(3)


 小太郎は、菊が拾った子供だ。

 数年来続いていた不作。ある年の秋、菊たちの住む里近隣の農村では、食い扶ち減らしの為の子供の間引きがあちこちで相次いだ。
 夏はどうにかして凌いだものの、期待していた実りが今年もほとんど無かった秋に、親達はとうとう見切りをつけて、冬が来る前にと自分達の子供を “引いた”のだ。

 間引かれる子供は年端の行かない小さな子供ばかり。その小さな我が子を崖から落として眼下の川へ、文字通り、『捨てる』。
 皆、きっと何も分からないまま死出の旅路に連れ出されるのだろう。菊達の里の付近をも走るその川辺に、当時時折流れ着いた小さな遺体は、仕方が無いとはいえあまりにも無垢だった。


 その時、菊は父親と川べりを歩いていた。
 ふたりの数歩後ろを、父の側役である高次が影のようについて来ている。
 そもそも、間引かれた子供の死体が流れ着いているかもしれない場所に、幼い娘を伴って歩く事を父は厭っていた。しかし、そこまでに飢えた村は既に間引きを終えたのか、はたまた間引きの手立てを代えたのか、この所はめっきり減ったという屋敷の者の言と、家に滅多に居る事の無い父との散歩を普段聞き分けの良い菊が珍しくねだったという事で、父娘は久々に連れ立って散歩へと出る事になったのだった。
 ……だが、そこに流れ着いていたのが、小太郎だった。

「……上流の崖から落とされたのでございましょう」
 我が子を間引かねばならぬほど餓えている民はやはり未だ多いのかと、ため息混じりに高次が手を合わせたのを菊は覚えている。
 石の多い水際に打ち寄せられ引っかかり、流れに髪と着衣の裾を揺らされながら仰向けに倒れている様子はどうみても死体そのもので、死体に慣れている忍ふたりが見間違えたとしても不思議ではなかった。
「惨いものだ……」
 うちの娘と変わらぬ年頃だなと父親がつぶやき、お前は見てはいけないと菊の手を引く。
 あとで弔いの為に人を寄越そうと囁きあう大人たちに手を引かれ、菊は一歩を踏み出した。



 ……どうしてその時に振り返ってみたりしたのだろう、とは今もよく思う。
 予感、だろうか。何か感じるものがあったのには違いないが、それが何であるかは菊本人にもよく分からない。昔の事過ぎて覚えていない。
 ――死体を怖がらないのは忍という職に於いて大切な事であると、後に高次などは妙な褒め方をしたものだったが。

「どーした菊、ぼんやりして」
 夕暮れ時。屋敷の縁側に腰かけ、下駄を引っ掛けた足をブラつかせながら小太郎が能天気に問う。
 先刻まで溺れかけて泣いていたのに、河原から手を繋いで帰ってきた今では、すっかり泣き止んで上機嫌だ。
「……お前を拾った時のことを思い出していた」
 濡れた着物を着替え、菊も小太郎の隣に腰掛ける。男の子のようだった先程の格好とは打って変わって、少女らしい華やかな小袖姿だ。
「父上も高次も、死体が流れ着いたものとしか見てなかったからな。私がお前にまだ息がある事に気が付かなかったら、小太郎はあのままホントに死んでいた」
「師匠にもよく言われる。菊様はお前の命の恩人だから、何があってもぜったい奉公し尽くせって」
 何がそんなに嬉しいのか、小太郎が上機嫌に笑う。その頭をひとつ撫でてやって、菊は庭を見つめた。夏の庭は下生えの緑も色濃く、夕暮れであってもあちこちの木々で蝉の声がうるさく響く。その音に耳を傾け、菊が小さくつぶやいた。
「……私に拾われなければ、お前も忍になぞならずに済んだんだろうがな。こればかりは因果と思ってあきらめてくれ」



 流れ着いたその子供は、虫の息ではあったが未だ生きていた。
 吐息は細く衰弱しきり、身体もあちこちが擦りむけて酷く傷んでいたが、駆け寄った菊が声をかけて身体を揺すると、その目がうっすらと開かれたのだ。
 
