(7)


 熱気の残る夜の、月下。
 密やかな喧騒が邸内のごく一部に響きわたる。

「……やはりいません……!」
 屋敷に仕えている下男数人が駆け足で寄り来る。
 庭先で立ったままその報告を聞き、渋面の高次は大きく深いため息をついた。
「厩舎はどうだった」
「虎御前が見当たりません。馬具も一式消えています。何より、昼前に虎御前を連れた小太郎を見た奴が何人かいたので、もうそこに行ったと見て間違いないかと……」
「――氷室に一人でか。あいつは時々妙に思い切った事をするな……」
 眉根を寄せ、再度大きく息を吐く。
「……あの子ったら……!」
 その隣では北の方が額を押さえて立ち、その脇には本日たまたま屋敷にいた御頭も騒ぎを聞いてやって来ていた。
 さらに、日が暮れても小太郎が帰ってこないとの報を聞きつけて、ひょっとしたらと駆けつけた老薬師の姿も見える。里の主だった面々が菊の寝込む部屋の庭先にこっそりと集まり、あたかも巨頭会議状態だ。

 話の内容が菊に聞こえるとまた厄介なので、抑えた声量で一同の会議は尚も続く。
 老薬師が心底しみじみとつぶやいた。
「私が迂闊でした……。確かにあの時、行ってくるとあの子は言っていましたが、まさか小太郎一人で馬を駆って出るとは……」
「薬師殿に一切の非はありません。お気になさらず」
 高次は渋い表情を隠そうともしない。
「あれは、ああ見えて馬の扱いだけは歳のわりに巧みなのです。――しかし、子供の浅はかさで後先考えずに出たのでしょうが、子供の操る馬が薬師殿の仰る氷室まで行って今晩中に戻ってこられるとは到底思えません。今ごろは山中の何処かで暗闇に怯えて泣いているのが関の山ではないかと」
「高次」
 御頭が、弟子に対して手厳しい自分の側役を一言で制する。
「――泣いているだけならまだいいが、今頃狼にでも喰われ」
「あなたは黙ってて下さい縁起でもない!」
 そして自分も奥方に制されて沈黙した。
「小太郎はそりゃあ泣き虫でちょっとどうしようもない所がありますけど、それでも菊の事を大事に思ってくれてるいい子なんですよ。そんな縁起悪い事は言わないでくださいなッ」
「……すまん。というかお前、声が大きいぞ」
「あらやだ。……すみません」
 座を、沈黙が包む。
 老薬師の吐いたため息だけが空しく響く。
「――とにかく」
 苦々しげに高次が切り出した。
「夜更けの山中に探しに出た所で、今どこにいるのか分からない子供を見つける事は難しいでしょう。小太郎が向かった氷室は山深い。道の無い山中に迷い込んでいる可能性もある。あの辺りは獣も多い上、賊も時折出る。迂闊に出ればこちらも共倒れになりかねない。……夜が明けねば、捜索を出す事は出来ません」
 冷たく響いたその言葉に、北の方が夫を振り仰ぐ。肯定の意を以って緩く頷き、御頭が口を開いた。
「屋敷の者を、無謀な行いをした人間の為に危険な目に遭わせる訳にはいかない。皆に探しに行かせるならそれは明朝、夜が明けてからだ」
「でもあなた」
「命令だ。――高次、皆にもそう伝えろ。外に出る必要は無い」
「御意」
 庭を去っていく御頭に、高次が恭しく頭を垂れる。そして、自身もその後に続いて去って行った。 絶対の命令が残された庭で老薬師と二人、北の方は顔を見合わせて大きなため息をつく。
「……いくら泣き虫とて、小太郎は忍の修行を受けた者。その辺の子供とは違う……と思います。きっと、大事には至りますまいよ」
「ええ。――無事で……いるといいのですけど……」
 ――見上げた空は、どこまでも暗い。


 いつまでもため息ばかりついていても仕方がないですなと言い残し、老薬師は帰って行った。その後姿を見送り、北の方はそれでもため息をつきながら菊の部屋へと障子を開ける。
 蚊帳の下ろされた室内は、ぼんやりと小さな灯りが一つ燈っているだけで、月の出ている野外よりも幾分暗い感じがする。寝ている菊を起こさないようゆっくり蚊帳をめくり上げ、北の方は静かに中へ体を滑り込ませた。
 しかし、人の気配を感じたのか、寝ていたはずの菊がゆるりと目を開ける。
「………母上?」
「――あら、起こした? ごめんなさいね……気分はどう?」
「暑い。……気持ちが悪い」
 ひとつ大きく呼吸をし、目を閉じて菊が答える。薄暗い中にほのかに浮かぶその顔は、普段よりも一層青白い。北の方は枕元に膝をつき、菊の額に汗で張り付いた髪を分けてやった。
「母上」
 菊の瞳が再び開かれる。
「何?」
「………小太郎は?」

