(5)


 四方を山に囲まれたこの地は、云わば天然の要塞なのだと皆が言う。
 急な峰に抱かれた盆地に作った里の名は一ヶ谷。住む民のほとんどが、一ヶ谷衆と呼ばれる忍の者だ。
 下手な大名家よりもよっぽど統率の取れたその主従形態は独特で、御頭と呼ばれる統領を筆頭として血族一党の上忍でその脇を固め、それ以下は、身分素性問わずの為に末端まで把握しきるのは難しいような中忍下忍の面々で構成されている。
 また、国内諸藩の方々に情報収集の為に放っている者もおびただしく、その数まで含めれば、規模的には小さくとも立派に一つの領国と言えた。

 戦国時代中期から末期にかけての軍事最盛期には、山二つ向こうの村々までの総てが里の者に従って、戦に関わる仕事を生業としていたと今に伝えられているこの一ヶ谷の里。
 現在では、近隣村民はほとんどが百姓、もしくは細々とした職人だが、それでもこの里だけは江戸徳川の御世に於いても未だ名高い忍の産地であった。


「薬師様、菊の薬を取りに来たよ!」
 その里の山裾に位置する庵。
 太陽が昇ってしばらくの、まだ過ごしやすい時間帯。玄関門を通らず、生垣の下から直接庭先に潜りこんで小太郎が叫ぶ。
「――小太郎かね? 門から入れといつも言うとるだろう」
「こっちの方が近道なんだよ。それよか菊の薬、今日の分! 早く早く!」
 その言葉に、老薬師が苦笑しながら部屋から顔を見せる。 
「菊様の具合はいかがかね?」
「………俺、伝染るからって全然部屋に入れてもらえないんだ。だからよくは知らないけど、まだ熱が高いって。そんで食欲はやっぱりまだ無くて、でも腹が痛いとか喉が痛いとかってのは無いって」
 伝えるように言われた内容を正確に復唱し、小太郎は老薬師を見つめる。
「もう大分経つがまだ熱が引かぬのか。連日猛暑が続いておるゆえ、お食事だけでもしっかり摂って頂きたいのだが……」
 庭先で待つように小太郎に指示し、今聞いた症状に合わせた調合を始めるべく、老薬師が薬棚を探る。
「薬師様、菊、治るよね」
「治るとも。ただ、ちょっとばかり長引いておるようだな」
 小太郎が薬を取りに来るようになって数日、菊の治りはあまり芳しくなかった。命に別状をきたすような病では無いとは言え、ただでさえ弱っている所にこの暑さでは体力の消耗も激しい。それが思いのほか回復を妨げている。
 小太郎にこんな事は言えないが、このままの状態が続けば良くない事は明らかだった。
「……少しでも涼しくなればの」
 小さくつぶやく。
「雪、降らないかな」
 聞こえていたらしい小太郎もボソリとつぶやいた。真夏の盛りに雪が降るわけは無いのだが、子供らしい発想に薬師は微笑む。
「菊、うわごとでずっと暑い暑いって言ってるんだって。だから俺、沢の方に行って冷たい水とか取って来るんだけど、そんなのすぐにぬるくなっちゃうんだ」
 縁側に座り、うつむきながら小太郎は続ける。
「雪がほんとに降ればいいのに。……そしたら、菊も暑くなくなるから」
「雪かね。氷なら心当たりがあるが」
 隣に立ち、合わせ終わった薬を手渡しながら老薬師が言う。その思いがけない声に小太郎が弾かれたように首を上げた。
「多分まだあると思うのだが、川の上流をもっとずっと上がった山中に氷室が昔あって、そ」
「氷?! 何それ氷ってホントに氷?! えっなに、ヒムロ?!」
「うむ、夏に利用できるよう寒い時期から雪やら氷やらを貯めておく場所を氷室と言うのだが、まあ話は黙って聞きなさい」
 途端に目を輝かせ始めた小太郎を制し、更に続ける。
「私が見つけたのは人為的に作られた物のようだったんだが、天然の物を流用していたらしく、荒れ放題ではあったんだけども真夏でも大きな氷がゴロゴロしていた。それを見つけたのは五年前かそれくらいだったから、もしかしたら今でもまだあるかもしれない」
「そこに行けば氷があるんだ……!」
「保障は出来んがね。かなり遠いが、詳しい地図を書いてあげるから屋敷の誰かに言って取ってきてもらいなさい」
 氷氷と嬉しそうに繰り返し、目を輝かせて小太郎が何度も頷く。
 さっそく書いてもらった地図と薬とを大事に懐にしまい、着物の上から所在を確かめるように何度も押さえ、そして小太郎は走り出した。
「ありがと薬師様! 俺いくよ!!」
「おお、気をつけて帰るのだぞ。御頭さま方によろしくお伝えしておくれ」
 来た時と同様、門ではなく生垣をくぐりぬけて帰っていく小太郎に老薬師は手を振る。
 まあ、しょんぼりした顔をされるよりいいかと、苦笑しながら。

