【終章:物語の現在】


 目を、開く。

 太陽の照りつける真夏の昼下がり。
 障子で外界と区切られた部屋の中は外よりも一層影が色濃く、動きの無い空気は重く、そして暑い。病の熱を帯びた自分の身体はさらに熱い。
 ただ、今日は外には風があるのが唯一の救いか。
「……暑い……」
 汗がひとすじ額を伝い、眠りから目覚めた菊の頬を流れ落ちた。

 こんなにも暑いから、熱に浮かされて変な夢を見た。
 遠い昔、菊がまだ子供だった頃。珍しく夏風邪を引いて、そして寝込んでいた時の夢。
 熱がなかなか引かない菊を見かねて小太郎がかなりの無茶をして、結果、周囲から散々怒られる羽目になった、昔の光景。

 思い出す。
 傷だらけの姿で帰ってきて、さんざん泣いて泣いてそして笑って、最後に小太郎は菊の耳元に顔を寄せて、菊のことが大好きだと言って、やはり笑ったのだ。
「懐かしいな……」
 その時の氷の感触が残っているような気がして、菊は自身の唇に指を這わせた。
 無論そんなものは錯覚に過ぎないが、それでもあの時口にした氷の冷たさは、今でも充分に覚えていた。
「小太郎、か」
 少年は、今はもういない。
 締め切った障子の外、庭から幾人かの子供の声が聞こえてきた。皆で遊んでいるのか、遠くに近くに聴こえてくるそれに、淡く微笑んで菊は再度目を閉じる。

 小太郎は、いない。
 すべては遠い昔の話だ。

 子供達の歓声だけが、夏の庭にかすかにざわめく。


 ――が。


「お前ら黙れ――!! 御頭が寝てるんだぞ! こんな所で騒ぐんじゃない!!」


 突如、子供達よりも遥かに騒々しい声がけたたましく響いた。
「あっ飛薙さんだぁ、おかえりなさいー」
「おかえりじゃない! うるさいから! 違う所で遊べ!」
「飛薙さんの方がうるさいよ」
「声でかいね」
「あっねえ何?! すごいね、なに持ってんの? わー」
「違っ、なっ、だあッもう触るな! ダメっ! 触らない!」
 庭に現れた人物に、子供たちが群がっているようだ。
 障子を締め切った部屋からは外部の様子は分からないが、どんな情景かは会話だけで手に取るように判断できて、眠りかけていた菊は渋い溜息とともに再度瞳を開く。

 騒ぎ立てる子供達を一喝し、その人物は続ける。
「これは御頭のための物だから駄目! お前らの分は向こうにちゃんととってあるから、向こうへ行って、そっちで分けてもらって来い」
「ね、うちの母ちゃんにもあげていい? お腹おっきいから、暑いのが大変なんだっていつも言ってる」
「ああ。里のみんなの分、でっかいのを沢山取って来てる。好きなだけ持っていけばいい」
 その言葉に子供達から歓声が上がり、ばたばたと騒がしい足音たちが遠のいて行って、ようやく庭先に静寂が戻った。
 
 その庭から乾いた足音が響いて菊の部屋まで近づいてくる気配がし、外に面した縁側に人影が上がる。
 思わせぶりに咳払いなどをしたその人影は、手に持つ大きな荷物と共に閉じたままの障子の陰で身づくろいなどをしてから、中にいる菊に声をかけた。
「――御頭」
 先程まであれほど喧しかったくせに、かしこまった声で呼びかける。
「御頭」
「……お前が一番うるさいぞ」
 憮然とした声でつぶやいた菊の声を合図に、障子が開かれた。
 深々と頭を垂れ、縁側に両膝と片手を付いたその人は、ひどく恭しく言葉を紡ぐ。
「飛薙、ただいま戻りました」
「入れ」
 伏したまま菊が命ずる。
 飛薙、と名乗った彼は、脇に置いた大きな荷物ごと敷居をくぐって膝行し、菊の横たわる布団の側近くまで進み来た。
 だが、一定の距離を置いて、飛薙はそれ以上進もうとしない。寝起きで横たわったままの身に視線だけが注がれて、菊は不思議に落ち着かない気分になる。
「……何だ、どうした」
「……いえ。――――寝乱れた姿も、明るい所で見ると格別だなと」
「ドアホか!」
 神妙な顔つきでつぶやいた飛薙に、菊は思いっきり枕を投げつけた。
 夏風邪を引いて伏せる菊は、真夏と言う事もあり、身につけている物と言えば寝間着に帯が一本だけだ。
 薄手の掛布団を胸元まで引き上げて身体を隠し、投げつけられた枕を手に笑う飛薙を睨みつけながら、菊が口を開く。
「笑うな! 何を、今さら……っ」
「まあそうだな、違いない」
 笑んだまま肩をすくめる。
 そして、先程までの殊勝な態度はどこへやら、受け止めた枕を片手に飛薙はざかざかと大股に進み、菊の枕元へどっかりと座り込んだ。
 そのまま憮然とした表情で丸まって横たわる菊の前髪を指先で梳いたのち、枕を頭の下に戻してやって口を開く。
「こないだ請けた仕事な、細かいとこは師匠達と打ち合わせて済ませてきたから、特に問題はないと思う。後の人の配置はお前の熱が下がったらきちんと相談するから、今は休む事だけ考えてくれ。―――風邪ひいた時くらい、俺を頼ってくれてもいいと思うぞ」
 菊の髪を撫で、そのまま熱の抜け切らない額に手の甲で触れて、飛薙が穏やかな声で告げる。だが、それでも菊は憮然としたままだ。
「……どうした?」
「別に」
 返事はあくまで素っ気ない。
「なんで怒ってんだ? さっきのはそんなに怒るような事か?」
 飛薙が首を傾げる。
 明るい所で見ようが暗い所で見ようが、菊の寝姿やその他を見慣れている事に今さら変わりは無い。御頭名代としての任務でしばらく離れていた分、久々に顔を見たのが嬉しくて、何でもない事を少々からかったに過ぎないのに。
「……別に、と言っている」
 飛薙の手から素っ気無く逃れ、寝返りを打って菊が背を向ける。
「ずいぶんとゆっくりした戻りだったじゃないか。たかだか名代で城下へ行って戻るのに、何故こんなにもかかるのか、不思議で仕方が無い」
 その声音は固くて冷たい。
「御頭?」
「………………」
 そして小さく、どこぞで良からぬ遊びでもしてきたんじゃないだろうなと。
 本当に小さくぼそりとつぶやいた。