「………母ちゃん………」
 満足に動かせもしない指を、傍らに膝をついた菊に弱々しく伸ばして子供が喘ぐ。
 川の流れに長い間晒されていたのだろう。肌はすでに色が無く、岩にぶつけて切ったらしい幾つかの傷口だけが生々しい内側の色を見せていた。
 父が急ぎ火を起こし、高次が人を呼びに里に走る。
 その傍ら、冷えた身体を起こす体力すら失ったその子の頭を自分の小さな膝に乗せて、菊は傷だらけのやせ細った手を取った。
「痛いのか? でも、もう、だいじょうぶだからな」
 そのまま顔を撫でてやる。冷えた頬を暖めるように、ゆっくりと何度も。
 安堵からなのか痛みからなのか、その子の目尻から涙が零れ落ちていった。未だ乾ききらない川の雫と共に、その涙は菊のひざに吸い込まれていく。
 細く消え入りそうな声で、その子が嗚咽混じりに母を呼ぶ。
 声は、ほとんど聞き取れないような弱さでしかなかったが、痛みや寒さ、つらいもの総てに耐えるための呪文のように、その子は繰り返し母を呼んだ。
「なにも心配いらない……だから……泣かないで……」
 ――どんなに母を呼んでも、その声は決して届かない事が菊には分かっていたから。
 力無く涙をこぼすその子を、菊はやさしく抱きしめた。

 もう、随分と前の話である。



「しかし……拾ったときは無茶苦茶やせっぽちだったし、背も私よりずっと低かったから『小太郎』と名付けたのに、今じゃ私とそう変わらないから、男はズルイと言うんだ」
 じゃれつこうとしてくる小太郎を軽く制し、真夏だと言うのにきっちりと着込んだ感じの小袖の合わせを、さらにきっちり揃えながら菊が言う。
「そんな事言って、菊の方がまだ背ェ高いだろ」
「うっさい。小太郎はもっと小さくないとダメだ。小さくてよく鳴いて、耳が垂れてるから小太郎なんだ」
「は?」
 菊の説明に小太郎は首をかしげる。
「俺、耳なんかたれてないけど……」
「いや、小太郎はタレ耳で尻尾がふっさふさで雑種なカンジがするから」
 かすかに笑みながら言われた内容に、小太郎が顔をしかめた。
「それ犬じゃん」
「お前はいつも犬っぽいぞ」
 菊の言葉に遠慮はない。


「……にしても、真夏とはいえ日が落ちると結構冷えるな……」
 ふて腐れ、こちらに背を向けて縁側に丸く寝転がった小太郎を尻目に、菊がつぶやく。
 その姿からしてやっぱりイヌのようだと思ったが、口には出さないでおいた。
「え――、まだまだ全然蒸し暑い。寒くない。菊おかしい。あー暑い暑いっ」
「そうか……? なんだか、肌寒い気がするんだが……」
 すっかり日の落ちた庭の縁側から立ち上がり、菊が体を震わせた。夏に寒いのはおかしいじゃんかとひとりごち、ふて腐れた顔のままながらも、小太郎も続いて立ち上がる。
「小太郎、中、入ろう」
「へっ? …………あ、うん」
 急に声に元気の無くなった菊に小太郎は内心ちょっとビックリしたが、先程の犬発言に少なからず傷心でご立腹だったので、敢えて気にしていない素振りで歩き出す。

「…………」
 菊は自分のすぐ前を歩いている。
 別に普段と変わったところは無いように見えるのだが、屋敷内に入った今でもまだ寒いのか小袖の合わせ部分をしっかり押さえ、自室に向かって言葉少なに進む。
 その後ろをちょこちょこと、小太郎も歩を進める。
 広い邸内、ましてや夕餉の支度に屋敷内が一番忙しい時間帯だ。廊下ですれ違う大人たちは二人を――と言うよりは菊を見かける度に挨拶はしてくれるものの、忙しそうに立ち行くばかりでそれ以上は話しかけてこない。
 昼間とはどこか雰囲気の変わった菊を案じつつも、どこが変なのか特には分からない小太郎は、まあいいかと黙って菊の後ろをついて行く。

