(8)


「………着いたぁ………!」
 当初の予定とは裏腹に、老薬師のくれた地図に記された氷室に到着したのは、日も暮れかけた頃。辺りはすっかり薄暗くなり、昇りはじめた月が沈みかけた太陽と一緒に荒れた山肌を照らしている時分だった。

 日中走りついだ道中は、真夏の太陽が容赦なく照り付ける岩だらけの山道。しかし、かと思えば要所要所で鬱蒼とした樹木が生い茂って行く手を阻む、子供には過酷なものだった。
 ようやく到着したその場所――氷室も、特に目立った入り口があるわけでもなく、道中の山道と何ら変わりが無いほどそっけない造りだ。一歩間違えればそのまま通り過ぎてしまいそうな様相である。
 山道から脇に入った切り立つ崖面に、大人二人が並んで入れるかどうかの幅で風穴のようなものがあり、そこから地下へと続く岩道が奥へ伸びていた。

 夜陰に紛れはじめた周辺の風景と、地図に記された地形の詳細とを丹念に見比べながら小太郎が馬上で歓声を上げる。 
「あートラっ頑張って走ってくれてありがとう! 地図に載ってるの、絶対ここだ……!」
 きっとこれが老薬師の言っていた氷室とやらに相違ないと、小太郎は力強く頷き、ようやく到着の喜びに、疲労で呼吸を荒げながらも満面の笑みでトラの首筋に抱きついた。
 炎天下を休み無く走り続けさせたせいでトラもかなり疲れていたが、忍の使う馬として日頃の手入れが万全に行き届いているためか、帰路を走る余力はまだありそうだ。嬉しそうに一声嘶き、馬上から腕を絡める小太郎にその鼻面を寄せる。
 トラに差し伸べたその手の平は、長時間手綱を握り締めていたせいでひどく擦り切れて血が滲んでいたが、今の小太郎にはそんな事は気にならない。
「さあ氷……!」
 荒い息を吐くトラを手近な木に繋ぎ、氷を取るのに使えそうだと思って持ってきたカゴなど一式を小さな肩に担いで、深い闇の中にある氷室へと小太郎は足早に向かう。

 真夏とは言え、時はすでに宵の初め。
 ましてや氷室の有るような深山の中ともなれば、辺りの温度はかなり低い。汗で濡れた身体が急速に冷え、体温が逃げていくのを感じながら、小太郎は氷室の入口の岩場に立つ。
 奥へと伸びる石道は相当古く、下手をしたら崩れてしまいそうに荒れ放題だ。きっと老薬師が発見した当時も今も、誰にも使われてはいないのだろう。遠い昔にここの辺りを支配した、豪族か何かが造らせたものなのだろうか。
 そんな事を考えながら軽く松明を掲げ、内部を覗き込む。
「……うわ」
 暗い。
 そして中は寒い。冷えた風が暑い夜気と混ざって心なしかねっとりと顔を撫でてくる気がする。
「……………」
 そう言えば今まで夢中だったので全く気がついていなかったが、周囲はすでに真っ暗だ。
 小太郎は夜目が利く方だし、今夜は月が出ているためか視界に困るという程ではないが、それでも辺りの木陰に紛れてしまうと、何がどこにあって何が潜んでいるのかなどは分からない。

 見知らぬ土地。深い山中。――そして、暗闇。

 何か獣がいたとしても不思議ではない。
 小太郎の背が震え、たまらずに後ろを振り返った。だが、繋がれたトラは辺りの暗さや小太郎の事などお構い無しでのんびりと休んでいるように見える。
 ……氷室の中までついて来て欲しいのだが、いくらなんでもそれは無理か。
「怖くないー怖くないー……。うわー菊ー……」
 松明をしっかり掲げ、背に負ったカゴとその中に突っ込んだ道具の重みを確認しなおして、一歩中へ踏み出す。

