(2)


「菊、ごめん菊、待って」
「知らんと言ってるだろう、誰が待つか!」
 
 走りながら吐き捨てる。
「小太郎、おまえ、自分が他の奴らから何て言われてるか知ってるか? 弱虫で泣き虫の拾われっ子呼ばわりされてるんだぞ、くやしくないのか? それを聞いておまえは平気なのか? 強くなって見返してやろうとか思わないのか?!」
「思うけど」
「なら修行しろボケ!」
 言い合いながら……と言うよりは菊だけが一方的に怒りながら全速力で庭を抜け、何事かと目を見張る屋敷の者を尻目に垣根を飛び越え、途中、追いかけて同じように飛び越えようとして引っかかって転んだ小太郎が立ち上がるのを少しだけ待ったりしながら、菊は里の外れの河原までたどり着く。
 滅多に里人の来ないここは菊と小太郎の格好の遊び場で、そしてふたりが初めて出会った場所でもあった。
 何拍か置いて、ようやく小太郎も追いつく。
 菊が息を整えて川べりの石に腰をかけると、小太郎が息を乱して立ったまま、泣きそうに顔を歪め、眼にいっぱい涙を浮かべて口を開いた。
「あのっ、菊……っ」
 あとちょっとつつけば大泣きするだろう。
 そんな予想が安易に出来て、菊は溜息をついた。突っ立ったままの小太郎を手招きして傍に呼び、動いた拍子にこぼれた涙を手の平でぬぐってやる。

 多分たかだか二つか三つしか歳は違わないはずなのに、何でコイツはこうも意気地が無いかなあと菊はしみじみ思ったが、言ったらまた泣き出すに決まってるので、ここは一つ胸の内にしまっておくことにした。

「……なんで私が怒ってるか分かるな?」
「うんっ」
 ようやく解かれた(ように見える)怒りに安堵し、小太郎がせわしなく頷く。
「修行しろとうるさく言うのも、おまえがキライでいじめてる訳じゃないんだからな」
「うん、分かってる」
 菊が腰掛けた石に自分もちょこんと座って、隣にべったりと張り付いてきた小太郎の頭を撫でながら菊は続ける。
「あのな小太郎、おまえ素振りや投げ打ちの鍛錬は毎日きちんとやってるみたいだが、そんなのばっかり一人で続けてたって腕は上がらないぞ?」
「うん、俺も、そう思う」
 言ってる事の意味を正しく理解しているのかどうか。顔中に満面の笑みを浮かべながら頷く小太郎に、菊は尚も続ける。
「我流って知ってるか? ひとりでばっかりやってると、どうしたって変なクセがつくんだ。それはあんまり良くない事なんだ。分かるか?」
「菊は物知りだな。スゴイな、かっこいー」
「バカ、そんな所に感心しなくていいからちゃんと聞け」
 幼い少女が、年のそう変わらない少年に対して真面目に説教している姿はかなり独特であったが、幸いと言うべきか今ふたりの周囲にそれを混ぜっ返すような人間はいない。
 菊の眼差しは真剣だ。
「徳川が天下取ってからこっち、敵と斬り結んだりするような任務は昔よりうんとへったと父上は言うけど、それでもやっぱり忍なんていうのはいつ死ぬか分かんない勤めなんだ。だから鍛錬だけはいつもきちんとやっておかないといけない。……そうだろう?」
 その言葉に小太郎が神妙な顔で頷く。真面目な面持ちで話を聞く小太郎に、菊の口元に笑みが上った。
「だからな小太郎、ひとりでやっててもダメなんだ。剣術だって何だって、他人と試合って初めて身につくモノの方が多…………」

 ……と、そこまで言ってふと気がつく。
 もともと小太郎は性格こそ内向的なところがあったが、二人で誘い合って行なっていた毎日の修行を厭うような子供ではなかった。なのに、最近になって何故か急に剣術の稽古から逃げるようになったのだ。
 逃げているのは剣術稽古のみなので、単に妙なサボり癖がついたか修行に臆したかと考えて、菊は小太郎を追っかけ続けていたのだが……

「……小太郎、おまえ高次の道場には行ってるか?」
「? 行ってるけど。行かないと怒られるから」
 高次とは、ここら近隣一帯の忍衆の頭目である菊の父親の側役で、任務の手が空いた時などに里の子供達を集めて武器や馬の扱い等を教えている男である。
 手練の忍だが寡黙で厳しく、子供達からはかなり恐れられていた。
「行ってるんだな?」
「……うん」
 意味が分からないというような顔付きで小太郎が頷く。
「………道場に行って何をしている? あそこへ行ったなら必ず試合をさせられるし、さっきみたいに逃げようとしたなら、高次から激しい鉄拳制裁を喰らうに決まっている」
「え」
 なにやら様子の変わった菊の態度に、小太郎の表情が一変した。
 場に突如立ち込めてきた暗雲を察し、くっついていた体を離して距離を置こうと腰を浮かしかけたが、いつの間にやらがっしりと襟を掴まれてしまって身動き取れない状態だ。
「高次の道場にはきちんと行っている……そこでの剣術稽古にも参加している……なのに、私との稽古からは逃げる……」
「き、菊っ、首が締ま……」
「…………そうか、何となく分かったぞ小太郎。おまえ、要するに私と一緒に稽古するのがイヤなんだろう。………だから、逃げる………!」
「……っ」
 マズイまた怒られるって言うか絶対殴られる!
 今度はキッチリ間合いに入っていて、しかもすでに捕まっているのだ。さっきは一瞬の隙をついて逃げ出した(そして隠れた)のだが、今度こそもう成す術は無いと小太郎は固く目を閉じた。
 ――が、怒りを含んだその言葉とは裏腹に、小太郎の襟元を締め上げた手がふっと緩む。
 菊が、ぼそりとつぶやいた。
「……人の気も知らないで」
 つぶやき。
「―――ッ!」
 小太郎を、投げた。