 でも、やっぱり何だかちょっと心配なので、少し前を行く菊の顔をバレないようこっそり覗き込んでみた。
 すぐバレた。
「……どうした?」
「や、なんでもないっ」
 慌ててふるふると首を振る小太郎に、菊が微笑む。
「本当か?」
「ん」 
「なんだ、ひょっとして怒ってるのか、さっきの事」
 イヌ呼ばわりして悪かったなと、やんわり笑みながら差し出された手を握り、薄暗い廊下をふたりで進みながら、小太郎は加えて首を振る。
「怒ってない……けど」
 少し思案して、口を開く。
「……菊、大丈夫か? そんなに寒いなら何かあったかいものもらって来てやろうか?」 
「大丈夫。……どうした小太郎、ヤケにしおらしいな」
「なんだよそれ、さっきからヤケにミョーにシオシオなのは菊のほうだろ」
 怒った口調とは裏腹に、つないだ手をぎゅっと握って、菊の肩口に小太郎が額をこすりつける。
「ミョーは余計だ」
 むっとした表情で菊が返す。いつもの口振りだ。
「ミョーだよ」
「ミョーじゃない」
「だって元気ないじゃんか」
「そんな事ないぞ。小太郎の目は節穴か」
「あうっ」
 空いたほうの手で額を小突かれ、あまりの痛みに小太郎は沈黙した。
 結構痛かったのだが、小突いた後に緩く微笑んでみせた菊の笑顔がちょっと可愛かったので、つられて自分も笑ってしまう。
「節穴め」
「ちーがーうって」
 連れ立って廊下を歩く。つないだ菊の手のひらの熱さがなんとなく嬉しくて、小太郎の足取りは弾む。……半ば、菊を引きずるような形であったが。

 広い邸内を縦断して、屋敷の奥まった一室、菊の居室にようやく着いた。
 中に入ろうとふすまに手をかけた菊に小太郎がねだる。
「菊、今晩いっしょに寝て」
「……ダメ」
「なんでぇいいじゃん俺菊と寝たい」
 忍屋敷の頭目の息女であり、現在唯一の直系後継者でもある菊と、単に拾われた身の小太郎では、この後の食事は内容も場所も別々だ。
 夕飯の後に顔を合わすような用事はないので、今の時点で同衾可の約束をこぎつけておかないと、菊の傍仕えや見張りの者、もしくは不寝番で屋敷内を周る高次の目を盗んで、夜半に寝室に忍び込まなくてはいけなくなる。……なので、小太郎も必死だ。

 ただ、小太郎も菊も、もう一緒に寝ていいような歳ではない。その事を近頃は菊もいい加減分かっていて、どうにか小太郎一人で寝かせようと努力をしているのだが―――
「……なんでお前はそうも甘ったれなんだ……」
 ……やれ雷が鳴った犬が吠えた暗い所が怖い天井の模様がこっち見てると、何かと理由をつけては布団に潜り込んでくる小太郎についついほだされて、結局は一緒に寝てやる羽目になってしまうのが現状だった。
 故に、仮に一回怒られても二回三回四回五回と駄々をこねれば一緒に寝てもいいとの承諾が何とか得られる事を、小太郎は経験上分かっている。今回もそのつもりで小太郎は再度菊の顔を覗き込んだ。 

「…………菊?」
「……すまない小太郎、今日は、ほんとにダメだ……」
 菊の息が上がっている。
「菊!?」
 ふすまに手をかけたまま、その場に菊がへたり込んだ。つないだ手をそのまま引っ張られ、引きずられる形で小太郎もしゃがみこむ。
「……ごめ……、なんだか、目が回っ……て……」
「菊っ!!」
 声を聞きつけた大人たちが廊下の向こうから何事かと走ってくるのが見えたが、気になどしていられない。

 寒いと言っていた筈なのに、いつの間にか熱を孕んで重く汗ばんでいた菊の肩を抱きながら、小太郎は菊の名を呼び続ける。



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