 途端、外よりもずっと冷えた空気が肌を刺した。
 知らずの内に喉が鳴る。

 ――間違いない。きっと氷はある。

 確信に後押しされ、小太郎はさらに中へと踏みこんだ。
 ……怖がっている場合ではない。息を吸い込み、覚悟を決める。



 岩窟内に作られた石畳を踏みしめながら進む。道は一本、緩やかに曲がりくねって起伏しながら、奥へ奥へと向かって伸びているのみ。
 表から想像したよりも存外に内部は広く、そしてひどく湿っている。岩肌を水が這い、所々の地面や岩陰に大きな水溜りを作っている事から察するに、内部岩盤の隙間から湧き水が染み出ているようだ。
 松明の炎が歩みに合わせてゆらゆらと揺れる。吐いた息が白い。背筋が痺れたように震えるが、これはきっと寒さのせいだけではないだろう。
 小太郎は、暗闇の中をひとり進んでいく。
「うー……」
 あまりの寒さに、手の平の傷が今更のように痛み始めた。
 分厚い岩盤で外界から隔離されたここは、外の熱帯夜が嘘のような冷気に満ちている。この寒さなら、真夏に氷があったとしても不思議ではない。
 ……だが、こんな暗い中を、一体どこまで行けばいいのだろうか。
 先に進まなければという意志と、暗闇に一人でいることの恐怖が順番に巡ってきて、小太郎はその度に後ろを振り返る。

 しかし、こうやって臆病風に吹かれた時に、いつも隣で自分を叱咤してくれていた人はここにはいない。
 そしてその都度、自分はその人のためにここまで来たんだと強く思い起こす。

 菊を守る為に強くなりたいと、いつも思っていた。
 それでも普段迷惑ばかりかけていて、実際に何かから菊を守れた試しなんて、今まで一度も無い。
 ――しかし。
 ここで諦めず、菊のために氷を持ち帰る事が出来ればきっと。
 ……きっと、それは菊を守る事につながるはずだ。

 ――白い息を吐きながら進む小太郎の耳に、遠く水音が響いてきた。



 己の吐く白い息に彩られた周囲、耳を澄ませば微かに水音が反響している。
 岩窟内に共鳴し、遠くにも近くにも聞こえるような細い水流の音色。こんな洞窟の中にも川が流れるのかと半ば感心しかけ、小太郎は、自身を取り巻く周囲の色合いが徐々に変わり始めている事に気が付いた。
 揺らめく松明の炎に照らされる岩窟内が、炎を反射して白く細かく輝き始めているのだ。しばらく歩き進めるとその煌きは一層顕著になった。
 何の変哲も無かったはずの岩肌が、いつの間にか銀にも白にも、闇に浮かんで蒼白くも見える。
「………ゴミ?」
 菊がいたならば綺麗だの何だのとの言を下したろうが、残念ながら小太郎に美しさを解するような情緒は無い。何の感動も無く、疑問符と好奇心のみで近くの岩壁に手の平をつける。
「痛っ」
 ざらつく冷たさが手の傷に染み入った。慌てて手を見ると、べっとりと濡れている。……この付近一帯の岩壁には、水などこぼれていないのに。
「……ん?」
 何なのだろうと思って松明を近づけてみる。すると、その白く輝いていたものは途端に霧散してしまった。
 岩肌に、雫が伝う。

 ――――これは。

「霜か!」
 振り仰いだ辺り一面、気付けば霜が降りて真っ白だ。踏みしめた足元もよく見ると所々に薄氷が張っている。
「真っ白だ…………霜だ!!」
 松明を大きくかざして目を凝らし、そしてさらに奥に向かって足早に歩き出す。
 受けた光を散らして輝くそれは間違いなく氷の粒で、進むにつれ徐々にその大きさが増している。
 暗いだとか怖いだとかの気持ちが消えた。喜びと予感に胸が一杯になる。
 ついに走り出した。
 時々滑りそうになりつつも、白い息を吐いて岩窟の最奥へ向かって駈けて行く。
 奥からは絶えず微かな水音がし、暗闇の筈なのに何故かほのかに光さえ感じさせる。冷気はますます肌を刺したが、その痛みさえも今は嬉しい。

 ここには水が流れているのだ。そして、この上なく寒い。
 水があって寒いという事は、つまり――

「……ああ……」

 探していたものは、ここにある。



 氷室――岩窟の最奥、身を切るような冷たさのそこは、大人が見上げる程度の天井から細く滝が流れ落ちていた。
 滝は、長い年月の間に思いのほか深く岩を抉ってその場に池を作り、そこから流れが暗闇の方へ緩く伸びて何処かの隙間へと消えている。この水音が先程からあたりに小さく木霊していたのだと知れた。
 滝壺の周り一面には白く凝った霜や小さな雪のかけらのようなものが散らばっている。一歩踏み出した足の下でそれらは脆く溶け散ったが、軽やかな霜はなおも辺りに白く残っている。