 ――さっきの話を聞かれていたか。
 瞬間、北の方の動きが止まった。

 話を聞かれていても何らおかしくはない。庭先で大声で喚いてしまったのは誰でもない自分なのだから、今ここで誰を責める訳にもいかない。
 ……何をどこまで話すか。
 小太郎がまだ帰って来ない事を伝えるか。
 病床の菊に下手な事を言うのは憚られる。これでもし探しに行くとでもごねられたら事である。……どうするか。
 刹那、色々な思考が北の方の身の裡に去来した。

「―――――寝てるんじゃ、ないのかしら? もう遅いし。ね、絶対そう」
 とりあえず、無難な言い訳を出して微笑んでみる。
「………」
「………」
 菊の応えはない。何も言わず、ただ黙って布団の中から天井を見ているだけだ。
「えーと………菊?」
 やはり無理があったか。

 菊が寝返りを打った。
「……なんで来ないんだろう」
 北の方に背を向け、小さく呟く。語尾は僅かにかすれている。
「私が寝込んでるのに、小太郎は一回も見舞いに来てくれないんだ。いつもはうるさいくらいくっついてくるのに、ここのところ顔を見せにも来ない。もう……全然会ってない」
 聞き取れるか取れないかくらいの細い声でさらに続ける。
「……私の事なんて忘れてるのかな。忘れて、私の事はもうどうでもよくなったのかな……」

 菊に黙って独自に修行を進めていた小太郎。
 その理由は菊を思うが故の事だったけれど、そしてそれを嬉しく思ったのも本当だけれども、菊は、嬉しいと思う前にほんの少し寂しさを感じていた。

 じゃれて甘えてくる姿や普段見せる表情は、拾ったばかりの頃の無邪気なそれと大差無い。だが、それでも最近の小太郎は、時折菊の知らないようなひどく大人びた顔をする事がある。幼かっただけの頃とは違い、物の考え方もだいぶしっかりしてきた。
 拾った頃は自分を見上げてくるばかりだったのに、今では目線も日に日に近くなってきている。自分が大人になっていくのと同じように――否、それよりも早いような速度で小太郎も成長してきている。
 今までは二人の間に男女の性差を意識した事など無かったが、そうも言ってられない時期が迫ってきているのは確かだ。きっと何もかもすぐに追いつかれて、そして抜かされていくのだろう。

 ――もしかしたら、そのまま置いていかれるのかもしれない。
 置いていかれ、顧みられる事は無いのかもしれない。
 菊の方が側にいたいと望んでいても、小太郎はそう思ってくれない日が来るかもしれない。

 ……菊は、熱に浮かされながら漠然とそんな事を考えていた。


「なあに、そんな風に考えてたの? ……そんなのは全然、あなたの考えすぎ」
 北の方が微笑んだ。
 自分に背を向けたままの菊の頭をゆるく撫でる。
「小太郎まで風邪を引いたら大変でしょ? だから私が、伝染るからこの部屋には近づいたらダメよと言ったの。あの子はその言いつけを守ってるだけよ」
「でも」
「そうじゃなかったら、この部屋にはいつも誰かしら大人が居たから、入り込もうとしても入れなかったんでしょう。……スキあらば入り込もうとしてた小太郎が叱られてるのを見たのも、一回や二回じゃないもの。菊が気がつかなかっただけで、小太郎はきっとこの付近をチョロチョロしてたはずですよ」
 軽い調子で言われたその言葉に、菊が笑う。
 ようやく笑顔を見せた娘に北の方も笑んで見せ、寝返りを打った拍子に菊の額から落ちた手拭いを拾って、再度冷水に浸して額に乗せてやった。
 そして続ける。
「忘れてるなんてとんでもない。小太郎ほど菊の事を大事に思ってくれてる子なんて、そうそういませんよ」
「そうかな……」
「そうよ。だってどうでもいい子のためにあんな遠い所まで馬を出すなんて、普通はしないで」

 沈黙。
 両者の動きが止まった。

「ハイ今のは忘れて」
「待った母上今なんかちょっと」
「ハイハイハイほらお薬きちんと飲んだ? 食事は」
「母上、小太郎はホントに寝てるのか? その前に屋敷の中にいるのか?! 待って母上、小太郎を連れて、イヤそう言えばさっき庭先で人が集まって何か話してたみたいだけど、母上っ」
「あ―――ッ誰か! 誰かここへ!! 菊が寝付けないみたいなの薬湯をだれか!」
「くッ……!」
「ああッ菊起きないで起きちゃダメ熱がまだ全然引いてないんだからあなたー! あなた早く来て――!!」
 
 ――母娘の攻防戦の結果はいかに。


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