「――――分かった」
 飛薙が、その言葉に満面の笑みを浮かべる。
「お前、俺がいなくて寂しかったんだな?」
「…………」
 返事は無い。
 ――だが、そのかわりに否定も無い。

「ああそうか、そっかそっか」
 笑み崩れて飛薙が枕元に倒れこむ。
 そっぽを向いた菊をその肩口ごと抱き込んで、耳元に口を付けた。
「分かりにくい事この上なくても、やっぱり菊は可愛いなー」
「主を名で呼ぶな! クソ、この痴れ者が……!」
「二人の時は名前で呼べつったのは菊だろ。こういう時に御頭呼ばわりすると怒るくせに」
 唇で触れる耳朶や頬が熱いのは、けして病の所為だけではないはずだ。
 腕から逃れようともがく菊相手にひとしきり愛情表現をし、一人だけ満足して飛薙は身体を離した。
「……遅くなって悪かった。でも、許して欲しい」
 起き上がり、持ってきた荷物を手繰り寄せる。

 白布で軽く覆いをかけており、よく育った西瓜程度の大きさがある。
 木桶に入れられたそれは水気を多く含んでいるようで、その白布は濡れている。
 そこから漂う、真夏らしからぬ冷気。

 目には入っていたが、気にはしていなかったそれを、起き上がって菊はまじまじと見つめ、黒い瞳を瞬いた。
「まさか」
「まさかって?」
 意味有り気に飛薙が笑う。
「菊が夏風邪引くのはアレ以来だからな。早く良くなってもらおうと思って、任務ついでに気張ってたくさん取ってきた」

 そして。
 勢いよく白布を剥いだそこには、真夏の氷。
 あの夏に口にしたものとは比べ物にならぬほど大きな氷が、冷えた空気をまとってそこにあった。

「……でもまあやっぱあそこは遠いな。我が事ながら、よくもまあガキの時分にあんな所まで行ったもんだと感心した」
 つぶやいて、懐から小刀を取り出す。桶に入れられて汗をかく氷を軽く削り、指に乗せて菊に差し出した。
「ほら」
 口を開けるよう促す。
 その微笑む表情は、子供の頃と少しも変わらない。菊が喜ぶであろう事を確信して、無邪気な期待に満ちている。
 差し出された指に自分の手を添え、菊はその氷を口に含んだ。
「……美味いか?」
「ん……」
 口内で溶けた氷がゆるく喉を下りる。
 そのまま飛薙の指に軽く口付けて、菊は微笑んだ。
「―――……小太郎」
「小太郎じゃない」
 幼い時の名で呼ばれ、飛薙が眉をしかめる。
「よく合ってていい名前じゃないか。私がつけたんだぞ」
「……もうチビじゃないだろうが」
 渋い顔でつぶやいた。
 図体ばかり大きくなっても、そんな拗ねた顔ですらあの頃と同じで、それがおかしくて菊は緩やかに笑った。視線を合わせて小さく囁く。
「小太郎は小太郎だ。何も、変わってない」
 腕を伸ばす。
 細い腕にたやすく飛薙――小太郎は捕えられ、菊に抱きしめられた。
 しばらくはその姿勢のままブツブツと耳元で苦情を述べていたが、菊が笑んだまま黙殺するうちに、諦めたのか静かになる。
 ややあって、菊の背に小太郎の手が回された。
 違う熱を孕み始めた柔肌を胸元へ強く引き寄せ、一瞬視線を合わせた後に、小太郎は目を閉じる。


 氷の溶け落ちる音がかすかに聴こえる静寂の中。
 庭で遊ぶ子供達の歓声だけが、遠い。


―― 終 ――




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