 水の流れに角を取られ、丸みを帯びた滝周辺の岩々の隙間にはあちこちで水が溜まり――そして、見事に氷結していた。

「……あった……氷……!」
 小太郎が嘆息する。

 地中深くの水脈内に位置するこの氷室は、真冬ならばきっと分厚い氷に閉ざされてしまうような場所なのだろう。夏でも冷え切ったその岩床には十分に硬く凍った氷塊が転がっている。
 懐から取り出した苦無(くない)で軽く砕いて松明の炎に透かしてみたが、妙な不純物も無い、実にきれいな氷だった。

 あとはこれを持って帰るだけだ。
 持ち帰り、菊に食べさせてやってもいいし額に当てさせてもいい。遠い所から氷を取ってきたと言えば、部屋にだって入れてもらえるだろう。
 菊に、会える。
「よし!」
 俄然勢い込んで辺りを見回す。
 ある程度大きなものを持っていかないと熱帯夜の道中で溶け切ってしまう。なるべくなら抱え込むくらい大きなものがいいのだが、果たしてこの烈夏、氷はどの程度育っているのだろうか。
「大きいのがいい……」
 つぶやく。なるべく大きい氷を菊にあげたい。――少しでも涼しくなれるように。
 岩の割れ目の水溜り、氷の層がなるべく厚そうな所を探して端に座り込み、小太郎は背負った籠を下ろして、懐から再び苦無を取り出した。



「……大丈夫かな、屋敷まで保つかな……」
 氷室から一歩出て、小太郎が夜空を仰ぐ。

 持ち帰るにも溶けにくいよう、なるべく大きな氷塊が欲しかったのだが、如何せん今は真夏。流石に小太郎が期待する大きさの氷は今の時期の氷室内には見当たらなかったのだ。
 それでもなるべく大きなものをと、爪を剥がす勢いで氷を集めて、小太郎は氷室の奥を後にした。
 小さな肩にかかった大きなカゴの紐がぎちりと食い込む。歩くたびに皮が擦れて血が滲んだが、痛いと言っていられる様な状況ではない。大きさが無い分を数で埋めようと、とにかくカゴに詰込めるだけの氷を入れた。小柄な小太郎が担ぐには到底無理があったが、それでもなんとか無理に引きずり上げて、トラの待つ地表へとヨロヨロと這い出てきた。
 小太郎が出てくるのを見つけて鼻面を摺り寄せてきたトラに、大きな氷をひとかけ取り出して食べさせてやる。
「トラ、帰りのほうが氷の分だけ辛くなると思うけど……どうか、がんばって」
 辛いのはもう自分も同様だったが、トラの首筋にぎゅっとしがみついて小太郎がつぶやく。
 トラの背に括り付けて持ってきた荷駄から、わら束と莚(むしろ)、そして細かく砕いた岩塩が一掴み入った小袋を下ろす。
 塩は貴重品なのでそうそう大量には持ち出して来れなかったのだが、それでも一袋をそのままカゴに入れた氷にぶちまけて、カゴごとわら束と莚で厳重に覆い隠して封をする。
 詳しい原理が小太郎に分かるはずも無いが、大人たちが氷と一緒に生ものを運んだ際に、屋敷でこうしていたのを思い出して見よう見まねで持ってきたのだった。

 トラにまたがり、小太郎は空を見上げた。
 月はすっかり中天だ。――日が昇って暑くなる前に、氷が溶けるまでに、屋敷に戻れるだろうか。
 不安が一瞬胸をよぎる。

「…………」
 しかし、あれほど望んだ真夏の氷は、最早小太郎の手の内にあるのだ。なら、後は己の最善を尽くすのみ。
 小太郎の口の端に笑みが上った。

 息を吸い、すぐに吐きだす。
 もう一度深く吸って、そして叫ぶ。
「行くぞ――!!」

 トラが猛然と走り出した。

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