(6)


 目が重い。開かない。
 体も、動かない気がする。あちこち痛い。そして寒い。
 ――寒いと言うより、心細くて、怖い。
 
 自分は一体どうしたのか。
 川に落とされ、そのまま濁流に呑まれて流された。――そんな記憶がある気がする。
 体を横たえ、ぼやけた意識のまま、辛うじてなんとか動く右腕で周りを探ってみた。
 寝具としていつも使っている古い筵(むしろ)の荒れた感触を予想していたのだが、手に触れたのは驚くほど柔らかな布団の感触だった。

 母を呼ぶ。
 声は、自分でも驚くほどかすれていたが、誰もいない部屋では思いのほかよく響いた。自分の寝かされている薄暗い室内は、貧しい農村に育った身では今まで見る機会も無かったようなあつらえだったが、どうして自分がそんな所にいるのかという事にまで頭は回らない。未知に出会った幼い子供の多くがそうするように、ただうろたえて本能的に母を呼んだ。
 ……だが、いくら呼んでも母親がやってくる様子は無い。
 来ない母親と見慣れない室内に怯えが生じ、あちこち痛む体を起こして布団を這い出た。
 骨が傷んでいるのか、立たない右足を引きずり、枯れた喉を再度震わせて母を呼ぶ。声はすでに嗚咽混じりで、語尾は言葉になどなっていなかった。
 それでも尚も母を呼ぶ。
 
 体中が痛い。気持ちが悪い。寒い。
 自分では泣いているつもりなのだが、声はただ脆弱で、息が漏れているだけにしか聞こえなかったかもしれない。
 怖い。痛い。
 ここはどこだろう。
 父親と共に家を出たのは確かだ。母親は、その日朝から出かけていて居なかった。
 山道をたくさん歩いて、よく一緒に遊んだ顔見知りの子供達がやはり親に連れられて来ていて、道はもう真っ暗で、帰りたいと言っても聞いてもらえなくて………
 仕方が無いんだと、言われて。

 ああそうだ。
 ――その直後、友達が崖から落とされた。

 襟首をつかまれ、出来るだけ遠くにと放り投げられて宙に舞った小さな体。泣き叫ぶ声は真下を流れる濁流の轟音に軽々と紛れて消えていった。
 脳裏に、鮮烈にその光景が蘇る。

 逃げ惑う子供を追い、首を掴み腕を引き、半ば親達も泣き叫びながら――

「ぐ…ぅッ……」
 戻そうにも胃内に吐ける物など入っていない。自分のいた村は、最後に摂った食事がいつだったかさえ思い出せないような状況だったのだ。胃液のみが乾いた喉を灼いて逆流する。ようやく立ちあがりかけていた足がぐらりと絡み、成す術もなく畳の上に横転した。傷ついた体をしたたかに打ち付け、目の前が再び暗くなる。
 母を呼ぶ。声など出ない。胸の内で、ただひたすら母を呼ぶ。
 ――早く来て、助けてと、それだけを念じて。
 

「………だいじょうぶか?」
 幼い響きの優しい声がして、再び目が覚めた。
 さっき目が覚めたときよりもはっきりとした意識の元、声がした方へ首を向ける。
 畳の上で倒れたように記憶していたが、体はきちんと布団に納まっていた。ただ、母親の姿はどこにもない。その代わりに、仕立ての良さそうな着物を身につけた少女が枕元にちまりと座っている。
 目を瞬いていると、小さな手を伸ばして髪を撫でてきた。
「ちょっと目を離したすきに布団からでてたから、びっくりしたぞ。転んだのか? どこかぶったか?」
 そろそろ目が覚めるんじゃないかと思って、食事を取りに行っていたのだと、少女が屈託なく笑う。その周りには年配の女が二人ほどいて、手当てに使ったものらしい薬箱などを片付けたりしていたが、その顔にはやはり見覚えが無かった。
 その不安が顔に出ていたのだろう。顔をのぞき込んで少女がさらに続ける。
「なんにも心配いらないぞ。 おまえは、菊が拾ったんだから菊の子だ。父上にも母上にも高次にもそう言ってあるから、もうなにも心配しなくていい。おまえは、今日から、うちの子だ」
 半信半疑ながらも、心配ないと笑うその言葉にようやく安堵して目を閉じる。
 言葉と共に頬や額に触れてくる手の平は温かく、そして優しい。自分とそんなに大きさは違わないのに、どうしてだか母親のそれと似ているような気がして、また涙が溢れた。
「どうした? 男の子は、泣いたらいけないんだぞ」
 幼い声が柔らかく響く。


「小太郎」
 菊が満面の笑みを浮かべてこっちを見ている。
「こたろー。今日からおまえは小太郎だ。菊が考えた。――ふふ、いい名前だろ」
 一瞬誰を呼んでいるのかと思ったが、どうやら自分を呼んでいるらしい。
 なぜ小太郎なのかと不思議な気もしたが――いや、それ以前に自分には実の親から与えられた名前がきちんとあったのだが、嬉しそうな菊を見ていたらそんな事は気にならなくなった。
「ケガがよくなったら色々あそんでやる。だから、早くなおすんだぞ」
 あれもこれもと遊びの算段を出す菊の笑顔に、なんだか無性に甘えたくなって、傷の癒えかけた体を動かし腕を伸ばして頬を寄せる。
「なんだ? 甘ったれだな小太郎は」
 大人びた口調で菊が笑う。

 
 その頃の里には、菊の友達となり得るような家柄の子供は、菊よりも年上か一緒に遊ぶには物足りないくらい年下の子供たちしかいなかった。
 それでも下男下女等、屋敷の下働きや里の下忍家辺りには幾人かいたのだが、菊の意思とは裏腹にその子らの親の方が憚ってしまって、御頭の一人娘である菊とは一線を画させていたのだ。
 故に、友と呼べるような親しい子供などは殆ど皆無で、加えて唯一の直系後継者と言う立場上、普段から大人たちに囲まれることの多い生活を送っていた菊は、歳の似通った遊び友達がどうしても欲しくて仕方なかったのだろう。間引きされかけたような拾い子を、あろう事か当主の住まう居館に入れるなんてと渋る周囲の大人たちを説得し、両親に無理を通して、菊は屋敷の離れに小太郎を住まわせた。
 ――これでいつでも一緒だと笑った菊の笑顔が、そのときの小太郎には何よりも嬉しかったのを今でも覚えている。

 殺されかけた記憶と捨てられたという痛み。未だ耳に残る友人達の断末魔にうなされる夜も、菊が隣にいてくれれば他のどの大人が側にいる時よりも心が安らかになれた。
 多分もう二度と会えないだろう母親を思い出して胸が痛んだ時も、邪推した妬みから菊の従兄弟連中に酷い虐めを受けて大怪我をした時も、いつもいつも菊は側にいてくれた。
 ――いや、いじめられたあの時は、菊一人でさっさと小太郎の敵討ちに行ってしまったので(そして見事なまでに大勝利を上げて帰ってきたのだが)側にいてくれたとは言いづらいが、まあとにかく。


 太陽はいよいよ中天に差し掛かり、岩だらけの中にまばらに生えた木々の上から射し込む真夏の日差しが、無心に山中を征く小太郎の肌を焦がしつけるように灼いていく。汗は額から噴き出して頬を伝い、珠となって中空に散る。

 止めどもなく流れる汗を肩口で乱暴に拭って前だけを見据え、大切な人のために、小太郎はトラを疾駆させた。
 


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