偽りの無い笑みに、感極まって小太郎が抱きついた。 勢いよく布団の上に押し倒されるような形になりながら、声を上げて菊も笑う。 部屋から漏れ聞こえるその笑い声に、庭先の大人たちも、顔を見合わせて微笑んだ。 |