(4)


 深夜。
 夜もすっかり更けたというのに、屋敷は未だ喧騒の内にある。

「……鬼の霍乱と申しましょうか」
 当家付きの年経た薬師は、そう言って菊の寝かされた部屋から出てきた。
「普段は至極健康な方ですからな。ただの夏風邪と見受けられます。今のところは御命に別状ございますまい」
 その言葉に、揃って部屋から出てきた菊の両親と、異常を聞いて庭先に集まった屋敷の者達が安堵の表情を見せる。大人たちに混じって庭に立つ小太郎も同様に胸を撫で下ろした。
 先代の当主の頃より屋敷に仕えるその老薬師は、御頭夫妻と庭の皆を見回してさらに続ける。
「だが、御年の割に修行だ鍛錬だ学問だと日頃よりかなりのご無理をなさっている方ゆえ、今回の疾病は過労に拠るところも大きいはず。無理の積み重ねと病で弱っている御身に、この暑さが祟らねば良いのですが……」
 日の落ちた夜とは言え、真夏の盛りの大気は熱を孕み、不快な湿気を多分に含んでいる。
 じっとりとまとわりつく重い暑さは健康な大人でも辛いのに、熱の上がった小さな身体ではさらに苛烈に感じるだろう。
 皆の未来を担う大事な身に日々無理を強いたのは己の責と、主君に深く頭を下げる高次を見て、小太郎は考える。
(そういえば昼間、川で濡れたけど……)
 菊が寒さを訴えたのは川からずぶ濡れたままで戻ってきた後だった。それは、もしかしたら倒れた要因に少なからず関係しているのではないだろうか。
 そして菊が濡れたのは溺れた自分を川から引き上げるためだ。……そう思い至って、小太郎は息を呑んだ。

 菊は、里の皆からかかる期待と重責に応えるべく、女子の身ながら日々過酷な修行を己に課している。それに加えて、拾われ子だ弱虫だ何だと里の子供達から嘲笑の対象になっている小太郎を鍛える為に、少ない自由時間を削って小太郎の修行を見てやっている。
 川で濡れたのも流された自分を引き上げるため。
 それに菊が寒さを訴えていた時に、変に意地を張らずさっさと大人たちに伝えていれば、ここまで大事にはならなかったかもしれない。
 なら、菊が倒れたのは総てが自分のせいではないだろうか。
 日頃の無理が一気に出たのだろうと言う大人たちの声が、小太郎の耳には虚ろに聞こえてきた。

「俺のっ」
 思わず近くにいた大人の裾を引く。
「ん? なんだ小太郎」
「俺のせいだ! 菊は、俺のせいで熱出したんだ」
 切羽詰まったその声に周囲の視線が集まる。集中する大人たちの視線に少し萎縮しながら、小太郎は尚も続ける。
「俺がいつもいつも迷惑かけてるから……! 今日だって」
「お前の所為だけじゃあない」
「違う! ぜったい俺のせいだ!」
 見る見るうちに小太郎の目に涙が溜まる。とは言え泣いてる場合ではないので、ぐっと堪えて口を開くのだが、嗚咽が込みあがってきて声は上手く出なかった。
 堰を切ったように溢れ出した涙を着物の肩口で交互に乱暴に拭き、大きく呼吸をして喘ぎ喘ぎ言葉をつむぐ。
「どうしよう……っ、菊になんかあったら俺どうしよう……!」
「お前みたいなガキが気に病んでも仕方ないだろ。立派なお医者様がついてるんだ、菊様ならすぐに良くなられるさ」
「でも!」
 菊と小太郎の仲の良さは屋敷中に知れ渡った事である。菊が小太郎をしごいている事も、何だかんだと年上ぶって面倒見ている事も、もちろん皆が知っている。
 菊の病は自分のせいだと泣く小太郎だが、誰も本当に小太郎の所為だとは思っていないようだ。

 ――それが、妙に歯痒くて。菊が自分のせいで伏せっている現実が辛くて。
 大好きな人が自分のせいで辛い目にあっているのに、自分は何も出来なくて。
 どうしたらいいのか何を言えばいいのか。いっそ全部お前のせいだとでも言ってもらえれば気が楽になるのか。小太郎は、とうとう堪えきれずにしゃくり上げた。

「小太郎」
 突如、離れた所から名を呼ばれた。
 はっとして顔を上げると、片付けをする薬師の近くから自分を見ている女性と目が合った。涼しげな顔立ちのその人は、しっかりとした眼差しで小太郎を見つめている。
 菊の、母親だ。
「小太郎」
 早くこちらへ来いとの手招きと共に、再度名を呼ばれる。
 自分の名を呼んだその人の隣には、普段は顔すら滅多に見かけない御頭――菊の父親も座している。瞬間、菊の事で叱責されるのだろうと小太郎は思ったが、それでも二人のいる縁側まで早足で近寄る。
「小太郎、男の子がそうそう涙を見せるものではありません。菊がいつも言っているでしょう」
 縁側に膝を付き、小太郎の目を見てその人は、菊とそっくりのはっきりした眼差しでそう言った。
「お方様ごめんなさい、菊は、俺のせいで病気になったんだ……」
「夏風邪なんてひく時は誰でもひきます。あなたは気になどしなくていいの。ほらもうそれより鼻かみなさい、ベタベタですよ」
「でも」
「でもじゃありません。はいこっち向く」
 ちゃきちゃきと手際よく子供の世話を焼くその姿は、正に親子と言えるほど菊とそっくりだ。手厳しい言葉とは裏腹に、涙や鼻水で汚れた顔を懐紙で拭ってくれるその手はとても優しくて、そこも菊とそっくりで、小太郎はさらに切なくなる。
「……お方様、菊はほんとに良くなる?」
「あのね小太郎、心配はありがたいけど、そんなに泣かれたら却って菊は怒りますよ。私はそんなにヤワじゃないって」 
 柔らかく微笑まれ、小太郎も少しだけ笑う。
「菊……今はどうしてんの?」
「薬を飲んで寝てます。夜も更けたし、あなたも今日はもう休みなさい」
 その横で寡黙な御頭も頷く。有事の際には誰よりも非情で、敵の頭をその乗騎ごと一刀に断ち割ったという逸話をも持つ男であったが、それでいて女子供には穏やかで優しい。
 ほんの微かにではあったが珍しく笑み、妻の隣から手を伸ばして小太郎の頭を一つ撫で、老薬師と共に奥座敷へと去っていった。
 ちなみに、それに付き従う高次が小太郎の言葉づかいとそれに全く無頓着な北の方に眉をひそめていたのだが、当人達はそれに全然気付いていない。

 北の方が夫たちを追って立ち上がり、庭に集まった面々に対して口を開いた。
「皆、菊のためにわざわざすみませんでしたね。もう遅いゆえ、下がって結構ですよ」
 そして小太郎に微笑む。
「小太郎も早く寝なさいね」


 屋敷の面々が四方に散っていく中、小太郎だけはその場から離れる気になれない。
 意気消沈している小太郎に何人かが声を掛けてくれたが、その声も耳には入らない。

 菊はたかだか風邪をひいただけなのに、その事が世界の終わりのように思える自分はもしかしたら冗談抜きでものすごく弱虫なんじゃないかと思い、小太郎は大きくため息をついた。


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