「……………ん?」
 ふと思う。
「………まさか、自分で行くつもりでなかろうな………?」

 小太郎の後姿は、もう遠い。


「あら小太郎、もう戻ったの?早かったのね」
「お方様ッ!」
 小太郎が息せき切って屋敷に駆け戻ると、門近くの庭先に偶然北の方が居た。
「これ菊の薬! そんで、俺ちょっと出かけてきます!」
「はいありがとう。遊びに行くの? 山に行くなら蛇と毒虫に気をつけなさいね」
 懐から急いで薬を取り出し、半ば押し付けるように北の方に渡す。
「川に行くなら」
「行ってきます!!」
 話もそこそこに小太郎が再度駆け出した。
「……溺れないようにしなさいねー」
 聞いてはいないだろうと思いつつ、北の方は声を張り上げる。
 
 
 厩舎に走りながら、師匠に無理を言って馬術を教えてもらっといて本当に良かったと小太郎は考える。菊が習い始めたのを見て羨ましくなったのが始めたきっかけだったが、こうして早速役に立とうとしている。
「えーと……あ、いた」
 大急ぎで支度をした後で厩番にばれないようこっそり潜り込み、目当ての馬まで腰を屈めて近づいた。
「トラ、俺だよ」
 のんびり飼葉を食んでいる馬の首をしゃがんだままで撫で、話し掛ける。
 トラは、菊と小太郎が馬術を習う時に使っている馬だ。身体は他の馬に比べると多少小柄だが足が丈夫で、気性も至極穏やかなので、小太郎は連銭葦毛のこの馬が大好きだった。
 ちなみに、トラとは小太郎が勝手に呼んでいるだけの名で、正式名は虎御前という。
 年頃のかわいい雌である。

「あのさ、菊のために氷を取りに行きたいんだ。乗せてって欲しいんだけど」
 トラが嬉しそうに小太郎に鼻面を擦り寄せてきた。周りの馬より小柄とは言え、自分よりははるかに丈高く逞しいトラの首に抱きつきながら小太郎は続ける。
「遠いんだって。俺の足だけじゃ持って帰ってくる前に絶対溶けちゃう。だからトラ、頼むよ」
 もらった地図に記されていた山は、小太郎の知らない土地だった。里の外れを流れる川を上流に上がり、更にその上を分け入るような奥深い所に氷室とやらはあるらしい。
 かなりの距離ではあるが、昼前の今の時分にトラで出れば何とかなるだろう。
 ……いや、帰りはきっと日がすっかり落ちてからになるに決まっているが、その事を憂慮している暇はない。トラに手綱と馬具一式をつけ、小太郎は厩舎を抜け出した。

 屋敷の門を目指し手綱を引く。
 途中何人かにどこへ行くのか聞かれたので、バカ正直に氷を取りにいくと言ったら笑われた。真夏に氷があることの説明をしてもよかったのだが、その時間が惜しかったのでさっさとトラを引いて庭を行く。
「菊……」
 門をくぐり出て、氷を取るための道具やカゴなども背負わせたトラにまたがり、手綱をしっかり握り締めながら、小太郎は菊の寝かされている部屋の方向を振り返った。
 菊は未だ高い熱にうなされている。伝染ったらいけないという理由で、小太郎は面会出来ない。せめてと思って部屋前の庭先から中をのぞこうとしてみたりしているのだがそれも阻まれ、結局ここ数日菊の声すら聞けていない。

 一人で遊んでも何も面白くないし、修行だって身が入らない。一人の時間は過ぎるのがいつもよりうんとゆっくりで、夜もずっと暗く長く感じる。
 一人ではダメなのだ。やっぱり菊と一緒がなんでも一番楽しくて、そして嬉しい。
 ……だから、そんないつもの日常が早く戻ってくるといいのに。

「すぐ帰ってくるから……!」

 川沿いのある程度までは近隣の民が行き来に使う道が一応ある。問題は道が消えてからだが、トラの足は丈夫だから、ある程度は悪路でも平気だろう。
 馬の扱いだけなら菊よりも上手い。早く行って、早く帰ってこられるはずだ。――氷を持って。

 一人決意して頷き、岩だらけの荒れた山道を上流目指して、小太郎は馬首を巡らせた。




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