 派手な水飛沫が川面に立つ。
 水深がなんだか結構あるようで、現在地からやや離れた所に、しばらくしてから小太郎が顔を出した。
「―――ぶはッ、ちょ、ゲハッ菊……!」
ザ―――ッ
「やかましいわバカ太郎! 私はお前のことを思っていつもいつも苦心しているのに」
「(ガボガボ)待って、菊、話、きい(ガボガボ)」
「うっさいボケ! 私だって女だからって女のクセにって親戚連中からガタガタガタガタ言われてるのを我慢して毎日色々やってるんだぞ! それをお前と言うヤツは……!」
「菊、ちょ…ガボたすけゲバッ」
 そうこうしている内にも小太郎はガンガン流されていく。辛うじて途中の岩に何とかしがみついたものの、流れがそこそこ速いので自力では川岸に戻れない。
「菊っ、頼むから話きいて――!」
「黙れ!!」
 言い捨て、菊が踵を返した。河原の石を踏み砕く勢いで歩を進め行く。
 もはや振り返りもしない。
 その去っていく様子と、さっきと違って追いかけられそうもない背中を見て、小太郎は観念した。
「――菊!」
 叫ぶ。
「だって、菊は女の子だから!」
 半ば流されかけながら、もう一度叫ぶ。
「菊にケガさせるのは………嫌なんだよ!!」
 泣き声混じりではない、しっかりしたその声音に、菊の足が止まった。

「そりゃ、技や速さじゃ適わないけど、菊の腕は俺よりうんと細いから……」
 何とか川から引き上げられて、全身濡れネズミであちこちから雫を滴らせながら、それでもしっかりとした口調で菊を見据えて小太郎が続ける。
「竹刀が当たりそこなったらアザができるだろ。俺が痛いのはかまわないけど、菊が痛いのはヤなんだよ。高次師匠の道場でケガすんのは、あれはもう仕方ないけど、そうじゃない時に……俺と打ち合って俺のせいで菊がアザ作ったりすんのは………そういうのは絶対イヤなんだよ」
 最後の方は口の中でモゴモゴするような形だったが、それでも菊の目を見て小太郎がつぶやいた。
 小太郎を引き上げる過程でずぶ濡れた身体中から雫を滴らせ、菊は小太郎を睨みつける。
「……私が、女だからとか、女のクセにとか、そういうの言われるのが大ッ嫌いな事くらい、お前知ってるな?」
「知ってる。でも、それとこれとは違う」
 じろりと投げつけられた菊の視線に動じる事無く、小太郎が返す。
「菊は女だ。そんでもって俺は男だ。背は、まだ少し菊の方が高いけど、すぐに追い抜くよ。力は今だって俺の方が強い。俺は、菊を守りたくて、そのために強くなりたいから稽古してるのに、そんなんで一緒に稽古してたら、いつかぜったい菊にケガさせる」
 少し息を吐く。菊は、何も言わずに小太郎を見ている。
「だから菊、ごめん」
「小太郎……」

 小太郎にとって、菊は大事な存在だ。
 今よりもずっと前、小さな子供だった頃。実の親に殺されかけて崖と河へ落とされた自分が、運良く流れ着いたこの河原で目覚めた数年前。――朦朧とした意識の中で一番最初に知覚したのが、菊の声だった。
 小さく暖かい手で冷えきった頬を撫でられ、もう大丈夫だと言われたその日以来……よっぽどの事がない限り、身分だとか何だとかは関係なくずっと共に居る。
 何もかも……衣も食も住も、それこそ名前すらも、小太郎は年のさほど違わないこの少女から与えられて今を生きている。

 ――世の中の、嬉しかったり楽しかったり気持ちよかったりするものは、小太郎には総て菊に起因しているように感じられるから。
 自分の決意を口にすると大人たちは皆笑ったが、それでも小太郎は菊を守って生きていこうと決めていた。

 ……そんな自分が菊を傷つけることは、断じてならない。
 強くて強くて優しくてきれいで、でも少し怖い菊の、腕の細さと指先のしなやかさに今更ながら気がついた時、小太郎はそう心に決めた。

「そうか」
 菊が、ほんのり目元を染めて視線を伏せる。
「うん」
 小太郎が笑う。
「……でもなあ」
「え?」
 襟が、また掴まれた。

「そういう台詞は十年早いと思い知れ!!!」


 再度、それはそれは派手に立ち上る水飛沫。

「うわ―――ん菊たす(ガボガババブ)」
「大口叩くんなら自力で上がって来てみろバカ太郎! バカ! カッコつけ!!」

 小太郎が泣きながら流されていく。
 だから。
 怒っているはずの菊の唇が、ほんの少しだけ笑んでいた事を、小太郎は知らない。



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